ワードパレット『color』 - 12/13

[chapter:11.むらさきいろ(孝翔)]
罪、記憶、愛した男

生涯でたった一人だけ、愛した男がいる。もう遠い昔の話だ。
記憶の中のその人はいつだって穏やかに微笑んでいた。俺の一番好きな笑顔で。

薄暗い部屋の中、遮光カーテンを開けて、窓から差し込む眩しいくらいの光を浴びて外を眺めていると、窓の外の桜の木が満開だった。今日は天気も良いし、すっかり春らしい陽気で暖かく、散歩に行くのも悪くないと思っていた。そうだな朝メシを食べたら、どこかに行こうか。
そんな事を考えて、俺は、ベッドの中に眠るその人を振り返る。
「翔、朝だよ。おはよう」
返事は返ってくる事はない。眠り姫はこんこんと眠り続けるだけだ。
翔は朝が弱いからこんな事はしょっちゅうで、でも今日は何もない休日なのだし、のんびりしているのも悪くはないと思っていた。朝食を作るために寝室を後にしてキッチンを訪れる。
今日は和食にしよう、昨日の夜米を研いで炊飯器を予約しておいたから。翔の好きな豆腐とわかめの味噌汁を作って、焼き魚と、漬け物と。二人分の食事を並べた食卓に手を合わせて、頂きます、と出来立てのご飯をかき込む。散歩……、と思っていたけれど、久しぶりに車を出してドライブも悪くない、ちょっと遠出して、美味いパンでも買って、それで。
子どもの頃から20年近く続けていた芸能活動を休止してしばらく経つ。俺は休業と共に都内に借りていたマンションを引き払って、今は郊外にある広い一軒家で、翔と二人暮らしをしている。屋敷の周りは生い茂った森で、家の前には小さな家庭菜園もある。そこで季節の野菜も育てていた。車が無いと不便な土地だったから、ここに来る時に車も買って、事務所から運転の許可も降りていた。
何にも無いけれども穏やかな場所だった。
木々の間から差し込む木漏れ日を浴びる、本当に、気持ちが良い。

夕刻、帰宅すると家の中は出た時と同じ、静寂に包まれていた。
静かなのは好きだ。どこからか、翔のヴァイオリンの音色が聴こえてくる気がして。

もちろんそんなものは俺の願望みたいなもので、夕飯の支度を始める前に、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにされたままの一人分の朝食をゴミ箱へと捨てた。さっきスーパーで買ってきた食材をキッチンへと置いて、脱いだコートを掛けに寝室へと向かう。
眠り姫は、ベッドの中で穏やかな笑みを浮かべて眠り続けている。
罪の意識などどこにもなかった。ただ俺は翔を愛していて、翔の笑顔が大好きで、だからずっと側に置いておきたかったのだ。誰の手も届かない場所に。俺だけの、眠り姫を。

生涯でたった一人、愛した男がいる。

送信中です

×

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です