極夜 - 4/18

3.忘れ雪【二凰】

もう、春の気配が感じられる季節であったのに。ここは雪深い土地柄では無かったけれど、それでも真冬になると雪が散らつく。午前中から降り続いていた雨は気が付いたら真白な雪に変わっていて、路傍に降り積もった雪を蹴って、三月も終わりなのに、雪、と思う。道理で朝から寒いわけだ。せっかく花が開き始めたばかりの桜が些か寒そうで、その存在証明をするように、白い雪の中でただそこだけ、桜色を主張している。桜並木の下を歩きながら、ハァと白い息を吐き出したのは二葉の友人である凰香だった。凰香とは、軍学校からの仲だ。凰香は座学も実践も成績トップのエリートで、特筆すべきところが何もない平凡な自分と仲良くしてくれているのが、ずっと謎だった。最初に話したきっかけなんて、席が近かった、とか、その程度だったように思う。綺麗な子を見つけたから、つい声を掛けてしまったのだ。今はもう、懐かしい、遠い思い出だったけれど。
軍服の肩に積もった雪を払いながら、凰香がふっと口を開いた。
「特殊な任務に就くことになった」
「…………え?」
「着任したら、任務が解けるまで戻る事はない。お前と会えるのも、もう最後になると思う」
凰香の言葉に、二葉は出しかけていた言葉をぐっと飲み込んでいるところだった。
それは、どういった任務なのだ。孝明さんは、自分たちの直属の上司であるあの人は、知っているのか。けれど、そのどれもが、くだらない疑問のように思えてしまって、続けるべき言葉が分からなくなってしまっていたのだ。特殊な任務なのだ、一介の軍人である自分に打ち明けられる筈も無くて、でもあの人は、孝明さんは、全部知っているのだろうと、それくらいは二葉にも分かっていた。
「楽しかった、二葉。もう会えないと思うと、なんだか寂しいな」
二葉がその細い肩をかき抱いてしまったのは、思わず、だった。同性、しかも凰香は大切な友人だ。ここで抱きしめる、上手い理由なんて思い浮かば無くて、ただ、季節外れに降り積もった雪のように、降り重なった想いが、行き場をなくしてしまって、つい、衝動的に、抱きしめてしまった。
ハッと息を飲み込む凰香を捕まえて、腕の中に閉じ込めてしまう。
「二葉、苦しい、」
「ごめん、だって、こんな事しか言えないけど」
最後に、一言。そっと耳に吹き込んだ言葉は、「生きて」だった。

大切な友人だったのだ、もう二度と生きては会えないのだと覚悟を決めていた、それが。

深々と舞い散る雪を見上げながら、盃を傾けているところだった。
こんな寒い日は嫌いだった。あの日の別れを思い出すから。けれども二葉のそんな内心などつゆ知らずに、孝明はいつになくご機嫌な様子で、酌を受けているところであった。この遊郭の主人である美しい男と、孝明が懇ろな関係にある事を二葉は知っていて、今夜もこの後座敷の奥へと消えていく二人を見送ったところで、二葉は帰営する予定だった。
「……今日は、新しい子が入ったんです」
主人の男はそう言って、華やかな笑顔でふんわりと微笑む。
新しい、子?そう、主人の言葉を心の中で反芻した二葉であったが、自分には関係の無い事であった。だって、自分には、色遊びをするつもりなんて毛頭無かったのだから、それなのに。
男がパンパンと手を叩いて、中に入ってきた遊女の姿を認めて、二葉は言葉を失う事になる。
高く結い上げられた真白な髪、深雪を思わせる程の真白な肌、頬と唇には毒々しいほどの紅が差されていて、艶やかな藤色の着物に身を包むその人を、二葉は良く知っていた。
遊女はふっと顔を上げて、孝明の顔を確認して、……視線が次に、こちらを向いた瞬間に身体が硬直したのが分かった。真っ白な顔が、白を通り越して真っ青に染まっていくのも、よく分かる。
「凰香」と、呟きかけた言葉が出てこなかったのは褒められても良いだろう。遊女、に扮した凰香は、しかしその場を逃げ出す事もなく、真っ青な顔をぐっと上げて、にこりと微笑んで見せた。

そんな笑い方をする凰香なんて知らない。
そんな、男に色を使う凰香なんて、俺は知らなかった。

孝明さんは、全てを知っていたのだろうか。じゃあ、孝明さんと親しいこの男は。
二葉の内心は、きっと仲睦まじく談笑する二人に悟られる事はない。体裁を、取り繕う事には慣れていた。軍で生きていくために、これが自分が身につけた処世術であったから。だから二葉の本音を知られる事は無かったのだけれど。凰香にだけは、今のたった一瞬で全部を悟られたと思った。トクトクと酌をする、凰香の手が小刻みに震えていたから。
「お前にだけは、知られたくなかった」

ちいさな、極小さな呟きが、俺の耳にだけ、届く。

【忘れ雪】
涅槃会のころに降るといわれている、降りじまいの雪。
雪の別れ。名残なごりの雪。涅槃雪。

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