極夜 - 7/18

6.迷霧【玲歩】

出口の見えない霧の中を彷徨い歩く心地だった。
俺は、本当に一番欲しかったものには、手が届かなかったのだ。

歩がここ、妓楼『牡丹』にやって来たのは、まだ十歳になる前の幼い頃だった。親に売られて訪れたこの場所で、先代の店の主人に容姿を評価されて、太夫付きの禿として修行をして行く事になるのだと、人伝に聞いていた。まだほんの子供だったけれど、でも可愛らしい子で、最初は本当に女の子かと思ったくらいだった。怒られるから、絶対に本人には言えなかったけれど。
自分には、男衆として雑用をしてここに奉公するか、或いは陰間として生きていく道の二つしかなかった玲司だったが、そこで初めて「男の遊女」の存在を知った。遊女は一般的に色を売る女性の事を指す言葉であるが、ここでは、女装して「女として」色を売る美しい男の事も、遊女と呼んでいた。そういう趣味を持つ大人が多いという事も、ここに来て知った事だ。にわかには信じがたい話ではあるが、歩を見ていると成る程、と玲司は思う。こんなに綺麗な子だったら男でも、と思ってしまう連中の気持ちもわからないではない、と思うくらいには歩は美しい子供だった。
幼い頃の歩は、慣れない生活で体調を崩しがちで、それに加えて、付き人をしていた先輩女郎とも折り合いが悪かったらしく、しょっちゅう折檻をされているのを見かけるようになった。どうにもこうにも見ていられず、手を差し伸べたのは、玲司だった。
「お前さー、俺のところに来ない?」
「はぁ?」
「いっつも傷だらけで見てらんないからさ。俺の部屋子にならないかって」
そんな事、出来るのか分からなかったけれど、店主には俺から話を付けるつもりであった。
店主は二つ返事で了承して、程なくして、歩は玲司付きの部屋子となったのであった。

何度かの季節が巡り、歩の水揚げの日が、近付いていた。手塩にかけて育ててきた、店自慢の名太夫になるべく存在である。歩の初めての相手は、もう既に店と馴染みの客との間で契約が交わされているのだという。そうなってしまえば、俺にはもうどうする事も出来なかった。
……なんて、玲司には、最初からどうにもならなかったのだ。こんな、子供には、どうすることも。
その日を迎えるまで、忙しそうな歩をただ遠くから眺める事しかできず、歩もまた、どこか吹っ切れたようなすっきりとした表情をする様になっていた。
ある夜、珍しく暇をしていた玲司をつかまえて、歩は笑って言った。「玲司、ありがとう」と。「何が?」となんとなしに言い返した玲司に、歩は一層美しく微笑むのだ。

「お前がいなければ、俺はとっくにここを逃げ出していたと思う」

いつの間にこんなに美しく成長していたのだろうか、と、思わず言葉を失っていた。
かなわなかった。そんな事は、と、玲司は思う。本当に今更だ、今更、俺は、この五年間もの間、自分が抱えていた想いに気付く。お互いに子供過ぎて気付けなかったのだ、だって歩は、まだ十に満たない子供だった。でも、最初から可愛いと思っていたのだ。愛おしいと、俺が守ってあげたいと。だから手を差し伸べた。それは、恋と呼ぶにはあまりにも、綺麗すぎる感情だった。

花魁として華々しくデビューをした歩は、それはもう、おそらく、店の人間が思っている以上に人気が出た。元々、無愛想なあの性格が気遣われたのだが、寧ろそれを良とするオッサン連中が思いのほか多かったらしく、デビューから日をおかずに、歩は押しも押されもせぬ人気太夫へと登り詰めて行った。もう誰にも届かない存在となってしまったのだった。

華やかな花魁道中の音だけを聴きながら、鏡の中の自分が、亡霊のように語りかけて来る。
『無理矢理にでも、自分のものにしとけば良かったんじゃねーの?』
やめてくれ、俺はそんな男じゃない。
そんな、勇気のある男でないのは、自分が一番よく分かっていた筈なのに。
鏡の中の亡霊が涙を流していた。どうして、こんなにも悲しいのだろうか。

【迷霧】
方角のわからないほどの深い霧。
迷いの境地を霧にたとえた語。

送信中です

×

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です