極夜 - 6/18

5.黄昏【孝凰】

凰香がその男に最初に出会ったのは戦場だった。当時まだ十歳になったばかりだった少年は戦争で親も兄弟も、身寄りを全て無くし、偶然そこで、まだ軍人になりたてだった孝明に拾われた。「異国の子供なんて拾ってもなんの価値にもならない」孝明の先輩らしきもう一人の軍人は捨て置くようにそう言ったんだけど、彼はあの、いつもの飄々とした調子で、言ったのだ。「だって——さん、この子、すごく美人ですよ?よく見てください」大きな手で、頬についた泥を落とされる。容姿なんて、褒められた事はこれまで一度も無かった、それなのに、こんなに薄汚れた自分の事を「美人だ」と言ってくれたこの男が、自分を拾ってくれたこの男が、神様なんじゃ無いかと思ってしまっていた。男の手が、自分の痩せ細った身体を抱き上げる。それはとても優しくて、逞しい温もり。
「名前をつけようか、……そうだな、凰香」
「おうか?」
「中国の伝説上の鳥の名前だ。鳳凰が降り立つ地には大切なものがあると言われている」
「凰香」と、聞き慣れないその音の響きを心の中で唱えて、自分を抱き上げる男の宝石のような美しい瞳をジッと見下ろしていた。紫水晶、その、どこまでも深い輝きの真ん中に、写る自分の姿。
自分が、凰香になったこの日、俺はこの人の為に一生を尽くすのだと心に決めたのだった。
それからずっと、凰香は孝明の側にいる。片言だった日本語を勉強して、十五の歳で入学した軍学校では常に成績トップをキープしていた。孝明は勉強だけでなく戦い方も教えてくれて、凰香が軍学校を出る頃には、孝明は既に少佐となり中隊長を任されるほどまでになっていたから、軍学校を卒業した凰香はそのまま、孝明の部隊へと引き抜かれた。これでやっと、孝明に育ててもらった恩義を返せる。そう、思った矢先の出来事であった。
呼び出されたのは軍の上層部が勢揃いした会議室のような場所で、中央の席には、顔は知っている将官の姿があって、末席には孝明の姿を確認していた。
「……軍学校でも類稀なる成績を残した君にしか任せられない任務がある」
「は……、自分が、ですか」
「特殊任務だよ、吉良くん。君には眞宮くんの部隊に籍を置いたまま、軍の情報本部に出向してもらいたい」
「…………はっ!」
軍の情報本部に所属するということは、つまり諜報部隊——スパイ活動をしろという事だ。異国の血が混じっている自分にはうってつけの仕事のように思えるが、孝明の、側を離れる事は些か心許なかった。これで、少しは孝明の役に立てると思っていたんだけどな。でもどこにいたって、俺が活躍する事で、この人に対する恩義を返していく、それに変わりはなかった。それでいい。
軍司令部からの帰り道、時刻は夕暮れで、薄闇の中では斜め前を歩く孝明の表情はここからでは伺う事が出来なかった。だから彼が何を考えているのか、今の凰香には分からなくて。
それでも、あの優しい顔で微笑んでいてくれる事は、なんとなくだけど察する事が出来る。
孝明の、柔らかな笑顔が好きだった。俺を抱きしめてくれる温もりが大好きだった。ずっと、ずっと幼い頃から。でも今は、……影の差す笑顔を見上げて、思う。伝える想いなんて無い、この想いは誰にも伝える事なく、ずっと胸の中に抱き続けていくと決めたのだから。少し前を歩いていた孝明が足を止めて振り返る。いつもの笑顔が、夕焼けが逆光になって今はよく見えないのが残念だ。
「諜報部隊での訓練は、今までよりももっとしんどいものだと思う。頑張れる?凰香」
「愚問だな。俺はもうずっと昔から、お前の為だけにこの身を尽くすと決めている」
そう、笑みで返した凰香の頭を、孝明の大きな手が撫で付けた。それは十年近く変わる事のない、二人の距離感だった。ずっと、この温もりが大好きだった。今はもう、届く事はないけれど。

兵営が近づいて来ると、「また明日な」って、孝明が笑う。
この方の剣となり盾となる事が、今の俺の幸せだったのだ。

【黄昏】

古くは「たそかれ」。「誰 (た) そ彼 (かれ) は」と、人の見分けがつきにくい時分の意。
夕方の薄暗い時。夕暮れ。

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