極夜 - 14/18

13.夕凪【二一】

記憶に残る一番古い思い出が、海、だった。一紗は斜め前を歩く弟の背中をぼんやり眺めていた。海が近い土地柄とはいえ、最後に海にやって来たのなんていつぶりだろうか。二葉が本当に小さかった頃は毎年のように家族で海に出掛けていたのに、なんて、柄にもなく古い記憶が蘇ってしまったのはきっと、二葉が自分を夕暮れの海へと連れ出したからだった。「大事な話がある」だなんて。いつになく真剣な顔をしてそんな事を言うもんだから、こちらだって身構えてしまう。大体、話なんて宿舎で済ませれば良かったのに。「めんどくせぇ」と一蹴した一紗に、二葉は分かりやすく落ち込んだように耳を垂らすものだから、ついこうして海に連れ出されてしまったのだ。昔から、二葉のこの顔に弱い自覚はあった。歳の離れた弟だ、小さな頃はそれなりに可愛らしさもあったのだが、成長して二葉が一紗の身長を超えるようになった頃、弟は急に可愛げが無くなってしまった。
実家は裕福な商家だ、父も母も健在で、兄弟どちらかが家を継げば良いと両親は気楽だった。だから、家に縛られるのはごめんだと思って、一紗は若い頃、家を出て軍学校へと進んだ。そうすれば、自由に好き勝手やれると思ったのだ。……それがまさか五年後、同じように二葉が自分の後を追いかけて、軍隊にやって来るとは思わないだろう。一紗も、両親も唖然としていたし、二葉だけは呑気に笑っていた。こいつは昔からこういうやつなのだ。いつだって、自分の後ろをついて回って、そうやって呑気に笑っている。可愛くない弟だった。昔から、ずっと。
さっきまで喧しいくらいだった波の音が一瞬止んで、辺りを静寂が包み込む。静かすぎるくらいの、その、凪いだ海に向かって、二葉は足を止めて、それから静かに微笑んでいた。
そっと呼吸を止めていると、潮の香りに、むせ返りそうになる。
「……出征が決まったんだ」
いつだって自分の後ろにいた。
だから、こうやって、自分から離れて行く事なんて考えもしなかった。
「…………は?」
「遠征に、孝明さんの部隊が選ばれて。今日の軍議で決まったんだ」
孝明の、あの恐ろしく整った男の顔が頭の中に浮かんで消えていった。部隊は異なるが、一紗もよく知った男だった。いつだって飄々としていて、誰にだって良い顔をしていて、最初は、気に入らないと思っていた。けれども恐ろしく頭のキレるやつで、それから、思った以上に人懐こかったのだ。年下で階級も下の一紗の事もよく知っていて、一緒に飲みに出掛けた事もある。そうして話してみて初めて、悪くないやつだと思ったのだ。別に弟の上官だから気にしていたわけではないのだが、たまたま、そういう機会があっただけだ。あの男の武勲は知っていた。その、悪運の強さも。
だから、今回の遠征も大したことはないのだと、そう、分かってはいるんだけど。
「死ぬなよ」とは言えない、俺が言ったところでなんになるというのだ。じゃあ、「せいぜい頑張れよ」なんて言葉も、この場には相応しく無いような気がする。かける言葉も無く、茫然と二葉を見つめていると、二葉はだいぶ大人びた顔をして笑うのだ。
「兄さん、大好きだよ」と。

ぐにゃりと、視界が歪んだ。

「秘密のおはなしだよ」
二人で、海で遊んでいた。まだ幼い、二葉がこそこそと耳に語りかけてくる。
大袈裟な顔をして、内緒話だと言って、そう顔を寄せて何事かと思っていると、くすぐったいくらいに小さな囁きが耳に吹き込まれるのだ。
「にいに、だいすき」
波の音がまた聞こえてきて、目を閉じて開くと、一紗は一人きりで
そこには凪いだ海が広がっている。

可愛くない、弟だった。
今はもう、届かない場所にいる。

【夕凪】
夕方、波風が静まること。
夕方、海風と陸風とが交替する時、一時無風の状態になること。

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