そのドラマの企画が事務所を通して俺の元に届いたのは、まだ暑い、夏の日の事であった。企画書の紙をパラパラとめくって、その、主題に目を通す。若くして急逝したチェリストの、生涯を追いかけるドキュメンタリー形式のドラマ。某テレビ局の新春に放送される特別ドラマだと言うそれに、主役として大抜擢されたのは本当に寝耳に水の出来事だった。大のクラシックファンだという監督直々のオファーだというし、注目度も高い、それに、脚本家が好きな人だったので、俺は驚きつつも、その場で了承の返事を出していた。…その、演じる本人の事はよく知らないままで。
***
チェロという楽器を知らない人は、おそらく居ないのではないだろうかというくらいには、世界的にも有名な楽器ではあるが、けれども実際に目にした事のある人は少なく、クラシックのコンサートにでも足を運んだりしない限りは、生の音を聴く機会などない。ましてや、演奏する事のできる人など、世の中でも一握りの人しかいないのだと。最初は、その程度の認識だった。
目の前に置かれたスタンドに立て掛けられている、自分の半身ほどの大きさのその楽器に対峙する。ドラマで使用されるチェロの音は、もちろんプロの方による演奏なので、撮影は弾いているふりでいいと最初から言われていた。けれど、その「エアチェロ」にもリアリティを持たせる為にと、監督が気を利かせてくれて、特別レッスンを受ける機会を設けて頂いたのだ。もとより触れた事のない楽器だ。ピアノの様に押せば音がなるというわけでもなく、最初、一発目、打ち合わせの場で弾かせて貰ったチェロの音は、ギーギーとうるさい雑音以外の何物でもなかった。実際に先生をつけての特別レッスンを経ても中々上達することはなくて、先生からも監督からも「見た目だけは完璧なんだけどね…」と、微妙な評価を頂いて帰ってきたわけだ。
ーーまぁ正直、悔しい。俺もわかりやすく負けず嫌いというわけではないのだが、これでも持ち前の器用さで、スポーツだってダンスだって、なんだって要領よくこなしてきたつもりだった。だから、こんな中途半端な完成度でクランクインを迎えるわけにはいかないと、少しでも時間を見つけて練習する為に、先生に頼んで練習用のチェロを借りてきたのであった。
幸い、寮には防音のピアノ室があって、狭いけれどチェロを置いて練習する分には充分なスペースだったから、許可を取ってそこを借りて、日曜の昼間から一人で練習に勤しんでいた。別にみんなに内緒にしていた訳ではなかったのだが、ドラマの情報もまだ一般に公開される前だったから、敢えてチェロのことは誰にも言ってはいなかった。だからこれは、本当に偶然で、
ギーギーとチェロを鳴らす俺の耳に、ゴトンと、誰かが物を落とした音が聞こえた。落ちたのは差し入れと思われる缶コーヒーで、二本の小さな缶が、コロコロと転がって足元までやってくる。
視線をあげるとそこに居たのは、よく、見知った人物で、彼は俺の姿を見るなり、ただでさえ白い顔を、更に青ざめさせて肩を震わせていた。
「翔?」
「な、なんで……?」
「どう?……なかなか様になってるでしょ」
ふふ、と薄い笑いを浮かべて、足の間に抱いたチェロを演奏するモーションを見せる。開けっ放しのドアから音が漏れるといけないから、もちろん弾いているふりなんだけど。
「………なんで、チェロ?」
「年始の特別ドラマで、チェリストの生涯を演じる事になって…役作り?みたいなモン」
「へ…ぇ…」
…様子がおかしい、と気付いたのは割と早い段階での事で、じっと俺を見つめて動かなくなったかと思いきや、そのまま目を逸らしてからは、こちらと目を合わせようともしない。穏やかな笑顔も柔らかな空気感も、普段の翔を構成する全てをしまい込んだような冷たい表情は、ただ一点、俺の足の間にある、チェロだけを見ているようだった。これは、もしかして。チェロによくない思い出でも?そう思ってしまうくらいには、だいぶ険しい顔をしていたから、俺は努めて明るく声をかけた。
「どう?本職から見たらまだまだだろうけど。」
「そ…うだね、全然ダメ、かな?」
「はは、流石にキビシーな」
そこでようやく俺の目を見て笑って。翔は、ふと思い出したように小さく告げた。
「ーーもし良かったら、君が演じるチェリストの生前の映像があったと思うから見てみる?」
「あぁ、…………って、あれ?俺、その人の名前出したっけ?」
いや、名前までは伝えて居ないはずだ、じゃあなんで知ってるの?当たり前の疑問が浮かんでいたけれど、狭い業界だと言うし、俺が今回演じるその人は知名度も人気も高くて、その、人気の絶頂期に亡くなってしまったのだと聞いていたから、会話の中である程度察しがついていたのかもしれなかった。でもきっと、この様子では翔から直接、その答えを聞けるとは思えなくて。案の定、厚い唇には感情を誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべて、小さな吐息を漏らす。これは。
色々と察して、「おいで、」と、チェロをスタンドに置いて手招きをすると、翔は、心をどこかに置いてきてしまったみたいな笑みのまま、膝の間に入り込んでぎゅうっと頭ごと抱きしめてくる。くすぐったい、けれども暖かくて、その心地よさに目を閉じる。そういえば、明日からまた海外に行くって言っていたし、もしかしたら寂しくてここまで足を伸ばしてくれたのかもしれなくて。素直じゃないのも、甘え下手な性格も重々承知していて、だからこそこういったわかりにくいサインにも、気付いてやるのが、翔と上手く付き合っていくコツみたいなもんだった。
「今度はどこだっけ、」
「……イギリスに、1週間」
「……俺もこれの撮影で、ひと月くらいロケに出ちゃうから。次会えるのはしばらく先かな。」
「そっ、か」
「寂しい?」
ふわふわとした、指に絡まりそうなくせっ毛を撫で付けてやると、大きな瞳が心地よさそうに蕩ける。寂しい?と聞いた俺に寂しい?と聞き返して、触れるだけのキスをして、首もとにゆったりと絡められた腕、頬には、翔の色素の薄い髪の毛がかかる。
「さみしい…?そうだね、さみしい、かな。」
「おっ、と…珍しく素直じゃないの」
そうしてもう一度、唇を重ねて、クスクスと笑って。どうやらご機嫌を取り戻したらしい翔が、素直で可愛らしい事を言うもんだから、こっちはつい、口元が緩くなってしまう。
「…寂しいけど、ドラマ、楽しみにしてるからね」
「そりゃ、期待に応えられるもん作らないとだな」
*
ひと月、と言う時間は短いようで思ったよりも長い。仕事柄すれ違いの多い生活を送っているが、それでも帰る場所が同じである以上、ひと月離れるなんてことは意外と珍しかったりする。だからこそ、普段は絶対にそんなことを言わないはずの翔が、「寂しい?」と聞いた俺に正直に返してくるくらいなのだから、相当寂しいんだろうなって、最初は思ってたんだけど。
「しょーお、ねぇ、ちゃんとこっち向いて?」
「ーーえっ」
「…俺に抱かれてるのに、うわの空なの?ひっどいなぁ〜」
黒いベッドに組み敷いた身体は、さっきからの行為で熱を持って、ほんのりと赤みを帯びていた。黒の中に浮かび上がる白のコントラストが美しいと、この場所で翔を抱いているといつも思う。透き通る白を纏ったような全身の中で、ただそこだけ宝石のように色付く明るい金茶の瞳が、強い意志を持って輝いているのを見るのが好きなんだけど。それが今は、靄がかかったようにぼんやりとしていて、俺を突き抜けてどこか遠くの方を眺めているようだった。
「眠くなっちゃった?」
「ううん……ごめん、集中する、」
「集中って。………昼間から変じゃない?体調悪いならやめようか?」
やはり、様子がおかしい。愛撫を止めて気遣うようにそう言って身を起こすと、ぼんやりとしていた瞳にふっと光が戻って、少しばかり焦った様子で、俺の肩に回していた腕の力を強めて引き留める。
「いや…、本当に違うんだ、……続けて?」
「そう?」
「…お願い、続けて」
「……わかった。いいよ」
懇願するような目は、俺には打ち明けられないなにかを秘めているかのようで。泣き出しそうだ、と咄嗟に思ったけれど、翔が涙を流すことは無かった。もとより、強い男だと言うのは承知していたし、人並みに感動する事もあると言っていたけど、泣いているところも見たことがなかった。嫋やかで優雅な外見に似合わず、意志が強くて頑固。確固たる自分の信念があって、それは絶対に曲げない。年下だけど、そういうところは尊敬していたし、ずっと羨ましくもあった。
だが、今のこれは何だ?こんな顔をしているのは珍しくて、泣き出しそうなくらいに曇った瞳は、どれだけ抱きしめて愛の言葉を囁いても、晴れることはない。
「好きだよ、翔」
「ーーーっ……」
だから、そうやって、こめかみにキスを降らせて、何度好きだよって言っても、今の翔には届かないんだろうなって思ったんだけど。俺の言葉に、その、星のような金茶の瞳が揺らいで、うっすらと涙の膜が張ったのが見て取れた。これには流石に、あぁ、泣いてしまうって少しだけ焦って、でも。
「………ごめん、なさい」
「……………翔?」
「ごめんなさい、ぼくが、悪い子だったから……」
「翔?」
うわごとのように、「ごめんなさい」と繰り返して、膜を張った瞳は、今度は真っ直ぐに俺を見つめていた、けどそれは、普段の翔が見せる穏やかで優しいものなどではなくて、どこか不安でいっぱいの、幼い子どものようなそれで。けれども翔が涙を流すことはない、きっと俺の前では、いや、他の誰の前でも、涙を見せる事なんて無いのだと思う。翔は多分、誰にも心を許してはいないから。
トン、と肩を押されて反動でベッドへと倒れこむと、形成逆転だと言いたげな顔で翔が俺の腹の上に馬乗りになるのが下から見えた。
普段の聖人みたいな顔の下に、なにかを抱え込んでいるのは間違いないと思っている。そんな顔をするくらいなら、いっそ全部打ち明けてくれればこいつも楽になれるんだろうかと、思わないでも無い、が、翔のこの意固地な性格は充分分かりきっていて、だからこそ臆病な俺は、自らその面の皮を剥がしに行くような真似は出来ずにいる。それがこいつの為にはならないのかもしれないと、尤もらしい言い訳を並べて。
「………ごめん」
「翔、」
冷たい指先が、無防備な腹を撫でて、色の抜けた血色の悪い唇でにやりと妖艶な笑みを浮かべる。両手の指を一本一本絡め合わせて、そうして捕らえられた俺は、逃げ出すことも、逆に、翔を捕らえる事も許されないまま、快楽へと身を委ねる事しか出来なかった。
翔がイギリスに発つ、前の日の晩の出来事だった。
朝起きたら、普段ならば絶対に自分からは目覚めないはずのその存在はすっかりと姿を消してしまっていて、枕元には一枚の、プラスチックケースに入れられたDVDが置いてあった。
***
はじめにその仕事のオファーが入った時、まず驚いたのは、監督が直々に、俺を指名してきた事だった。年の割に芸歴は長い方だ。ドラマや映画の主演も何度か経験があって、そのキャスティングが指名によるものというケースも無いわけでは無い。けれど、今回のこれは本当に熱意が違っていて、だから最初の顔合わせでその監督が、穏やかそうな微笑みに反してとんでもないことを言っていたのを今でも鮮明に思い出せる。
「君がこの話を受けてくれないのなら、企画から変えようと思ってる」
「…はい?」
失礼ながら間の抜けた声が出てしまった俺は、あっけにとられてそのふさふさの髭を蓄えた温厚そうな男をまじまじと見つめてしまう。馬鹿な、そんな話が許されるわけがないだろう。新春の特別ドラマと言ったら、高い数字を狙える、テレビ局からしても重要なコンテンツだ。スポンサーも名だたる企業が付いていると聞いている。それを、こんな、若造ひとりの意見で企画から変えてしまう事なんて無理に決まっているだろう。目を丸くして驚いている俺を、監督はニコニコと糸のような目で見つめていた。
「よろしく頼むよ眞宮くん。この話が出た時からずっと、主演は君しか考えられなかったんだ」
「は、……はぁ」
もとより俺に、この話を断る理由なんてない。先にも言った通りにテレビ局の新春の特別ドラマと言えば、確実に数字が取れるコンテンツだ。正月三が日の夜なんて老若男女問わずの目にとまると言ってもいい。カンヌのレッドカーペットを狙える映画の主演、なんて話が舞い込んできたら話は別であるが、元々ステージ畑で育った純正のアイドルである俺に、そういう演技力が問われるような仕事が入ってくること自体、そもそも珍しかったのだ。だから、ドラマの主演のオファーは嬉しい。
「こちらこそ、よろしくお願いします。全力を尽くします」
「うんうん。嬉しいよ」
「君しか考えられなかった」
監督が言っていた言葉のその意味を、俺はまだ理解しかねていた。
ーー顔が似ている、という話はスタッフさんとの顔合わせの場や、レッスンに赴いた先のチェロの先生にも同じような事を言われたけど、実際にその人の生前の写真を拝見させてもらっても、自分ではよくわからない、というのが本音であった。けれど周りの人間が似ているというならそうなのだろう、俺よりも幾らか年上のその人は、落ち着いた大人の色気みたいなものがあるなって、それが、写真で見た彼の大まかな印象であった。
翔が置いて行ったDVDは、おそらく市販のものではないのであろう、おもて面には日付だけが記されたそれをデッキにセットすると、ボタンを押す前に勝手に自動再生される。ジリジリとカメラが誰もいない真っ白な控え室を写して、そして、画面の中からは誰かが会話する声。
『ーーーさん、じゃあ、意気込みを一言、お願いします』
インタビュアーの差し出したマイクに、それまで控え室のパイプ椅子に座って周りと談笑していた男が振り返って、軽そうな笑みを浮かべる。今まで何度か写真で見ただけだったその人は、実際に映像で動いているところを見てみると、写真よりもだいぶ若く見えるし、上品で取っ付きにくそうだと思っていたその厳かな雰囲気も、満面の笑みで沢山の仲間に囲まれている彼を見てしまえば、自然と人が集まってしまう、人に好かれる人物なのだろうと、すぐに考えを改めたのだ。
柔らかで聴き心地のいい男の低い声が、耳朶に響く。
『最高のステージにしてみせます、 俺の、全部を懸けて』
『……ふふ、それじゃあ、いつも全力じゃないみたいじゃないか』
男の隣からひょこっと顔を出した、まだ少年の年頃と言ってもいいくらいに幼い子どもを見つけて、俺は思わずハッと息を飲んだ。ーー翔だ、と直ぐに気付けるくらいには、その少年は翔の面影を色濃く残していた。今よりも幼い、子どもの面持ち、頬は血色よく赤くって、髪の毛は相変わらず柔らかそうにふわふわとしていた。ひょろひょろ、と言ってもいいくらいの細い体躯で、大人の中に一人だけ混ざって、大人みたいな表情をしている。少年はパラパラと手にしていた雑誌を捲りながら、小生意気そうな言い方で、そんな小言を漏らしていた。
『あーもう、そういうこと言う?俺はいつだって全力ですよ、今日も、もちろん』
『小野田さんも、せっかくなので一言お願いします』
『えっぼくも?……精一杯頑張りますので、よろしく』
『おまえ、それだけでいいの?』
『もーー。いいんだよ、これで』
クスクスと、顔を見合わせて笑って。穏やかな時間が流れる親子みたいな年の差の二人に、「仲良いな」っていう素直な感想が浮かぶ。仲睦まじい、二人のやりとりはそれからしばらく続いて。これは、あれだ。おそらく多分、この映像を見ただけでは、普通の人ならば気付かないのだろうと思う、ごく普通の仲のいい仲間、先輩と後輩、これから共に同じステージに立つ。そんな、一般的な関係だ。けれど俺には、この数分間だけのやりとりで、大まかな二人の関係に気付いてしまった。翔の、目だ。自惚れで無ければ、翔のこの、安心しきった甘えたような、信頼を込められた瞳を向けられる人物は、自分しかいないのではないかと、今までは、そう思っていた。けど。数分間のやりとりで、演奏前に交わされた視線で、それらを全て、悟ってしまったのだ。もっともそれが、翔の片思いなのか、二人の思いが通じあっていたのかは、今この映像を見る限りはわからなかったけれど。二曲目のタイトル『ハルヴォルセン作曲「ヘンデルの主題によるパッサカリア」』の演奏を眺めながら、そこでようやく、昨日の昼からの翔のおかしかった点が一本の線みたいに繋がって、重たいため息が漏れ落ちた。あいつはきっと、チェロを弾く俺に、この人を重ねていたのだ。昔愛した、この人を。
「ーーそういうことかよ……、」
誰もいない部屋に零れたつぶやきは、誰にも届く事はない。
翔はイギリスへ向かう飛行機の中だ。このDVDを置いて行ったと言うことは、俺がこれを見るのも想定してのことだと思う。全部に気付いてほしくて、俺に、これを置いて行った。
どこまでも意地っ張りで不器用な恋人の扱いは、付き合ってきた年月の分だけ、上手くやっている気になっていたけれど、肝心な部分では何も成長できていないんだよなぁと、画面の中の翔の、何も知らないようなあどけない笑顔を眺めて、自分の無力さを嘆くことしかできない。
そして、目まぐるしい速さで弓を動かしてパッサカリアをかき鳴らす、幼き日の翔のヴァイオリンの技巧を見せつけられて、あぁやっぱり、こいつはプロなんだなぁと思い知らされるのだった。
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