2.白夜【岳二】
男はいつも、その人の側に控えていた。その人、眞宮孝明大佐は、我が主人・翔の大切な御客人であり、この妓楼『牡丹』でも有名な上客であった。岳は大佐の側に控える男の、その、やわらかな笑みを浮かべる横顔を眺めている。男衆である自分が座敷にあがる事は無いから、遠巻きにではあるけれど。翔のお得意様だ、何かあるわけでは無いけど、護衛として主人の身をいつでも守れるように、手が届く場所に控えているのだ。翔に何かあれば、この手を汚す事も厭わないと思っていた。翔はそれほどまでに大切だったのだ。大佐の隣にいつもいるこの男も、そんな自分によく似ていると感じていた。しかし、普段はとても、柔和そうな男であった、それから恐ろしく、酒に強い。男はよく、大佐と一緒に酒を飲んでいたけれど、岳は一度も、この男が酔っ払った姿を見た事がなかった。どれだけの量を飲んでも楽しそうにしていて、夜更けに翔の部屋へと向かう大佐の背を見送ると安心したように、自分は帰宅の途につくのであった。男がここに来るようになってしばらくして、馴染みの遊女が出来たようだったけれど、そういった存在と一夜を共にするところも見た事が無かった。夜が更けると、「じゃあ後はよろしくお願いします」なんて言って、帰り支度をして、夜の光の中へと消えていく。そして朝になったらまた同じように迎えに来るのだ。大佐の護衛として。すっかり馴染みの客で、岳自身も顔見知りのようになっていたけれど、彼の名前を知ったのはしばらく経ってからの事だった。その日はたまたま、男が馴染みにしているうちの遊女が留守にしていて、暇を持て余していたこの人と世間話をする機会が出来たのだった。
「自分は築と申します。築、二葉。階級は少尉」
「築、少尉……」
「二葉でいいですよ。ここには兄も出入りをしていて。築が二人いる事になってしまうから」
「そうなんですか?」
「あはは。敬語もやめにしませんか?二人でいるうちは」
ずっと気になっていたのだと、二葉は無邪気そうにそう言って笑っていた。自分の名前は岳だと伝えたら、二葉は、気さくに「岳」と呼んできて、いつもと同じ、あのやわらかな笑みを向けてきた。
それをきっかけにして、二葉と話す機会が増えたように感じる。お互いに同い年だという事を知って意気投合し、立場の垣根を越えて外に飲みに出掛ける事もあった。二葉は普段は温厚で優しげな男だったけれど、柔和な笑顔の奥底に見え隠れする、軍人特有の血の匂いにも、多分惹かれていたのだと思う。どこか、自分に似ていると思ったのだ。だから少し、近付きすぎた自覚はある。
「えっ……と。出征?」
だからそんな、急にそんな事を伝えられた時、岳は、続けるべき言葉を完全に見失ってしまった。深刻そうな顔をした岳とは対照的に、二葉はからりと笑って、さもなんでもない事のように続ける。
「そう、二ヶ月の短期間だけど。孝明さんの部隊が抜擢されて」
「そう、なのか……お前も行くんだもんな……」
「そんな心配しなくても、平気だよ。あの人の悪運の強さは軍でも評判だからさ」
二葉は軍人だった。そんな事はとっくに知っていた。召集があれば前線にだって行くだろうし、命令とあらば人を殺める事だってあるのだろう。それこそ、眞宮大佐に危険が及ぶような事があれば盾になる事だってあるのかもしれない。軍人とはそういうものなのだ、理解はしていた。ただそれに、気持ちが追いつかないだけで。
「永生きしろよ」
だから、俺には、多分。そう伝える事しか出来なくて。
二葉は困ったように笑っていた。だから俺も、笑い返す事しか出来なかったのだ。
岳にとっての二葉は、良い友人だった。良い関係が、築けていると思ったのだ。客と店の者の垣根を越えて、それ以上に踏み込んでしまっている自覚はあったけれど。なんで、似ていると思ったんだろうな、自分に。寂しかったのかもしれない、それ故に、自分と似た存在を追い求めていたのかもしれない。そんな事を考えながら、二葉と共に、夜の街を歩く。
この街の、夜は長い。
煌々と照らされた光の中へ、二葉の姿が消えていくのを追いかける事は出来なかった。
【白夜】
高緯度地方で、夏、太陽が地平線近くに沈んでいるために薄明が長時間続く現象。
【永生】
なが生きすること。長命。長寿。永遠に滅びない生命。

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