極夜 - 16/18

15.月虹【悠翔】

その夜は美しい満月であった。月明かりが明るくて、本でも読めそうだなと思いながら仕事をしていた。静かな夜だった。この時間であればどこかの部屋から賑やかな宴会の声や、そういう行為の音が聞こえてもいい筈だったのに、今夜はそういったものが全く無く、静かすぎるくらいだ、なんて思いながら、客からの注文である熱燗を、部屋まで運んできた帰り道だった。
平和な日だった。いつも忙しいのだから、たまには、こんな夜があってもいい。
そうだ、翔のところに寄って用事は無いか聞いてこよう、そうしたら、あのいつものんびりとした主人は、何かと理由を付けて自分に任務を与えてくれる筈だった。翔の部屋は、屋敷の一番奥に位置している広い洋間だ。その部屋の中央に置かれた大きな執務机で、仕事をしている姿をよく見かけていた。悠人の主人はいつだって嫋やかで美しい。自慢の主人であった。

その、行き慣れた翔の部屋を訪れた悠人の目に飛び込んできたのは黒くて巨大な塊と、それからその前でニコニコと微笑む翔と呆れた表情を浮かべる岳の姿であった。
「一体、なんなんだ」
悠人の声に、翔がパッと顔を上げる。
「悠人!馴染みのお客様から頂いてしまってね。西洋の楽器だそうだよ」
「はぁ?……楽器?」
「全く、こんなもの貰ってどうする気だ?ここ以外に置く場所は無いぞ」
「ふふ……、贈り物は断れない主義でね……」
「俺は仕事に戻るけど、ちゃんと送り主にお礼の手紙でも出しとくんだぞ?」
「はぁい」
部屋を去っていく岳と、相変わらず優雅に微笑む翔。それから、残された悠人は、一体、これはなんなんだと目を丸くしていた。翔は楽器だと言っていたが、こんなに大きな楽器があるのか?翔のお得意様はそれこそ政財界のお偉いさんから、外国の要人にまで多岐にわたる。こんな風に贈り物が送られてくる事も多々あったのだが、今回のこれは、今までの品々とはわけが違った。
「…………すごいな」
「弾いてみようか?」
翔がその、艶やかな白い板に指先を伸ばすと、ポロン、と美しい音がした。
「ピアノ、と言うそうだよ?」
「ぴ、あの……」
「そう、ピアノ」
ポロンポロンと音を奏でる翔に、悠人はぼんやりと耳を傾ける。
さくら……さくら……
琴で奏でるこの曲は知っていたが、琴とも、翔がよく奏でている三味線とも趣きが異なる不思議な音に、思わず耳を奪われてしまう。それは廃忘していた過去を思い出させるような、美しく悲しい調べだった。悠人は膝を折って、椅子に座る翔の膝に頬を寄せる。
悠人は捨てられた子供だった。ずっと幼い頃、物心つく前に、この店の前に捨てられていた。そんな自分を拾ってくれたのが、まだ芸者として客を取る前の若い頃の翔だった。それ以来、ずっと翔の側で育ってきたのだ。悠人にとっての翔は、兄のような存在であり、母親も同然だった。元々不器用な性格のせいで仕事が上手くいかなくて叱られた日にはこうして、翔の膝で泣いた日もあった。ずっと、幼い頃の話だ。今はもう、そんな事も無いと思ったんだけど。
「……おや、今日は甘えただね」
悲しい音が、耳に残る。こんなものは一夜の幻だと思う事にした。月が美しい晩だから、静かな晩だから、どうしたって耳に残ってしまうのだ。翔が奏でる、ピアノの音色が。
「翔、もう少しこのまま」
柔らかな膝にすっと頬を擦る。翔が静かに笑う声だけが、悠人の耳に届いていた。

【月虹】
夜間に月の光により生じる虹。
月光虹、ムーンボウとも。
【廃忘】
忘れ去ること。 捨てて忘れること。

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