極夜 - 8/18

7.暁【岳歩】

ふわふわと居心地の良い世界で、夢を、見ていた。
それが、寂しい夢だったのか、幸せな夢だったのかはもう覚えてはいなかった。
「歩くん、」って呼ばれたような気がしていて、ぼんやりと、夢から覚める。まだ意識はうつらうつらとしていたけれど、歩が目を擦って顔を上げると、馴染みの客が目尻にシワを寄せて、穏やかそうに微笑んでいたところであった。
「歩くん、すまないね、急に仕事が入ってしまって。ゆっくりしていけなくてごめんね」
「お……しごと……はい、大丈夫です」
仕事、という言葉を頭で反芻させて、頑張って意識を覚醒させようとする。
布団に残された温もりにうとうとと身を委ねていたかったけれど、客が帰ると言うのならば見送らねばならない。窓の外はまだ真っ暗で、こんな夜更けに、と思うけれど、歩のお得意様のこの人はお医者様だ。きっと、急病人でも出たのだろうと、そう結論付ける事にした。
いそいそと着替えを済ませて荷物を手にした男の頬に、歩がそっと口付けると。男は顔を赤く染めて、それから特に、嬉しそうに微笑んで見せる。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとう、またよろしく頼むね、歩くん」
「いつもありがとうございます」
「今日は、残りの時間はゆっくりしていると良い」
優しい気遣いに、歩もにっこりと微笑むと、男は本当に忙しなく帰って行ってしまった。
夜明け前に、暇になるのは珍しい。この心地の良いままでもう一眠りするのも悪くはないと思っていたけれど、水を切らしてしまっていた。貰ってこようと、廊下へと出る。
足音を潜めて郭の廊下を歩いていると、他の部屋の女郎たちの艶っぽい声が聞こえてくる。まだ仕事中の人もいるのだと、歩は一層足音を潜めて、食堂を目指した。一階まで階段を降りて、窓の外にふと顔を向けたのは殆ど気まぐれであった。ただ、こんな夜中に、ぱっと目を惹く明るさに、意識がそちらへと向けられてしまったのだ。桜の咲き誇る季節になっていただなんて、今の今まで、気づかなかった自分に驚いていた。別に、煌々と明かりが付いているわけではない。桜の花びら一枚一枚が、薄ぼんやりとひかっているように見えるのだ。思わず言葉を失って見上げていると、その、花明かりを見上げているもう一人の人影を見つけたのは、偶然だった。
「岳……仕事は終わったのか?」
「あぁ、もう座敷の片付けが済んで、後はお客さんのお見送りまで空き時間。歩は?」
「俺は、客が急用で帰ってしまって……」
「あぁ、——さん?急いで帰っちまったもんな〜」
岳は、翔の右腕としてこの妓楼の雑事だったりを一手に引き受けている。その生来の対人能力から、料亭との橋渡しや接客なんかも行っているのだから、本当によく働く男だった。大人っぽく見えるけれど歩よりも年下で、ここへやって来た時期が近かったため、岳と、もう一人芸者のルカと三人で、兄弟みたいに育って来たのだ。
大切な存在だった。いつだってつらい事は三人で乗り越えて来たようなものだ。
「じゃあ、空き時間か」
「あぁ、暇だから、一眠りしようかと」
「…………んじゃ、これは、歩にだけ特別な?」
だからそうやって、岳は歩には気安い。ニコニコと年相応な幼い笑顔を見せてくれる。なんだろう?と歩が首を傾げていると、こっそりと、その懐から出てきたそれに、歩は目を丸くした。
「…………まんじゅう!」
「そう。特別にって、二個だけもらったんだ。みんなには内緒」
小さな白いまるが二つ分。中身の餡子が透けて見えて美味しそうだ。岳は、その二つを歩の手のひらに乗せてくるのだから、歩は慌てて、一つを岳の元へと押し返す。
「貰ったのは岳なのだから、一つは岳のものになるのが道理だ」
「あはは。変なところでお堅いなぁ。……じゃ、二人で内緒で食べようか?」
「あぁ」
二人で並んで、満開の桜を見上げてまんじゅうを頬張る。
歩は子供の頃からずっと、岳のこの、「歩にだけ特別」が大好きだった。もっと小さい頃は、先輩女郎に叱られたら、岳が内緒でお菓子をくれた。それが一個の時も二個の時も、歩は必ず、岳と「半分こ」してきた。もちろん、同じ幼馴染みのルカにだって同じことをしているのだろうけれど、それでも、この男の「特別」でいられる、この瞬間が堪らなく好きだった。
「美味いなぁ」
「あぁ、ほんとに」
じんわり滲んだ涙が流れ落ちるのを堪えている所であった。桜が綺麗過ぎたのもあるし、今日のお客さんが良い人で良かったのもある、まんじゅうは美味しいし、それからさっき見た夢がやっぱり優しいものだったような気がして、全部が全部、嬉しくて胸がいっぱいだった。
「………美味い」
歩がぽつりと漏らした呟きに、岳が、嬉しそうに微笑む。
俺だって「岳は特別」なのだ。

【暁】
よあけ。あけがた。夜半から夜のあけるころまで。
【花明かり】
桜の花が満開で、そのあたりの闇がほのかに明るく感ぜられること。

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