虹の指環

雨が、シトシトと降り続いていた。今年の梅雨は長くて、五月の終わりからずっと、六月ももうすぐ終わるって言うのに、梅雨明けの宣言がないまま、夏を迎えようとしていた。
左手で重たい引き出物の袋を持って、右手に傘を持って、シトシト雨の降る暗い帰り道を一人で歩いていた。幸せな家庭の定義というものはなんなのだろうか?と、僕は考える。父親がいて母親がいて、それから子どもが真ん中にいる家族?じゃあ、子どものいない選択をした家族は幸せでは無いの?親に見放された僕は幸せではなかった?そんな不毛な事を考えてしまうのは、古い友人の結婚式に出席した帰り道だったからだ。奥さんは秋頃に出産を控えていて、秋には三人家族になるのだと、本当に幸せそうな式だった。三十を超えたら、急に周りで結婚する友人が増えたように思う。結婚式も今年三回目、ジューンブライドって言葉の通り、今月はもう二回目だ。まだまだ先の話だけど、僕が昔所属していたROCK DOWNのメンバーからも既婚者が出るのかもしれないなぁと考えてしまったら、僕は、と、ふと怖くなったのだ。

僕はいつまで、孝明の隣に居られるんだろう。

「ただいま」と声を掛けると、「おかえり」って出迎えてくれる。
お互いに仕事で忙しい身だから、せめて家にいるタイミングはそうしようって、ここに引っ越してくる時に決めたルールだった。キッチンからは美味しそうな夕ご飯の香りが漂って来て、そういえば二次会はお酒しか飲んでいなかったから小腹が空いていたなとお腹がグゥと鳴った気がした。VAZZROCKプロジェクトが解散して、それをきっかけに始めた孝明との同棲生活は、この春で二年目を迎える。どちらから言い出したのか、お付き合いを始めて、それももう六年。その間、ずっと隣にいた。リーダーズとして駆け抜けた五年間、そこを離れてからもずっと、楽しい時もしんどい時も一緒に居てくれて、僕にとっての孝明はかけがえのない存在で、だから孝明にとっての僕もそんな存在であったらいいなって、そう、思ってきた。
「……おかえり、翔。……どうした?ちょっと濡れてるな」
「たかあきぃ……」
孝明に、手渡されたタオルで雑に頭を拭う。多分僕は少しばかりお酒に酔っていたのだ。披露宴から二次会までずっと飲んでいて、ふわふわするなぁって思いながら帰って来た。だから、と言い訳を並べて、僕は黒いエプロンを付けた孝明に、ぎゅっと抱き着く。肩口に額を擦り付けるとお夕飯の揚げ物の良い香りがして泣きそうになったけれど、僕が泣く事は無い。
「飲み過ぎたのかもしれない、孝明に、すごく会いたくなった」
「しょーお……よしよし、唐揚げは明日にする?」
「……ううん、食べる」
「食べるのか」
結婚式に出席したスーツを着たまま、だった。このまま全部投げ出してしまって、ベッドに向かうのも悪くはないと思っていたけれど、孝明の作った唐揚げだって魅力的だったのだ。だってこんなに、食欲をくすぐるいい香りがする。
「着替えておいで?風呂も沸いてるし、ビールもある」
「……至れり尽くせりだなぁ」
「へへ、翔のためだよ」
「僕の?」
「そう。翔と一緒に食べようと思って作ったの。さ、お風呂入っておいで」
そう言って、孝明は極上の笑みを浮かべて、僕の腕を引いた。だから僕もその大きくて温かな手のひらをぎゅっと握り返して、その笑顔を見つめている。僕はずっと、この笑顔が大好きだった。孝明の一番の笑顔。それを一身に受け止める立場にいられる事がなによりも幸せで、だから。この同棲生活は僕が言い出したのだった。ユニットを離れて、一人になった君と僕。芸能界に残ることはとっくに決めていて、何処かのタレント寮に移り住む事も選択肢の中にあったのだけれど。
『一緒に暮らさないかい?僕と』
『えっ?』
『孝明、君ともっと一緒にいたい』
驚いた様子の君の、手を取って。それは、僕からしてみたら一世一代のプロポーズだったのだけれど、孝明はあのいつもの軽い調子で、「良いよ」って引き受けた。朝はちゃんと起きること、自分の事は自分でやること、それから、挨拶はちゃんとすること。二人暮らしを始めるにあたってそうやっていくつかのルールを決めて、その中で孝明は「終わりにする時は翔が決めて」と言い出した。僕たちは、付き合う前を含めて、出会ってからの七年間で一度も喧嘩をした事が無くて、だから孝明が「終わり」について言及をしたのも初めてだったから、「僕が?」と問い返したのだ。僕から終わらせるなんてありえないと思っていたから。
『終わる事なんてあるの?僕と君が?』
『俺はこの通りの性格だから。終わりにする時は、翔、おまえの選択に従うよ』
孝明はそう、言って笑っていたけれど。僕には君の手を放すつもりなんて、毛頭無かった。

その晩、僕は孝明の作ってくれたご飯を食べて、ビールの缶を一缶だけ開けて、いつも通りに一緒のベッドに入った。僕の部屋の方に置かれたベッドは大きなキングサイズのベッドで、ここに越してくる時に僕が勝手に選んだものだった。孝明の部屋にもダブルサイズの広いベッドが置かれていたけれど、二人で眠る時は専らこっち。僕のベッドで、僕がいつ寝こけてしまっても良いようになっていたのだ。僕たちは恋人同士だったから、タイミングが合えば一緒に眠るし、例えば翌日がオフだとか、体力に余裕がある日にはセックスもする。身体の相性は良い方だと思う。僕は彼と寝るのも大好きだった。男同士のセックスは痛みを伴う。生産性の全く無い、不毛な行為だったけれど、孝明はいつだって僕に優しかった。
今夜もいつも通りに夜が更けて行ったけれど、多分いつもよりもセックスは激しかったと思う。いつもより、もっと、って、孝明を求めてしまっている自覚はあった。
「翔、どうしたの?」なんて。何度目かの行為の中で孝明は僕の頬を撫でて問いかける。
「……離れたくない」
「……離れないよ?どうして」
「孝明、君が好き」
「俺も好きだよ?本当、どうしたの?翔?」
孝明が、繋がった手と手を離すことは無い。それでも僕は、何度君に抱かれても足りない、僕は君が好きだったし、君は僕を愛してくれていた。それこそが幸せな家族の形だって思っていたのだ。僕たちは男同士だったけれど、そういう、強い結びつきを感じていた。
幸せだった、少なくとも僕は、君との『終わり』なんて考えてはいなかった。
もっと全部、君の全部が欲しくて、でもそんなことは叶わなくて、プロジェクトが終わっても君から離れる事が出来なかった僕は、一人になった君を、僕の中にずっと縛り付けている。

窓の外では雨が降り続いていた、まるで、僕の心のように。
僕は、心の中では泣いていたと思う。涙が流れる事は無かったけれど。
どれだけ抱かれても満足する事は無い、それでも、気がついたら眠ってしまったらしい、君を腕の中に抱いて。うつらうつらと重たい瞼を開いたら、窓から弱い朝日が差し込んでいた。僕の部屋にあった遮光カーテンは、孝明の手によって外されて、新しいグレーのカーテンが掛かっていた。よく光が差し込むタイプのそれは、朝になったら眩しいくらいの朝日を取り込んで、寝坊助な僕の起床を促してくれるんだけど、ここ数日の重たい空の色では、どうにも気持ち良く目覚める事が出来ない。今日も雨か、と思いながら、僕は頭の中で本日のスケジュールを確認していた。今日は昼から事務所に顔を出して、新曲のCDを受け取ってくる予定を入れていた。僕は、ソロになって、それまでROCK DOWNで精力的に行っていたタレント活動の大半を断って、ヴァイオリニストとしての活動に専念するようになっていた。国内や海外での演奏会も増やして、楽器に触れている時間が多くなった。それでも、前よりもずっと、ビジュアル仕事にも寛容になっていたから、音楽雑誌の表紙を飾る事なんかも多々ある。そういう、バランスは上手く取れていた。仕事の面では充実していた。
プライベートだって。どんなに忙しく仕事をこなしても、家に帰れば孝明がいて、ユニットにいた頃よりも二人でいられる時間が増えたのだ。それは僕にとっては満ち足りた時間だった。

それなのに。君を散々求めて、抱かれて、それでも足りなくて。
そうして僕は、君を腕に抱いて眠ったのだ。

寝惚けているのだと思った、だって薄く瞼を開いた僕の目に映った君が、僕の腕の中に抱きしめて眠ったはずの君が……。孝明が起きてこないのはおかしいと思っていたのだ。前夜どれだけ『夜更かし』しようとも、お酒を飲もうとも、今日がオフだったとしてもそんなものは関係なく、いつだって彼は朝からシャッキリとしていたから。
だから、僕にはこの状況がすぐには飲み込めなかった。
パチパチと数度瞬いた僕の瞳には、すやすやと眠る、幼い子どもの姿が映っていた。
「…………え?」
「う……ん……、」
僕の腕の中に収まって眠っているのはどう見ても四、五歳くらいの小さな男の子で、見覚えのある大きな黒いTシャツを着て、眠たそうに身じろいでいた。
僕の頭は珍しく混乱していた。
いや、だってなんで僕の家の僕のベッドに子どもがいるの?この部屋には孝明以外の人間を入室させた事は無かったのに。……いやいやいや、ちょっと待って、そんな事じゃ無くて。
そんな事じゃ、無くて。と、僕はもう一度掛け布団を捲って、子どもの寝顔を覗き見た。
黒いTシャツには、見覚えがあるのだ。眠る時に、孝明がよく着ている部屋着のTシャツ、それから、艶やかな髪の毛は深い茶色で、同じ色の凛々しい眉毛と長いまつ毛にも、幼いけれどよく整った目鼻立ちにも、些か見覚えがあった。だってこれはどこからどう見ても……、
僕が、『家族』になんか思いを馳せちゃったから、急に子どもが出来ちゃったわけ?
いやいや、この子は僕らの子などではない、孝明はどこに行ったのだという話になる。

つまりは導き出される答えは一つなのである。

「た、……孝明?」
「ん……、あさ……」
子どもは眠たそうに、僕の腕の中で目を擦っていた。そっと開いた瞳は、やっぱりというか何というか、僕が想像していた通りの美しいアメジストの紫で、子ども──いや、小さなたかあきは、僕の顔をジッと凝視して、しばらくするとその瞳の中に大粒の涙が滲んでいった。
「え……ぇ……、おにいさん、だれ?」
「だ、誰?って、え?」
「ここどこ?お母さんは?……おれ、……おれ……」
たかあきの、幼い顔がくしゃりと歪んだ。
まずい、泣く、と思った瞬間、子どもは枕を抱いてひっくひっくと泣き始めて、そうなってしまったらもう、僕にはどうすることも出来ない。バラエティ番組の企画で子どもと触れ合った事があったけれどもあれはママが側にいてご機嫌な子だったし、ドラマや舞台で共演するような子役の子は、もうちょっと大きい子ばかりだったから。これくらいの子どもには、これまでに縁が無かった。手持ち無沙汰で困り果ててしまった僕は、とりあえずその、寝癖のついた柔らかな髪の毛をふわふわと撫で付けた。良い子良い子と撫でてやると、撫でられて落ち着いたのか、はたまた泣いて落ち着いたのか、ひっくひっくとしゃくりあげながら、紫の瞳を赤く染めて、たかあきは恐る恐る、僕を見上げていた。
「僕は翔……、えぇと、君は……」
「……たかあき」
「……たかあきくんは、何歳かな?」
「……五歳」
小さな手が、パーの形に開かれて、指五本で、『五歳』だと教えてくれる。
その頃にはたかあきもだいぶ落ち着いたらしく、露出している腕で乱暴に瞳を拭うと、ベッドの上に正座をして、部屋の中をキョロキョロ観察しているみたいだった。可愛らしい子猫が迷い込んだみたいだ。僕たちはVAZZROCKプロジェクトにいた五年間で二匹の猫を飼っていた。二匹とも、今は、主だって世話をしていた直助と歩にそれぞれ貰われて行ってしまったのだけれど、その猫を思い出して、ほっこりと温かな気持ちになっていた。
そんな、静かな空間に、「くぅ」と可愛らしい、音が響いて。
コテン、と首を傾げた僕から、たかあきは真っ赤に染めた顔を背けてしまう。
「……おなかすいてる?」
「……ご、ごめんなさい」
「朝食にしようか?もっとも、僕は簡単なものしか作れないけれど」
「ごはん?」
たかあきの、大きな瞳が、期待でキラキラと輝いていた。
「おいでたかあき、ご飯にしよう」
だからそうやって、僕がにっこり微笑んで手を差し伸べると、たかあきはおずおずと躊躇いがちに、その小さな手を僕に伸ばしてくる。小さな指全部を使って、親指だけをぎゅっと握られた僕は、その温かさに目を丸くして、ベッドを降りて傍らに立った、小さな存在を見下ろしていた。五歳だと言っていたし、男の子らしい、筋肉質で肉付きも良くて、おおよそ健康的な体格をしていたけれど。身長は小さい、腰くらいの大きさしかなくて。こ、これは……。(かわいい)って、思わずそう、言い出しかけた言葉をグッと飲み込む。

小さなたかあきをダイニングテーブルに座らせて、自分はキッチンにやって来る。孝明が昨晩、ご飯を炊いている様子は無かったから、トーストで良いだろう。ジャムとマーガリン、それから冷蔵庫には卵とベーコンが入っていたはずだ、牛乳も。自分用にコーヒーを落として、トースターには二枚分の食パンをセットする。ここに来るまでに、自分一人で暮らしていけるだけのスキルは身についていた。家事は一通り出来る。遠征続きで掃除が出来なくて、荒れた僕の部屋を見て呆れる孝明には「出来るとやるのは違うんだよ」なんて笑って言っていた僕だけど。それはROCK DOWNに入る前に長い海外生活で身についていた「昔取った杵柄」的な面も大きいし、料理なんかは、孝明と一緒にキッチンに立つ事も多かった。
簡単な料理くらいなら僕にだって出来る。もちろん器用では無い方だから卵はスクランブルエッグだし、ベーコンも焼くだけだし、そうして出来上がったプレートに冷蔵庫にあったレタスとプチトマトを乗せる。これにトーストと牛乳を揃えれば立派な朝食だ。孝明は好き嫌いもアレルギーも無かったはずだけど、小さなたかあきはどうなのだろう。ダイニングテーブルに座ってお利口に待っているたかあきの目の前にさっき作った朝食を並べてやると、子どもらしい大きな瞳がまぁるく見開いて、小さなお口からは「わぁ」と歓声が上がった。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
礼儀正しい子どもだった。パチンと両手を合わせてそう言うと、孝明は小さなスプーンで卵を掬って、口に運んでいく。
「美味しい。……ありがとう、えっと、しょう……さん?」
「翔で良いよ。食べ終わったら一緒にお出かけしようね」
「おでかけ⁈」
たかあきは、目を輝かせていたけれど。
今日は一日オフだと聞いていたのが救いだったが、明日からの仕事をどうすれば良いのか、事務所に相談しなければいけなかった。ちょうど僕自身の用事もあったし、事務所に向かうまでの道中で服を買って、事務所に寄って、帰りに、子連れでランチが出来る店があればそこで昼食を食べてくれば良いかなと、そう、計画を立ててコーヒーを啜る。

外に出ると、やっぱり雨が降っていた。僕は大きめのビニール傘を傘立てから取ると、子どもを連れてエレベーターに乗って、エントランスへと降りてくる。
自分の用事だけだったので当初は電車で向かう予定だったのだけれど、流石にまともな服も着ていない子どもを連れ回すのもどうかと思った僕は、申し訳ないと思いつつもマネージャーさんを呼び寄せた。VAZZROCKに入る前からお世話になっている僕の専属マネージャーの柳井さんは、僕と、それから傍らにいる小さな子どもを交互に見やって、いつもは穏やかそうに細められている瞳を見開いて、珍しく驚いた様子を見せていた。
「……これは……」
「……えぇと、色々と事情がありまして……」
そうして孝明が小さくなってしまった事、それを事務所に相談しに行こうと思っていた事をかいつまんで説明した僕には、驚きながらもなんの疑いも無く納得してくれて、そのまま車で近所にある子ども服のセレクトショップに連れて行ってくれる事になった。
そこでは服と靴と、それから下着も二、三着見繕って買い物を終えると、さっきまでのぶかぶかのTシャツ姿ではない、「子どもらしい子ども」が完成していた。年相応の子どもなんだけど、この服は小さいたかあきが自分で選んだものだったから、もう既に孝明らしさが完成されてるというか何というか、そこにいるのはサイズを小さくしただけの孝明そのもので、小さくなっても本質は変わらないのだなぁと感心してしまう。
「どうかな?変じゃない?」
「すごくかっこいいよ、よく似合ってる」
「……ありがとう、翔」
たかあきはそう言って、またはにかんだように笑う。
僕の、一番好きな君の笑顔が頭に浮かんで、胸がぎゅっと締め付けられている心地だった。

事務所を訪れた僕たちは、すぐに社長室に通された。買い物をしている間に事前に柳井さんが連絡を入れてくれていたらしくて、社長室には社長の姿があって、多忙なこの人がここにいるのは珍しいと思っていた。傍らには何度か会ったことのある、孝明のマネージャーさんの姿を見つけた。こちらはニコニコ顔の社長とは打って変わって、真っ青な顔色をしていた。
「孝明が、小さくなったと聞いているけど」
「すみません、僕にも全然状況が飲み込めて無くて」
「いやぁ、可愛いねぇ。僕、子どもは大好きだよ」
「社長!そんな事を言っている場合ではないです‼︎」
マネージャーさんが真っ青になる理由も分かる。
孝明は三十を過ぎても尚、世間的にも高い人気を誇るタレントの一人だったから。彼が忙しくしているのは知っていたし、夏には新ドラマの出演も決まっているのだと聞いていた。
「まぁ、向こう一週間は仕事をリスケするしか無いだろうねぇ」
「そう簡単に言わないでください……しゃちょぉ……」
「小野田くんも、二、三日休みを取れたりしないかな?お世話をする人間が必要だろう」
「幸いな事に演奏会は週末まで入っておりませんので、そちらは可能かと」
真っ青な原田さんに対して、柳井さんの方はいつもの穏やかな笑みが復活していて、すぐに僕のスケジュールを確認してくれていた。彼の仰る通り、僕はここ数日中は雑誌の撮影が集中していて、スケジュールはある程度調整出来た筈だった。
「僕も不思議な現象には耐性が付いているつもりだったけどねぇ、そんなんじゃ君も不安だろう。ちょうど、こんな事象に詳しい子を呼んでおいたから、帰りがけに会って行くと良い」
社長はそう言って、たかあきの頭をよしよしと撫でながら、やっぱりニコニコと笑っていた。
社長と、柳井さんと原田さんには会釈をして、僕は、「こんな事象に詳しい人間」と、首を傾げていた。たかあきの手を引いて、社長室を後にすると、そこでばったり、社長が言っていたその人と遭遇する事になる。優雅なオーラが垂れ流し、年齢を重ねても永遠の少年のような無邪気な魅力のある、僕も人の事は言えないくらい白いらしいけど、この子は、見た目も、纏うオーラも、そのオーラが奏でる音も、全てが、暖かくて冷たい、白銀の色をしていた。
「……隼くん!」
「翔がお困りだって聞いてね、飛んできたよ」
「文字通りビューンってね」と、隼くんは軽やかに笑っていた。僕は敢えてそこには触れずに、僕と手を繋いだままでちらちらとこちらの様子を伺う、たかあきに目配せをする。
「たかあき、隼くんだよ?優しいお兄さんだから大丈夫」
「しゅん、さん、」
「やぁ、孝明、はじめまして。隼お兄さんだよ〜!」
背が高い隼くんがしゃがんで、子どものサイズに目線の高さを合わせる。優しい「隼お兄さん」は、たかあきの小さな手と握手をすると、それはもう優雅な笑みを浮かべていた。
「さて、ランチついでにカフェにでも行こうか。お子様ランチは好きかな?」
「……好き!」
「何よりだよ。……翔には事情を聞かせてもらおうね」
「……うん」
魔王様の優雅な笑顔に、僕もやんわりと笑みで返す。

大きなビニール傘が二つ、雨の道を並んで歩く。真ん中には小さな子ども。僕はたかあきの手を引きながら、これはまるで「家族」の形みたいだなぁ、なんて事を思っていた。

「家族」のあるべき形に憧れていたのは僕の方だ。父親がいて、母親がいて、真ん中に子どもがいる、ごく普通の家族。僕はそれが羨ましいと、あの夜、一瞬でもそう思ってしまった。そんなものは僕が勝手に望んだだけの事だった筈で、だから孝明は完全に巻き込まれただけなのだと、そう言った僕に、隼くんは興味深そうな目の色をして話に聞き入っていた。
お洒落なプレートに盛られたお子様用のパスタを食べているたかあきを隣に、僕はパスタとピザを頼んで、隼くんは大きなハンバーガーとポテトのセットを選んでいた。明らかに食べるのが難しそうなそれを、難なく、優雅な所作で口に運んでいくのだから感心してしまう。
「僕は別に、孝明との子どもを望んでいたわけでは無いんだ。孝明に大事にされていたのは分かってたし、僕もそれで良いと思ってた。だからまさか、孝明が子どもになってしまうなんて思っていなくて……」
「……翔」
ぺろりと平げられたハンバーガーを見送って、僕は、一緒に頼んでいたアイスティーをクルクルとかき混ぜていた。店内は涼しげだったけれど、ずっと放置していたアイスティーは上の方では氷が溶けかけていて、綺麗な琥珀色が、混ぜるとじんわり、薄い色になって行く。
「……翔、君の話とこの問題は、少し本質が違うのかもしれないよ」
「……え?」
隼くんの瞳がふんわりと細められて、柔らかな笑みでたかあきを見つめている。
「絶対的な愛情の形を巡る、お伽話……」
「隼くん?」
「君がどんなに孝明を愛していたとしても、孝明の方が変わらなければこの問題は解決しない」
「それってどういう」
僕がそう言いかけた瞬間、カチャンと音を立てて、たかあきが手にしていたフォークが床に転がっていった。すぐに店員さんが見つけて新しいものと取り替えてくれたけれど、シュンとした様子で、たかあきは僕の顔色を伺っている。
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ?店員さんにありがとうございますしようね」
「ありがとうございます!」
ニコニコの笑顔に、カフェの女性店員さんがキュンとしているのが手に取るように分かる。たかあきは本当に、小さなミニ孝明なのだ。愛想が良くて要領が良くて、可愛くて世渡り上手。逆に子どもの頃からこんな風だと疲れたりしないのかなって心配になるくらいだけれど、三つ子の魂百までと言うし、多分これが孝明の性分なのだろう。お子様ランチをぺろりと平げてしまうと、あとは暇を持て余して、おまけで貰ったおもちゃのミニカーを走らせている。
自動で走るそれを「すごいなぁ」と見つめて、僕は、小さなため息を吐き出した。
「孝明に『愛情』が芽生えれば、きっとすぐに元に戻るよ」
「……あ、愛情?」
「いっぱい愛情を注いであげてね、そしたらその分だけ返ってくるだろうから」
そんな事を簡単に言ってしまう、隼くんの綺麗な顔を、まじまじと見つめる事しか出来ない。『愛情』だなんて言われても、僕にもどんなものか分からないというのに。
隼くんとはカフェで別れた。たかあきに、『愛情』が芽生えれば元に戻るよ、なんて、彼はさも簡単な事のように言ってのけたけれど。愛情。僕は充分孝明に、大事にしてもらっていたし、愛されてると思っていたんだけどなぁ、って。帰りは送迎を断っていたから、たかあきと手を繋いで電車に乗って帰ってきた。たかあきは電車に乗るのに大層はしゃいでいたけれど、はしゃぎ疲れたのか、最寄駅に着く頃には少しうとうとしていた。
駅に着いたら雨は止んでいて、空には真っ赤な夕焼けが広がっていた。
「マンションまでもうちょっとだけど、歩ける?」
だからそう言って、手を引いた僕には、こしこしと目を擦って、首を大きく縦に振る。
「平気、もうお兄ちゃんだから」
「そう。僕は抱っこしてあげても良いよ?」
「抱っこなんて恥ずかしいだろ?おれ、赤ちゃんじゃないもん」
「そう」
そう言って、僕の手を握る小さな手にぎゅっと力を込めて、たかあきはトコトコと早足で後ろをついてくる。だから僕も歩調を緩めて、二人並んで夕暮れの道を歩いていた。
と、ブルブルと僕のスマホが震えて、メッセージの受信を知らせる。
「……っと、」
昼間、事務所を訪れたタイミングで親しい友人達にメッセージを送っていたのだ。仕事を終えて確認したのだろう、そのお返事が今になって届いたというわけだ。
「どうしたの?」
僕を気遣うように見上げるたかあきには笑顔で返して、僕はメッセージを打ち込んだ。
「明日は遊んでくれるお兄さんとご飯作ってくれるお兄さんが遊びに来るって」
「ほんと⁈」
「『昼メシ何が食べたい?』って。たかあきは何が好きかな?」
「今日はスパゲッティだったから明日はハンバーグが良い!」
「ふふ、ハンバーグね。リクエストしておこうか」
「やった」
たかあきは無邪気そうに笑って、僕と繋いだままの手をブンブンと振った。

たかあきはしっかりとした子どもだった。五歳、とは、一人でこんなにも自分の事が出来るものなのかと感心してしまう程に。おうちに帰ったら言われなくともしっかりと手洗いうがいをするし、夕ご飯は孝明が買い置きしてくれていた袋ラーメンにしようとしていた僕に、「おてつだいしようか?」と声を掛けて来て、ピーラーで人参の皮を剥いてくれた。子ども用だったら包丁も使えるのだと言う。お風呂も一人で入ってしまうし、それに、九時になったら歯磨きをしだして、終わったら一人で寝ようとしていたたかあきを、流石にそれは……、と、捕まえたのは僕だった。
「……一人で寝ちゃうの?」
「翔は一人じゃ寝れないの?」
寝れないの?と言われてしまえば、いつどこでも眠れる僕なんだけど。たかあきのなんの邪念も無い澄んだ瞳を見下ろして、グッと、言い負かされてしまいそうになる自分を堪える。
「いっぱい愛情を注いであげてね?」という隼くんの言葉が頭の中をチラついていた。
「……僕が一緒に寝たいから、たかあき、一緒に寝よう?」
これには、孝明の枕を持っていたたかあきの瞳が、パァっと明るくなったような気がした。
僕の手を握って、繊細そうなアメジストが、ニコニコと笑みを浮かべている。
「……一緒に寝てもいいの?」
おや……、これは、と、たかあきには気付かれないくらいにそっと目を丸くした僕は、たかあきのふわふわの髪の毛を撫で付けて、ふふと笑いかけた。
「歯を磨いてくるから、僕のベッドで先に寝てて?」
「うん!」
パタパタと駆けて行く後ろ姿を見送って、僕はグッと身を伸ばしていた。
あの小さな背中を見ていて思う。五歳、なんて、まだまだ小さくて、両親の愛情をたっぷり受けて育っている年頃だ。実際たかあきはしっかりしているけれどまだほんの子どもで、手を繋いだら子ども体温で温かいし、おもちゃのミニカーを貰って喜んでいるし、一緒に歩いていると一生懸命についてくるし、一緒に寝ようと言ったらあんなに嬉しそうな顔をしてくれるのだ。僕の五歳くらいの時を思い出していた。僕は、それくらいの歳で両親の元を離れて、おじいさまの家で世話になっていた。小さな頃は感情表現が少し苦手な子どもで、それで、僕を育てるのに手を焼いた両親が、祖父母の元に預けたのだと聞いていた。僕はそこでヴァイオリンと出会ったおかげで、自分の内に秘めた感情を表現する術を身につける事が出来たのだけれど、子ども時代の思い出もあって、未だにずっと、両親とは距離がある。
『愛情』なんてものに、一番縁遠いのはきっと僕の方だ。
洗面所で歯ブラシを動かす。ミントが鼻の奥にツンとして、涙が出そうになった。

ベッドにやって来たら、よっぽど疲れていたのだろう、たかあきはすやすやと眠っていた。
僕はその小さな子どもを抱きしめて、うとうとと目を閉じる。

***

「しょーお、起きて!」
朝、僕を揺する、愛しい人の声が聞こえた。孝明だ。きっと、昨日の一連の事件は神様の悪戯かなんかで、朝起きたら君は元の姿に戻っているのだろうと思ったのだけれど。
目を開いた僕に、可愛らしい子どもの顔が飛び込んでくる。
「しょーおー!」
「わぁ!」
僕に飛び込んできた小さな身体を受け止めたら、びっくりするほど軽い。天使みたいだなぁなんて思いながら、その寝癖の残る髪の毛をふわふわと撫で付けた。柔らかな手触りの黒いパジャマは、昨日お店でこの子が選んだもので、抱き心地が良いから大人の孝明もこういうの着れば良いのになぁと思いながら、抱いて眠ったのを思い出した。
「おはよう、たかあき。早起きだねぇ」
「もう八時だよ?朝ごはん食べよう」
「ふふ……今日は一緒におにぎりでも作ろうか」
「うん!」
お米は昨日予約しておいたから、もう炊き上がっているはずだった。梅干しと、おかかと、それから何があったっけなぁって、冷蔵庫の中身を思い出しながらぼーっと頭をかいていた僕を、たかあきはジッと見つめている。
「……どうしたの?」
「い……や……」
パッと、僕から逸らしてしまった顔を追いかけると、どことなくほっぺたが赤いみたいで。どうしたのだろう、って、顔を覗き込むと、たかあきは困ったような顔をしている。
「ねーえ?どうしたの?」
もう一度、そう問いかけると、たかあきはまだ赤みの残るほっぺたを押さえて、僕の顔を見返す。ちっちゃなほっぺたをぺちゃっと潰して、唇からは「ぐぬぬ」と声が漏れ出していた。
「……翔のお顔、綺麗だなって」
「……へ?」
「……なんでもない!」
たかあきはそう言い残してベッドからぴょんと飛び降りると、リビングの方へ行ってしまったのだった。僕は子どもが発した「綺麗」という言葉を、心の中で反芻していた。

『……というわけで、今日も一日、雨が降ったり止んだりのお天気になりそうです』
『いやぁ〜、本当に、今年の梅雨は長い』
朝食を食べながら朝のニュース番組を見ていると、お天気お姉さんとコメンテーターのおじさんがそんな話をしているのが僕の耳に届いた。今日の東京の天気は曇りのち雨。降水確率は七十パーセント。今日も雨なのかぁと、モグモグとたかあきが握ったおにぎりを食べていた僕を見上げて、たかあきも悲しそうな顔をしていた。
「遊びに行けないね……」
「雨が止んだら、お散歩に行こうよ」
ルカと岳が捕まったのは、本当に偶然だったのだ。当初、孝明がちっちゃくなっちゃった事を知るのは社長とマネージャーだけだったのだけれど、主に栄養面的にどうにもならないと思った僕は、元ロクダンのメンバーにヘルプを求めた。ロクダンの子達だったら、この状況を絶対に黙っていてくれる信頼みたいなものがあって、だから、内々にしてほしい、とグループラインにメッセージを送って、打ち明けたのだ。当然、みんな忙しそうで、仕事だ、というメンバー達の中で、【明日なら空いてる!】とお返事をくれたのがルカと岳だった。
「か、か、か、可愛い〜〜〜‼︎」
「わー、ほんと可愛いな」
二人は僕たちの家にやって来るなり、玄関にひょっこり顔を出したたかあきを見つけて歓声を上げた。たかあきは最初は賑やかな二人にびっくりしていたんだけど、まぁそこは、双方のコミュ力の高さが早い段階で作用していた。子どもウケの良さそうなルカと岳はともかく、昨日も思ったけれど、大人相手でも物怖じしないたかあきには、本当に感心してしまう。
「ルカと、がく……?」
「そうそう、よろしくね?孝明くん」
「あー、なんか変な感じだな、本当に孝明さんをそのまま小さくした感じ」
「……?」
岳の言葉には、「でしょう?」と言いたくなった僕だけど、たかあきの不思議そうな顔を見つけて、黙っておいた。たかあきは、本当に、孝明そのまんまなのだ、容姿はもちろんだけど、気性?みたいなものも。だから時折、大人の孝明と接しているかのような錯覚に陥る。
ダイニングの椅子に座ってお土産のアイスココアを飲んでいる小さなたかあきを微笑ましげに見つめていると、スーパーで買ってきた食品を冷蔵庫に移し終わった岳が、キッチンから顔を出して声を掛けてくれる。
「昼ごはんまで遊んできたらどうだ?リクエスト通り、ハンバーグ作って待ってるからさ」
「近くに公園があるよ」
「ハンバーグ⁈公園⁈」
「あはは、可愛いなぁ〜、喜んでる」
スマホの天気予報を覗き込むと、午前中から正午にかけて、雨の止むタイミングがあるみたいだった。そこを狙って、岳に、キッチンを任せて、たかあきとルカと僕の三人は散歩に出掛ける事にした。公園までは歩いて十分程。その道のりを、たかあきを真ん中にして、両隣に僕とルカ、三人並んで、手を繋いで歩いていた。マンションに程近い、その公園は、小さいけれど子どもが遊べる遊具もあって、夕方になると近所の小学生で賑わうんだけれど、午前中はまだ人足も少ない。ベビーカーでお散歩をしている赤ちゃんとお母さんを横目に、僕たち三人は手近なベンチに荷物を置いて、さぁ何をして遊ぼうかと言ったところ。
「鬼ごっこ!」
「鬼ごっこ〜?俺負けないけど」
「ふふ、鬼ごっこ……、良いね」
「翔くんも走るの⁈」
失礼な、僕だって、かけっこの経験くらいあります、とぷぅっと頬を膨らませた僕を見つけて、ルカが苦笑していた。かけっこの経験は、ある、けれど、幼い頃からヴァイオリンばかり弾いていた僕は、多分普通の子どもらしく遊んだ経験が極端に少ないのも事実で。
でも、鬼ごっこ、楽しそうって微笑むと、たかあきも嬉しそうに僕の手を引く。
「じゃあ鬼決めじゃんけんな?じゃーんけん」
「ポン!おっとぉ?」
「ふふ、僕が鬼」
「翔くんは十数えたらスタートね!範囲はこの公園の中!」
よーいどんで逃げたたかあきとルカに、十数えた僕が続く。元々、体力には自信があるとはいえ、ロクダンの中でも随一の運動神経を誇っていたルカに勝てるとは思っていなかったけれど、たかあきも、五歳児なのに足が早くて、すばしっこくて参ってしまった。しばらく追いかけていたんだけど全然捕まらなくて、流石に息も上がって来た僕は、スタート地点のベンチへと腰を下ろす。ハァハァと荒い呼吸の中で、いや、ほんと、子どもとルカの体力を侮っていたのもあるし、何より自分の身体が、三十代だという事実を思い知らされていた。
「翔くん〜、ギブ?」
「翔、大丈夫?」
「二人とも……、足……早……、捕まらないよぅ……」
ベンチに座って、出掛けに岳が持たせてくれた大きな水筒に入れられた麦茶を飲んでいると、冷たくて生き返るようだったけれど。息の上がっている僕に二回戦は無理だと判断して、あとは元気な二人に任せてしまう。汗だくのたかあきをタオルで拭いてやって、麦茶を差し出す。
「たかあき、水分摂ってから遊んでおいで?」
「はーい。行こう、ルカ!」
「うん!先に行ってて、俺もお茶飲んでから行くから!」
「うん!」
遊具の方に駆けて行く孝明を見送って、ベンチにへたり込む僕を、ルカのニコニコとした笑顔が見下ろしていた。ルカは麦茶を飲み終わってキャップを締めると、ふふ、と笑みをこぼす。
「なんか翔くん、お母さんみたい」
「え?」
「最初は、孝明くんが小さくなったって聞いて、どういう事だって思うじゃん?それでね、がっくんと二人で、『翔くんにお世話が出来るのか?』って心配してたんだ」
「あ〜……」
ルカの、言わんとする事はわからなくもない。
若い頃の僕は自分一人で生きるのが精一杯で、ROCK DOWNのリーダーとなってからもみんなに頼っていた部分が大きい。尤もそれは、誰にも寄りかかる事知らなかった十代の頃の僕から比べたら、人間として成長した結果だと思っているけれど。
「お母さん……かぁ……」
「まぁ、世の中には色んなお母さんが居るよ」
「ルカ!早く‼︎」
「は〜い!今行く!」
ルカの事も見送って、僕はベンチの背もたれにもたれ掛かって、ハァとひと息吐き出した。お母さん……、お父さんじゃなくてお母さんなのか……、と、今更そこに突っ込んで、じゃあ、あそこで遊んでるルカとたかあきは息子みたいなものなのだろうかと苦笑する。隣のベンチにはいつのまにかさっきまで公園内をお散歩していたお母さんが座っていて、軽く会釈をすると、ベビーカーの中から可愛らしい赤ちゃんの顔が覗いた。まだ本当に小さなその存在にニコリと微笑みかけると、赤ちゃんは笑顔を返してくれて、胸が締め付けられる心地だった。

一時間ほど遊んで帰宅した僕たちを、岳が出迎えてくれた。既に家の中にはお昼ご飯の良い香りが漂っていて、沢山遊んできてお腹がペコペコの僕たちの鼻先をくすぐる。
「お腹すいた〜‼︎がっくん、ハンバーグ‼︎」
「ハンバーグ‼︎」
手を洗うために洗面所に駆けて行く、たかあきとルカの後を追いかける。
「ハンバーグだけじゃないぞ〜、時間があったから色々作っちゃった」
「?」
ひょこっと顔を出してそう言う岳には、そう首を傾げていると、先にリビングに向かったたかあきの歓声が、こちらまで聞こえてくる。
「わぁ!」
「がっくん特製!お子様ランチ!」
岳が料理上手なのは、僕も承知であった。けれどもこれは、正直なところ、昨日のカフェのお子様ランチよりも数倍の迫力である。お皿に盛られた小さな旗付きのオムライス、エビフライ、たかあきリクエストのハンバーグ、デザートにプリンまで付いている。何よりびっくりなのは、岳ってば、それの大人用サイズまで用意してあるって事だ。
「翔とルゥには、大人様ランチ」
「え〜!俺もお子様ランチが良い〜!」
「大人用にはビール付きだぞ?」
「ふふ……、昼間から飲む気なのかい?」
クスクス笑って、それでも嬉しくて、僕が席につくと、たかあきも隣の椅子にちょこんと腰を降ろす。対面には岳とルカが座って、四つ並んだプレートを前にみんなでいただきますをすれば、素敵なランチのスタートだった。ビールで乾杯をする僕たちに倣って、たかあきも、オレンジジュースの入ったグラスをカチンと鳴らして、一緒に乾杯してくれた。
「美味いか?」
「うん!美味しい!」
「美味し〜‼︎あー、幸せ‼︎」
「ルゥはケチャップついてるぞ〜」
岳の作るご飯は、美味しい。それはロクダンにいた頃からずっと変わらない。作る人の心が込められているのだろう、すごく温かいのだ。無言でぱくぱくとお子様ランチを食べているたかあきが可愛らしくて目を細めていると、それに気付いた岳は、僕の方を見て微笑んでいた。
「冷蔵庫の中の傷みそうな野菜も使わせて貰って、保存の利くおかずも何品か作っておいたから」
「わぁ!助かるよ、ありがとう」
「いえいえ、……孝明さん、早く元に戻れると良いけどな……」
「……本当に、ねぇ」
岳は、デザートのプリンに手を伸ばしているたかあきを見つめて、それから僕に視線を移して、気遣うような口調で言う。本当に、そう。孝明が早く元に戻ってくれない事には、僕は。
孝明が元に戻る見通しが全く無い事に、僕も相当、困り果てていたのだった。
「また休みの日には顔を出すよ」と頼もしい言葉を残して、ルカと岳は帰って行った。
たかあきはだいぶ寂しそうな顔をして、二人を見送っていた。いっぱい遊んでもらったのだ、無理はない、と思いつつ無言で腰元にぎゅっとしがみついている、子どもの後頭部を撫でる。
「寂しい?」
「……ちょっとだけ」
「また遊びに来てくれるよ」
泣いちゃうかな?って思ったけれど、たかあきは気丈にも泣く事はなかった。本当に芯の強い子なのだと、その時はそう、思っていたのだけれど。

夕食を終えても、どこか元気の無いたかあきが心配になって、僕はテレビを見てぼんやりとしているたかあきの横顔をひょいっと覗き込む。
「今日は僕と一緒にお風呂入ろっか?」
「……翔と?」
僕をジッと見上げるたかあきは、驚いたように目を丸くしていた。どうしたのだろう?と、僕が不思議そうに首を傾げていると、たかあきはしばし考えてる様子を見せて、数秒置いて、コクリ、と小さく頷いた。
「入る……」
「ふふ、よかった」
お風呂は沸かしてあった。脱衣所の棚の中から二人分のバスタオルを出して、服を脱いで洗濯機に放る。僕はヘアゴムで髪をまとめると、たかあきの手を引いて浴室へとやって来た。
たかあきはここでもしっかりしていた。浴槽に入る前に一人で身体を洗って頭を洗って、と、していたから、「僕が頭洗ってあげる」って言ったら大層不思議な顔をされた。
「頭も一人で洗えるよ?」
「ママに洗ってもらわないの?」
「お兄ちゃんだから、一人で出来る」
わしゃわしゃと器用に泡を泡立てて頭を洗うたかあきは、さも当然のようにそんな事を言っていた。「お兄ちゃんだから」というワードを、そういえばこの前も言っていたなと思い出した僕は、たかあきの隣で自分もスポンジにボディソープを垂らして泡立てると、モコモコの泡を身体に滑らせた。「お兄ちゃん」という言葉を、僕はぼんやりと考える。
「五歳はもうお兄ちゃんなの?」
「うちには妹がいるから、俺はずっとお兄ちゃんなんだ」
「ふぅん……」
たかあきはシャワーでジャーっと泡を流すと、一番乗りで湯船へと浸かる。
僕もそれに続いた。大人が二人入れば流石に狭い浴槽ではあるが、子どもと一緒だと結構余裕がある。たかあきは僕と向かい合って座ると、入浴剤を入れたピンク色のお湯に肩まで浸かって、小さな顔の中にある大きな瞳を、きょろりとこちらの方に向けた。
「赤ちゃんも産まれたんだよ、男の子で、俺ずっと弟が欲しかったから嬉しくて」
「赤ちゃん可愛い?」
「……うん」
ちょっとだけ空いた間が気になったけれども、たかあきはそんな僕の様子は気にする事もなく、浴槽の縁の水滴を指先で弄んでいる。孝明の、ご実家には、歳の近い妹さんと弟さんがいるって話は聞いた事はあって、会ったことは無かったんだけど、会ってみたいなぁとはずっと思っていたのだ。話を聞く限りでは彼は良いお兄ちゃんのようだったし、「お兄ちゃん」をしている孝明が見てみたかった、というのもある。うちにも妹が一人いる。僕が家を出てしまってから今までずっと疎遠な妹で、可愛い、なんて思う暇もなく、僕は祖父母の家に預けられたから、本当に接点が無かった。僕が両親に「お兄ちゃん」である事を強要されたことはない。……尤も、うちの場合は向こうが僕のことを「息子」であることを放棄してきたのだから、当然僕たちの兄と妹の関係もあってないようなものだと思っているけれど。
そんな風に、特殊なうちの家系はなんの参考にもならないけれど、ごく普通のご家庭である孝明のご実家に、彼のルーツがあるのだとしたら。
「お兄ちゃん」は、孝明にとって、重荷ではなかった?
器用な彼はなんでも一人でこなしてしまうのだけれど、そうやって一切下の子に頼る事なく、五年間「リーダー」という大変な役目をこなしてきた孝明を、一番近くで見ていたのは僕だ。若い頃からクラシック界にいたとはいえ、アイドル業界ではど素人だった僕が、リーダーとして孝明のやり方を真似しようと思ったのは自然な事で、けれどもそれは根本的な孝明と僕との性格の違いから、早々に断念したのだ。僕と彼は違うから、やり方も違う方法で良いのだと。結果的に僕は、メンバーに頼りっぱなしの頼りないリーダーだったのかもしれないけれど、ロクダンはそれで良かったのだ。みんながみんな、大人だったから、「もっと翔は俺たちを頼って欲しい」と言ってくれるほど。それがロクダンという「家族」だった。ただ、VAZZYは。VAZZYは文字通り、孝明が大黒柱で、孝明が中心にいる、「家族」だったから、しんどくは無いのだろうか?と、ずっと心配はしていた。けれど孝明はそんなもの負担だとすら思っていない様子で、器用に、先頭に立ってリーダーとしての役目を果たしていた。
孝明とずっと一緒にいて、その朗らかな笑顔の裏側に、「孤独」を感じた事は多々ある。
「もうあがる」
「温まった?身体をよく拭いて、早くパジャマを着てしまうんだよ?」
「はぁい」
ほっぺを赤くして、浴室を去って行くたかあきを見送って、僕は。
たかあきに気付かれないように大きなため息を吐き出す。
孝明の、「孤独」には、寄り添ってきたつもりだったんだけどな。それすらも、僕の自己満足だったのかもしれないと思ってしまう程に、今、彼との間に距離を感じていた。
僕の愛情じゃ足りなかった?一般的な、両親から与えられるはずの愛情を受けて育ってこなかった、欠陥品の僕の愛情じゃダメだったのかな。僕はこんなに、君を愛しているのに。
そこまで考えて、ブクブクと、顔を湯船に沈める。
たかあきは、可愛い。愛おしいと思うし、一緒にいると楽しい。けど、今は、元の孝明の姿に戻って欲しいと切に願う。大人の孝明には、聞きたいことが山積みだった。

髪の毛を乾かして、歯磨きをして部屋に戻ると、ベッドの上にちょこんと、たかあきが枕を抱いて横になっていた。枕、抱くの癖なのかな?って、そこは大人の孝明とは違う部分。たかあきは僕の気配に気付くと、それまで翳りを帯びた表情を浮かべていたのに、パァッと顔色を明るくして、ベッドの端の方に寄る。
「たかあき」
「……ん?」
ベッドに入ろうとして、僕は、ベッドサイドに腰を下ろして、そこで動きを止める。
そう、子どもの名前を呼ぶと、たかあきは身を起こして、ジッと僕の顔を見上げていた。僕は意を決して、そっと、その両手をたかあきの前に差し出す。
「翔?」
「おいで、たかあき、ギュッてしてあげる」
「ギュッて?抱っこ?」
たかあきは、僅かに驚いた様子を見せて。でも躊躇いがちに僕に手を伸ばす。
抱っこ、というのも変な話だけれど、これはたかあきの言う通り抱っこなのだ、多分。
「変なの、翔。大人なのに抱っこするの?」
「大人だって、寂しい時には抱っこしてもいいんだよ?」
たかあきを、膝の上に乗せて、ギュッと抱きしめる。お風呂に入ったばかりの小さな身体は温かくて、それから石鹸の良い匂いがした。たかあきも小さな手を僕の背中に回して、ギュッて力を込めて抱きしめてくれる。
「翔、……温かい」
「たかあき、君は小さいのに本当に凄いね」
まだこんなに小さいのに、一人でなんでも出来てしまう。「お兄ちゃんだから」って君は言うけど、お兄ちゃんだって大人になったって、寂しい時は寂しいって甘えても良いのだ。君はいつだったか、「甘えるのが下手」って自己評価をしていたけど、君が甘えてくれて、喜ぶ人も沢山居るんだよって事を覚えていて欲しい。
「翔、泣かないで」
小さな手は、トントンと僕の背中を優しく叩いてくれて、その温かさと優しい言葉に、本当に涙が出てきそうになる。けれども上手く泣けなくて、小さなたかあきは僕の胸にぎゅっと顔を寄せると、僕にだけ聞こえるような本当に小さな声で教えてくれた。
「ほんとはね、俺だってお母さんにギュッてしてほしかった」
「たかあき」
「妹も赤ちゃんも可愛いけど、俺のことも見てほしかった」
「たかあき、僕は、僕は君だけを見てるよ?」
「……それも知ってる」
柔らかく僕を抱きしめる、その温もりが心地良い。
「『俺』は見つけたんだよ、俺だけを見つめていてくれるたった一人の存在を」
そう言って僕の顔を覗き込んで微笑む、たかあきの瞳が、孝明と同じ色の綺麗なアメジストで、それが妙に懐かしくて、ぐにゃりと、僕の視界が歪んだ気がした。
「翔、好きだよ」
「たかあき……?」
「だから泣かないで」
多分、一番、愛情を、欲していたのは僕の方だ。孝明に愛されたくて、ずっとその孤独に寄り添ってきた。孝明はいつだって、一人で立っていられる人だった。それでいて、放っておいたら、一人でどっかに行ってしまいそうな人だったから、僕は彼の事を手放したくなくて、この同棲生活を持ちかけたのだ。僕の側にいて欲しかった。寂しかったのは、僕の方。
「翔には、ずっと笑っててほしい」
たかあきが、慰めるように僕の鼻先にキスを落とす。
そんなもの、小さな子どもがする、お伽話みたいな可愛らしいキスだったんだけど。小さな手のひらで僕のほっぺたを包み込んで、そうして、僕の大好きな優しい声で言うのだ。
「翔、俺のお嫁さんになって?」って。
僕は涙が滲んだ瞳を丸くして、そんな可愛い事を言い出す子どもの顔を見つめ返した。
「……それは、一番大好きな人に言う言葉じゃないのかい?」
「俺が一番好きなのは、翔だよ?だからお嫁さん、だめ?」
だめ?だなんて、そんな事。僕が言うはずがないじゃないか。小さな身体をぎゅうぎゅうに腕の中に閉じ込めてしまって、「苦しい」なんて言う君を、抱きしめて離したくなくなる。
「君が大人になるまで待ってる」
「えぇ?」
今五歳だったら、そうだな、あと十五年?愛しい存在を抱きしめて、もういっそ、君が元に戻らないのなら、僕が育ててあげてもいいかなとすら思っていた。

「僕も君が一番大好きだよ、孝明」

***

温かな腕に抱かれて、心地の良い気分で目を覚ました。
目覚まし時計でも、孝明の声でも無く、僕が自発的に目を覚ますのは本当に貴重で、孝明が知ったらびっくりしそうなものだけど、今日は本当に自然に、パッと目覚めたのだ。
カーテン越しの窓から差し込む朝日が眩しかった、でもそれも心地の良い眩しさで、今日はお天気が良さそうだ、なんて、僕は僕を抱きしめる、広い胸板に額を擦り付けていた。
……ん?と、そこで、それがすっかり馴染んだ感覚である事に気付く。
「も、戻ってる⁈」
瞼を擦って視線を落とすと、二日前と同じ、全裸で僕を抱きしめる『大人』の孝明の姿がそこにあって、僕は思わず両方の目を擦ってその姿を二度見した。
「孝明‼︎孝明‼︎起きて」
「う……んん……」
「たーかーあーきー」
「……ん、……しょ、お?」
むにゃむにゃと微睡む男の瞼の奥から、僕の一番大好きな色のアメジストの宝石が覗いて、眠たそうなその瞳の真ん中に僕を写し込むと、孝明は嬉しそうに、ゆったりと目を細める。
孝明はおもむろに僕の身体をぎゅうっと抱きしめると、胸元でふるふると頭を震わせて、そのまま、くぐもった声で、小さく何かを呟いていた。
「…………れた」
「え?」
「戻れた!翔!」
「えぇっ⁈」
ぎゅうぎゅうと、苦しいほどの力で抱きしめられる。懐かしい感触と、孝明の香りに包み込まれながら、僕は孝明の言葉に驚いて、目を丸くしていた。
「いやぁ、不思議なことにさぁ。俺は全部、覚えてるの」
じゃあ、何?君には僕が苦労したこの二日間の記憶が全部あるって言うの?
腕の中から孝明を見上げていると、孝明はすっかり目覚めたらしい、身体を起こして、そのお膝の上に僕を乗せてクスクス笑っている。これは、昨晩と逆転した構図になるが、孝明に「抱っこ」された僕は、大きな手のひらに両方のほっぺたを包み込まれて、鼻先に優しいキスをされる。王子様が掛けた魔法のキスだった。子どものたかあきから大人の孝明に戻る魔法だとでも言うのか、そんな、ロマンチックな話があるか。
けれども孝明は、恥じらう事も何もなく、真っ直ぐに僕だけを見つめてそっと囁く。
「指輪も何も無いけどさ、翔、俺のお嫁さんになってください」
それはきっと、僕が一番欲しかったものだ。
優しく細められたアメジストを見つめていたら急にこの二日間を思い出して涙が込み上げて来て、僕は彼の膝の上にポタポタと涙をこぼしてしまう。付き合ってずっと、この男の前では泣いたことは無かったと言うのに。それから、君には言いたいことが山ほどあったはずだったのに、それが全部吹っ飛んでいってしまうくらいには、その言葉は僕の心臓の一番深いところまでざっくり刺さって抜けそうに無い。
「……僕がお嫁さんなの?」
「……俺がお嫁さんでもいいけど……」
つるりと乾いた額に、涙の滲む目尻に、ほっぺたに、沢山のキスが降ってきて、最後に孝明は僕の唇にキスを落とす。「孝明に『愛情』が芽生えれば、きっとすぐに元に戻るよ」って言っていた、魔王様の言葉を思い出していた。これじゃあ『愛情』に気付いたのは僕の方だと思うんだけどなぁ。結局は、僕はずっと、孝明に大切にされていたのだ。それに改めて気付くことが出来て良かったのではないかと。結果オーライな部分が大きいけれどね。
「泣かないで」と、僕を抱きしめて、僕の背中を撫でる優しい手のひら。
でももう嬉しくて、涙が止まりそうになかった。
「孝明……、おかえり。おかえりなさい、孝明」
キスの合間にそう紡ぐ、僕の言葉に、孝明の優しい温もりが寄り添う。
カーテンが開け放たれた窓からは眩しいくらいの朝日が差し込んで、キラキラと輝いていた。

「翔、大好きだよ」って君が優しく囁くから、僕は頭を擦り付けて「僕も」って言うのだ。

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