[chapter:8.みどりいろ(玲紗)]
埋める、ふたりきり、スマートフォン
誰かに側に居て欲しい夜が、あったとして、今までの俺はどうしていたのだろう。風呂上がり、ダイニングに置いていたスマートフォンがブルブルと震えていた。画面を開いて、送り主のイメージそのままにそっけない一言だけのメッセージを確認すると、足は自然とそのお相手様の部屋に向かっていた。一紗はたまに気まぐれに、こうやって俺を呼び出す。
これは、コイビトなんて言う甘い関係では無い。ベッドに眠る無防備な背中は真っ白で傷一つ無くて、華奢で、でも女のそれよりは確実に逞しくて硬い、その背中を見つける度に、こいつは眠る時まで俺に心を許していないのか、という気持ちになる。一紗は眠る時はいつだって俺に背を向けて眠る。「寝顔を見られるのは好きじゃない」とは言っていたが、こいつがその辺で昼寝をしてるのにしょっちゅう遭遇している俺からしてみれば、今更感が否めないのだが、嫌、というその顔を、無理矢理こちらに向けて機嫌を損ねてしまうのも俺の本意ではなく、だから仕方ない、と思いながら、せめてもの抵抗で、寂しい夜なんかはその硬い背中を抱きしめて眠る事もある。なんでかそれは、拒否される事は無いから。
この抱擁も、俺の中にある寂しさを、埋めるだけだ。それ以上でも以下でも無い。
一紗とは別に、事後の余韻を残して甘い語らいをするような、そんな関係では無かった。
始まりは、それはもう曖昧なものだった。元々は、ただの友人、それも、俺たちを知る人からは『悪友』なんて言われる。それまでにも一紗には、「餌付け」って本人が言っていたように、飯を作ってもらう事が結構あって、着実に俺は胃袋を掴まれていた自覚はあったんだけど、それから何度かふたりきりで飲みに行く事があって、何度目かの夜に、その、酔っ払った勢いで一線を超えてしまったのだ。どちらから、という事もなく、本当に曖昧なまま関係が始まってしまって、ただ、上か下かどっちかって一瞬迷った俺に、こいつはなんの躊躇いも無く俺の上に乗っかって来て、そうしていつも通りの笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。じゃあ、と思って、最初はただ、優しく、しようと思っていたんだけど、「お前とは別に、そういうんじゃ無い」とでも言いたげな視線を向けられていて、俺はハッと我に返った。そういう、関係では無いのだ。
そうやって始まった身体だけの関係だったけれど、こいつの隣にいるのが、思っていたよりずっと居心地が良くて、なんだかんだで身体の相性だって良くて、離れられないまま数ヶ月が経とうとしていた。
「寂しい」なんて言葉も、こいつの前では言った事は無かったけれど、一紗は聡いから、俺の内心には気付いているのだろうと思う。関係を拒まないのも、事後の気まぐれな抱擁を拒まないのもきっとそのせいで、俺は一紗が、思いのほか優しい事も知っていた。だって、優しくないやつが、野良犬に餌付けなんてするか?ここまで懐かれてしまって、どうするんだよ、って思いながら、その脱いだら意外と筋肉質な細い腰を抱く。肩口に顔を埋めるといつもの一紗の匂いがして落ち着く。昼間の香水とは違った、情事の後にだけ香るこの匂いが好きで、顔を埋めたまま、じわりと涙が滲んでいた。だって、こいつが。あんまりにも優しいから。
俺が誰かに側にいて欲しい夜には必ず、こいつからの呼び出しがあって、のこのこ部屋にやって来た俺は、この身体を抱いてしまう。寂しさを埋め合わせるように。そうして埋まる隙間なんかじゃ無かったんだけど一紗は必ず朝までそこにいてくれて、俺の腕の中にいてくれて、どこにも行かないから、だから、その存在に縋ってしまうのだ。依存している自覚はあった。
けど、もう、どうしようもなくて。思いが溢れて、堰き止められない。
寝ている、と思ったのだ。けれどもみっともなくボロボロと涙をこぼす俺に、流石に気付いたらしい、振り返った一紗が寝ぼけ眼のままでギョッとした顔をしていた。
「お前……、ったく……」
いつも背中を向けて眠っていたこの男が、俺を、腕の中に抱き締めて。それから幼な子をあやすようにトントンと優しく背中を叩かれる。あーもう、本当にみっともない。情けない、こんなの、俺らしくない、マジで。そう、思いながら俺は温かな胸の中でひとしきり涙を流す。
こんなの、寂しさを、埋め合わせるだけの関係だった。

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