[***白昼夢]
「猫を飼おうか」と、翔がなんとなしにそんな事を言い出したのは真夏のとある日の事だ。クーラーを付けないとじっとりと暑い、ジムのプールが心地よく感じるそんな季節に、奇妙な監禁生活も5ヶ月目を迎えようとしていて、そろそろ日常生活にもマンネリしてきた頃を見計らっての、その発言だった。日中、暇を持て余してお菓子作りやパン作り、それからゲームにまで手を出し始めた俺に気付いていたのかどうなのか。夕食後に、昼間焼いた生クリームたっぷりのガトーショコラを食べながら、翔はニコニコと楽しそうな笑みを浮かべていた。
「猫?」
「そう、君が昼間、退屈しないように」
俺は別に、退屈していたわけではない、けれども。猫、という翔の言葉は些か魅力的であった。小動物は好きだ。バズロックにいた頃はユニットのみんなで二匹の猫を飼っていて、解散後は二匹とも、メンバーである直助に引き取られて行った。実家でも犬と猫を飼っていて、昔からそういうのの世話を焼くのは好きだったから、猫を飼おうかと言いだした翔に、俺は笑顔で応じた。
「良かった。知り合いが子猫の里親を探していて」
「子猫なの?」
「うん、でも、生まれてから三ヶ月過ぎちゃって、まだ飼い主が見つからないんだって。大きくなってしまう前になんとかしたいと相談されてね」
「そんな事情があるなら尚更だよ」
そう頷いた俺に、翔は優しく微笑んで「やったぁ」と、早速何処かにスマホでメッセージを送っているようだった。穏やかな二人暮らし、そこに、猫が一匹増えるのだ、と、その時の俺は、何も深く考えてはいなかったのだけれど。
「猫」は、それから一週間とおかずに、我が家へとやってきた。
その日は、どうにも眠くて、普段はそんな事は無いのに、真昼間からうたた寝をしてしまっていた。ダイニングテーブルに突っ伏して眠っていると、「孝明」と優しく肩を揺すられる。うとうとと微睡む意識の中で、うっすらと瞳を開けると、重たい目蓋の向こう側に翔の笑顔が見えた。
「珍しい、お昼寝なんて」
翔は俺を見下ろして笑っていた。窓の外を見ると夕焼けが眩しいくらいで、翔の瞳の色みたいだと、ぼんやりとそんな事を考える。まずい、もう夕方だ。夕飯の支度を忘れて眠ってしまっていたなんて、とパチリと意識を覚醒させると、翔の傍らに小さな影を確認して、俺は思わず、開きたての目蓋を更に数度瞬かせた。
「猫、貰ってきたよ」
「…………え?」
猫、とは。
翔の言葉に、もう一度瞳を擦って、その小さな影を凝視する。まさか、そんな、寝惚けているのかと、思うくらいには、それは到底馬鹿げた話だった。まだ、夢でも見ているのだ。おかしな夢を。だってこれはどう見たって……ビクビクと怯えたような様子は、初めての場所に怖がっているのかもしれない、小さな、可愛らしいその「子ども」は、翔の腕に抱かれて、怯えるように俺のことを見上げていた。
「え?…………猫って、え?」
「可愛らしいよね、出会った頃のバズとロックよりもずっと小さい」
「は……?本気で言ってる?」
「真っ黒な毛並みが綺麗だからクロって名前が可愛いかなって思うんだけど」
「クロって、……え?」
「気に入らなかったら、君が名前を付けても良いよ?」
翔はそう言っておかしそうに笑っていたけれど、おかしいのはどっちだ、俺にはどう見ても、その腕の中にいるのが小さな幼子に見える。まだ4、5歳くらいの、男の子。恐る恐る、ちらりとこちらを伺って、それから、甘えるように翔の胸元に額を擦り付けていた。
おかしいのは、どっちだ。
こんなものは夢の続きなのだと、ふるふると首を振った俺に、翔の無邪気な笑みが覗く。
「孝明も抱っこしてみる?」
「だ、っこ……って、」
抱っこ、と、そっと子どもを差し出されたけれども、翔の腕の中の子どもは、俺にはプイッとそっぽを向いてしまって、翔はその様子を見守って一層おかしげに笑っていた。
「ふふ、怯えられてる。可愛いなぁ、孝明とも仲良くなれると良いけど」
「そう……、だな……」
多分、俺がおかしい、猫はやっぱり猫なのだ。翔の態度を見ても、そう思う。黒猫らしい、少年の短い髪の毛は艶やかな黒髪で、大きな瞳は綺麗な金色をしていた。バズに似ている、そんなことを考えながら恐る恐る子どもの頭を撫でてやると、子どももこちらをチラッと一瞥して、俺の手の甲をペロペロと舐めていた。その仕草も、ざらざらとした舌の感触も、完全に猫なのである。
俺の、気がふれたのだと思った。あまりにも世間から隔絶されていたから、頭がおかしくなったのだと。だってこいつは子猫用の餌を食べるし、トイレのしつけもちゃんとされているし、夜はリビングの猫用ベッドで眠る。狭く無いのかとも思ったけれど、これが器用に収まるものだ。けれども一日経っても二日経っても猫が猫に見える事はなく、三日経つ頃には最初はあんなに警戒心丸出しだった俺に対してもすっかり懐いてくれて、抱っこをしても怯えないようになった。翔はその様子を見てホッとしたらしくて、夕飯の席でクロを見つめて微笑みを浮かべていた。
「可愛いねぇ、子どもが出来たみたいだ」
……俺は本当に、子どもでも出来たように感じている。翔がいない昼間はクロと二人きりだ。まだ小さいから外に遊びに出掛ける事もなくて、クロは基本的に日当たりの良い窓際で、冷感シートの上でゴロゴロと遊んでいる事が多い。猫じゃらしとか、ネズミの人形とか、翔が楽しそうにおもちゃを買ってくるからそれで遊んでいるし、餌も、なんの躊躇いもなく子猫用の猫缶を食べているのだから俺には違和感しかないのだけれど。一度だけクロに自分用に焼いたパンケーキを分け与えようとした事があったのだが、これはなんだ?とクンクンと匂いを嗅がれた後にそっぽを向かれてしまった。代わりに人肌に温めた牛乳はペロペロ口にしていたから、もう本当に、不思議で、狐にでも化かされた心地で、(猫だけど)、俺はクロを膝に乗せて、その金色の瞳をジッと見つめた。
「お前はなんなんだ〜?」
「…………」
「にゃあとも言わないし……」
クロは俺の前ではうんともすんとも言わない。翔が居ても鳴き声を上げる事は滅多になくて、でも翔は気にも留めて無いみたいで、「おとなしい猫ちゃんだね」って言うばかりだった。
「本当に猫なのか?」
「…………」
猫耳の、類いも無い。もちろん尻尾も。服はここに来た時からずっと真っ黒なTシャツに短パンを履いていて、流石に全裸じゃ無かったんだけど。そういえば家猫だからシャワーに入れてやった事が無かったななんて思う。……そうしたらこの服はどうなるのだろうか。むむむと目を凝らしてクロを見つめていると、クロは俺の心の声に気付いたのか、ヒョイっと膝の間から抜け出して、また窓際まで行ってしまった。冷感シートに包まってお昼寝を始める、後ろ姿をぼんやり眺めている。
「…………子どもが出来たみたい、なぁ……」
いつだかに翔が言っていた、そんな言葉を思い出していた。
男同士で付き合っている俺たちが、子どもなんて、考えた事は無かった。……と言ったら些か嘘になる。昔から子どもは好きで、俺は良いパパになるよ、なんて、ふざけて翔に話した事はあったけれど、あれだって本気では無い。じゃあ、どうして、今更そんな事を考えてしまうのか。
少しだけ、ほんのちょっとだけど、クロを抱っこしていると思うのだ。子どもがいたら、こんな風だったのかもしれない、と。もちろん思うだけで、翔に打ち明ける事は無かった。
その夜ちょっと早めに帰宅した翔は、俺が夕飯の支度をしている間になんの前触れもなくクロを風呂に入れてしまっていた。「お風呂入れちゃったの?」と。本心では、服、どうなったのか見れなかった……と残念がっている俺には笑って、「ごめん」なんて言うんだけど。ぴかぴかになったクロは翔に抱かれてドライヤーの弱い風を浴びていて、気持ち良さそうにゴロゴロ鳴いていた。
「一緒に寝るの?大丈夫?潰しちゃわない?」
クロと3人で寝ようと言い出したのは、俺だった。クロを抱っこしてベッドに入ろうとする俺に、翔は驚いた様子で目を丸くしてそう言ったのだけれど、俺としてもどうしてそんな事を言い出したのか分からない。クロは機嫌良さげに俺に抱っこされていたし、翔は不思議そうな顔をして俺を見上げて、こんな事を言った。
「すっかり仲良しさんだねぇ」
「……俺も不思議なんだけどな」
潰しちゃわない?と、翔は心配そうにしていたけれど、どこからどう見ても幼児の姿をしているクロを潰すとは思えなかった俺は、眠たそうにしているクロに腕枕をしてやって、抱いて眠る。
「ふふ……、妬けちゃうなぁ……」
最初、翔はクスクス笑ってそう言っていたけれど、明日も早いのか、本当にすぐにスゥッと眠りについてしまった。相変わらず羨ましいやつ……、と思いながら、腕に抱いたクロと、すやすや眠る翔とを交互に眺めて、胸がぎゅっと締め付けられる心地になる。
ふと、腕の中のクロがぱちっと目を開いて、いつもはおとなしい金色の猫目が、眠りにつきそうだった俺の瞳を覗き込んで笑った。子どもらしい血色の良い唇が、暗がりに音を乗せる。
「——、」
「っ?!」
その、微かな音の震えと共に鼻先にちゅっと柔らかなキスをされて、俺は思わず子どもを見下ろす。クロは、そんな俺の視線には知らんぷりをして、自らもスッと眠りについてしまったようだった。
静かな部屋の中で、小さな囁きが、耳の奥で反響をする。
「パパ」
翌朝目を覚ますと、腕の中にクロの姿が見受けられなくて少しだけ焦った。
消えてしまった?まさか。そんな縁起でもない仮定を頭に浮かべて自分で否定して、俺は翔をベッドに残したまま、身体を起こしてリビングへ向かう。と、ソファの横に置いた猫用のベッドの中ですやすやと眠る小さな「黒猫」を見つけて、思わず目を丸くした。
「…………なんなんだ、一体」
寝ぼけているのだろうかと、ぽりぽり頬を、掻く。
狐にでも化かされた心地だった。(猫だけど)

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