極夜 - 9/18

8.天つ風【悠凰】

「……………だから、なんでお前が付いてくるんだ」
半歩前を歩く、薄藤色の着物を着た、華奢な後ろ姿を追いかけていた。着流しの着物は涼しげで、肩よりも長い淡い色の髪の毛は高い位置で束ねられている。普段は、紅を差している顔しか見たことが無かったから、今日はその、何も手を加えていない、透明な美しさを称えた横顔に見惚れてしまっていた。仕事柄、顔の良い男も女も数えきれないほど見てきた悠人であるが、こんなに自然のままで美しい人間には、初めて出逢ったのだ。興味深い存在だった、出逢った時からずっと。
この男は、ひと月ほど前にうちの店に入った新入りだった。聞けば、他店からの引き抜きで、「変なところから連れてきてないだろうな?」と我が主人、翔をジト目で見つめてみれば、「え〜?」とにこやかにはぐらかされてしまったのだから、なんとも怪しげな話である。だって、これほどの美しさで、何の諍いも無くうちの店にやって来たのなら、相当の手付金が動いたはずで、そうであるなら翔の右腕を自負する自分に、何も情報が流れてこないのはおかしいのだ。
「護衛ですよ、護衛。翔には、あなたをお守りするように言われてるので」
「ふっ……、か弱い女じゃないんだ、自分の身くらい自分で守れる」
「…………じゃあ、見張り。あなたが何か、しないように」
「はぁ?」
不審者、などではないと、思う。多分。翔が連れてきた人間なのだから、身元はしっかりしているのだろう。けれども、新人と呼ぶにはどうにも小慣れすぎているし、どこかの店に所属していたと言うなら、この美しさである、大そうな評判になってもおかしくはないというのに、そういう話も聞かない。不審な点は多すぎた。それから、凰香が一人になると時折見せる、遥か遠くを見つめる瞳。ある夜、真冬の月のようなその冷たい色の瞳を見つけてしまった悠人は、それ以来この男の事が、どうにも放って置けなくなってしまったのだ。こんなの、生まれて初めて抱く感情であった。
だから今日だって。護衛だとか見張りだとかいうのは建前であって、本当は。
「本当は、あなたと出掛けたかっただけです」
「…………はぁ?!」
凰香さんは直球に弱い。
悠人はそんな事を一つ学びながら、足を止めて真っ赤な顔をして振り返った凰香に、さっき露店で買ったりんご飴を差し出す。顔、りんごと同じ色をしている、なんて事はこの人には内緒だった。

真冬の月のような人だった。凰香の色々な顔を見るようになった今でも、いや、そういった無防備な表情を見せるようになった今だからこそ、その印象が変わる事はない。凰香は、この人が来ると特にそう。座敷で酒を飲んで楽しそうに笑う男の姿を遠巻きに見つめて、凰香の瞳がより一層の冷たさを秘めている事に気付いたのはいつの事だったか。眞宮孝明大佐。翔の大切なお客人だ。あの人は翔に会いに来ているのだから、座敷に遊女や芸者を呼ぶ事なんて滅多に無いのだけれど、たまに、ごくたまに、凰香を呼ぶ事があるのだ。 そういった時の凰香は、傍目に見ても分かるほどに、感情を消す。他の客の前では愛想良く笑う事もあるというのに、あの人の前ではそれが一切無いのが、逆に異質であった。だから、何かあるのだと悟っていた、二人の間には何かあるのだと。
前の店の、お得意様?いや、これはもっと、根深い。
悠人の思考は顔に出やすかった。そんな事を先代の主人や翔には気をつけるように言われていたから、些か思うところはあっても、何事も無かったかのように無表情を貫く。
「悠人〜、お酒もっと貰っていいかなぁ?」
「………あ、はい」
手洗いにでも立ったのだろう、部屋を出る孝明と入れ違いになって、悠人はそこで、同じくらいの高さにある男の瞳を、ちらりと盗み見た。くもりなき瞳。この人は多分、自分とは逆で、顔に出ないタイプなのだと思う。孝明一人であったら、きっと凰香の変化には気付けなかった。
「…………何?なんか付いてる?」
飄々とした、人懐こそうな瞳を見つめて思う。この人が例えば凰香さんの大事な人だったとしても、いつか俺があの人を奪い去る。…………なんて大それた事は、悠人が思う事は無いのだけれど。
「…………いえ」
不思議そうな顔をして、背を向けて行ってしまう、孝明の背中を見送って、悠人ははぁと大きな息を吐き出した。別に、奪い去りたいわけではなくて、ただ、もっと、その。

もっと、凰香さんの笑顔が見たいのに。壁は多分、とてつもなくでかい。

【天津風】
空高く吹き抜ける風。

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