1.極夜【孝翔】
そこは、一日中太陽の昇らない街だった。花街、色街、或いは花柳。そんな呼ばれ方をされるこの街は、客に色を売る男や女によって繁栄をしている。遊女たちは夜に客を取って昼間は寝ている事が多いから、この街は昼間はシンと静まり返っている。そんなことから太陽の昇らない街とまで言われるようになってしまった。ここは、この花街の中で一際大きな妓楼、『牡丹』。今日も、遊女たちが馴染みの客を見送って布団をあげてしまうと、束の間の自由、短い昼間が訪れる。
深窓に佇む、しなやかな背中を眺めていた。
傷一つ無い、というのは軍人である彼にとっては名誉な事なのか。或いは。飄々とした男であった。軍人のくせに、とは思うけれど、彼は本当に独特な男で、軍人のくせに、偉ぶりもせず、また、変にお高くとまる事も無く、ただ、本当に飄々と、この花柳界の風景の中に溶け込んでいた。彼がここを訪れるようになったのはまだ自分が現役の芸者だった頃に遡るから、もう十年近くも前の事になる。最初に出会った時からずっと、男前な顔をしている、と思っていた。軍人のくせに。先輩らしき男と二人で初めてここを訪れたその時からずっと、彼は翔のお得意であった。その頃はまだ下っ端の軍人で、役職も大した事はないと言っていたのだが。十年、経って、それが今やこの若さで大佐である。これから先の出世も約束されていて、それなのに、この男は、昨夜も、芸者遊びの真似事をして、この花街に入り浸っているのだ。
軍人のくせに。翔はもう一つ愚痴て、夢うつつのままあくびを一つこぼした。
孝明は僕のお得意だ。彼との縁はもう十年近くになる。けれどこうやって共に一夜を過ごすようになったのは翔がこの妓楼の経営を任されるようになったここ数年のうちのことだった。元々は、芸者。芸者は、芸を売っても身は売らないのが信条とされていて、他の小さな店なんかでは客を取る芸者もいたけれど、売れっ子だった翔は現役時代は一度も、自分の客と寝た事は無かった。だから孝明と寝るようになったのも、芸者から上がって、ここを任されるようになってからで。界隈でも有数の大見世として知られるここ『牡丹』を回していくのは本当に忙しくて、それこそ翔自身が一番遊んでいる暇なんか無いのだけれど。それでも孝明が来てくれる夜は、久しぶりに三味線を手に、座敷にあがるのだ。お得意様のこの男の、ご指名だから。孝明は軍のお偉いさんで、上客。ここを経営していく上で、軍との太いパイプも繋げておきたかった。最初はそんな思惑が色々と絡んでいたんだけど。それでも、一緒に寝るようになってしまったのは完全な私情からだった。だって、この男が、こんな、現役を退いた年増を捕まえて、楽しそうに笑うもんだから。「やっぱり、翔の三味線が一番だなぁ」って。だから、嬉しくなってしまって、翔は初めてそこで、「自分の客」と寝たのだ。
恋でもしているのかと思った。この歳になって、馬鹿げているとは思ったけれど。けれど、ずっと好きだった男の腕に抱かれて見る夢は永遠かのように思えて、朝なんて来なければいいと願うようになった。孝明が好きだった。それは、実らない初恋によく似ていた。
「じゃあ、また遊びに来るよ」
「……うん」
「そんな顔しないで、翔。本当に近いうちにまた来る事になるから」
ぱあっと、思わず嬉しそうな顔をしてしまったのは、この男には内緒である。
終わらない夜は無いのだと、夜の世界しか知らなかった翔に教えてくれたのは、この孝明だった。
太陽の昇らない街とは言われているけれど、朝がくれば太陽は昇るし、夜が明ければ彼は彼の世界へと帰って行ってしまう。朝なんて来なければいい、そんな事を思いながら、翔は今日も、そのしなやかな背中を見送る事しか出来ない。その、太陽の向こう側の世界へ。
【極夜】
南北の極圏で、一日中太陽の昇らない状態が続く現象。
【深窓】
屋敷内の奥の建物のへや。

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