極夜 - 15/18

14.春嵐【モブ翔】

後にも先にも、芸者に入れ込んだ事なんて、生まれて初めてだった。「巷で噂の美しい三味線芸者がいる」なんて言い出したのは私の古い友人であった。その芸者は一見さんお断り、政財界にも多数のファンを持つ売れっ子で、予約を取るのにも苦労するのだと、苦労して予約を入れたのだと自慢げに話す友人と共に出掛けた馴染みの料亭。春、桜の花が咲き誇る季節、そこで、出逢ってしまったのだ。おそらく私の長い人生で出逢った人間の中で、最も美しく、最も儚げな存在に。
「翔です、よろしくお願いします」
深々とお辞儀をする、白銀の髪の毛はゆったりと纏められていて、白い椿の花が飾られていた。どこまでも真っ白な肌を包むのは、上等な絹の着物であった、これも、白地に銀色の繊細な刺繍が施されていて、見ているだけで感嘆の息が漏れ出た。本当に白く、儚い印象を与える。
手にした、三味線をべベンと奏でるその華奢な指先に、 うっとりと見惚れてしまう。
夢のような時間であった。夢のような、存在で。
翔と名乗った芸者は、その日から私の馴染みとなった。

私は貿易関係の会社をいくつか経営していた。この大戦下では戦争の特需の恩恵を受けて、経営も安定していたし、若い頃に病気で妻を亡くし、子供たちも既に成人して自立をしていたから、本当に、暇な中年だったのだ。暇を持て余すようにして、私は翔の元へ通い、沢山の贈り物を送ってきた。美しい着物や簪、身の回りの調度品をはじめ、海外から仕入れた珍しい品も。翔はそのいずれも喜んでくれたけれど、特に海外の珍しい品物には目を輝かせて喜んでくれて、若い頃は仕事で世界中を飛び回っていた私の、「世界は広い」なんて、つまらない昔話にも、興味深そうに耳を傾けてくれた。翔は私の話を聞いて、「いつか自分も世界を見てみたい」、そんな事を語っていた。若くて可愛らしい翔は実の子供のようでいて、また、若い恋人のようで、私は彼との逢瀬を楽しんでいた。芸は売れども身は売らぬ、芸者とはそういうものだと思っていた私にとって、その関係は居心地の良いものだった。翔は、三味線以外にも舞や唄も達者で、座敷でよく披露してくれたものだ。多才な芸者だった。あの時代、間違いなく彼があの街のスターだったのだ。関係は、十年近く続いた。その間ずっと、翔は素晴らしい芸者だったし、私は、彼の良い客であろうとした。

人気者の翔には、身請けの話がいくつも出ていたと伺っていたのだが、結局彼は誰の元へ行くわけではなく、この店の経営を継ぐのだと風の噂で聞いた。彼が最後に私の座敷に上がってくれた日、翔と別れた日もまた、桜の美しい季節だった。桜は死体の埋まる花と言われている、死体の血を吸っているから美しい色に染まるのだと。だからこそ美しい桜を見上げて思うのだ。「世界を見てみたい」だなんて目を輝かせて言っていた翔が、この夜の街から解放される事は無いのは皮肉だ、と。そんな事を考えながら、少し寂しくなった私であった。
翔は最後に、またあの、私が大好きだった三味線を奏でてくれた。

外に出るとびゅうと強い風が吹いて、桜の花弁を攫った。
桜吹雪、その中で、翔がまた、にこりとあの優雅な微笑みを浮かべている、そんな気がしていた。

彼が引退してしまってから、私はぱったりと芸者遊びをやめた。それくらい、翔は最高の芸者だったのだ。もう二度と、あれほどまでに素晴らしい芸者に会う事は無い。

【春嵐】
春先に吹く激しい風

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