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長い長い、夢を見ていた。

夢の中で僕は、辛いことも沢山あって、その分だけ……ううん、それ以上に、きっと、幸せだったんだろうなって思っている。僕の一番深いところにある記憶は、まだ四、五歳だった頃、母親に手を引かれて、おじいさまの家の大きな門をくぐった日の記憶だった。来月にはお誕生日を迎えるというのに金沢はまだ雪が残っていて、寒いなって思っていたし、母親の手のひらも冷え切っていた。小さな頃の僕は、自己表現が苦手な子どもだった。楽しいことも辛いことも、沢山沢山心の中に溜め込んでいたのに、それを発散する術を知らなかった。泣くことも笑うことも知らなかった、ぼくを、両親は育てにくいと思ったのだろう、まだ小学校に上がる前だった僕を、祖父母の元へと預けたのだった。僕の新しい生活を迎え入れてくれたのは厳格な祖父と優しい祖母、それから、ヴァイオリンとの運命的な出逢いを果たしたのも祖父母の家でのことだった。音楽と出逢った僕は、みるみるうちにその世界観にハマっていった、音楽は僕にとっての言葉と一緒で、楽しいことも辛いことも、悲しいことも嬉しいことも、全部吐き出させてくれる、全部、受け止めてくれる、そんな存在になった。ヴァイオリンと出逢ってからの僕は、四六時中その楽器と一緒にいた、最初は、気持ちを音に乗せて、それから、思い通りの音が出せるのが嬉しくて、沢山の曲を奏でてきた。がむしゃらになって奏でていたメロディだったのに、いつのまにか「神童」だと持て囃されるようになって。中学に上がる頃には世界中のコンクールを総なめにしていて、とある国内でのコンサートでスカウトを受けて、今の芸能プロダクションに所属するようになった。その頃ちょうど反抗期を迎えていた僕は、曲がりなりにも音楽家としてやっていく以上、ビジュアル面での仕事に関して抵抗があったんだけど、ツキプロはそんな僕のワガママも受け入れてくれて、尊重してくれて、音楽家としての活動に重点をおいてくれた。輝かしいばかりの栄光と名誉、それから、思い通りの音を奏でて、僕は、幸せの絶頂にいたはずだ。それなのに、僕はいつだって孤独だった。誰と一緒にいても、僕には幼い頃、母親に置いて行かれた思い出が胸の奥底にあって、結局は僕はずっとひとりぼっちなんだなと、思うようになっていた。過去に一度だけ、その頃親しい友人になっていた悠人に、一度だけ、気付かれた事がある。「翔の音は、孤独だから強いのかもしれないな」って。三つも年下の男に何がわかるんだ、と、思ったけれど、悠人は堂々ボッチを自称するくらいの孤高の存在で、彼もまた、若くして海外のショーに出演するなど、一人でステージ上で輝く強さを持っていた。悠人の言う通りだと思った。僕はいつだってひとりぼっちだったから、強くならなければいけなかった。
一番多感な時期をそうやってステージの上で過ごしてきた僕に、転機が訪れる。
暑い、夏の日の事だった。すっかり馴染みになったツキプロの事務所の会議室に呼び出された僕は、そこでアメジストの宝石と出逢う事になる。
『眞宮孝明』、その、名前だけは知っていた。彼は、有名人だったから。でも、なんでそんな有名なアイドルである眞宮孝明がここに?って、僕の疑問は尽きなかった。並んで座らされた会議室のふかふかの椅子、まっすぐ前を見つめる整った横顔が上品で美しいなって、チラリと盗み見すると、僕の視線に気付かれて、ニコリと微笑み返されてしまった。僕のほっぺたがぼぼぼっと赤く染まったのは言うまでも無く……、だって、好みのタイプど真ん中だったのだ、上品で美しくて、器用そうに見えて不器用で、それからとっても優しい。この笑顔を向けられて、好きにならない人間なんていないと思う。それくらい、魅力的な存在だった。
程なくして現れた社長によって、僕は人生を変えるような決断を迫られる事になる。
VAZZROCKプロジェクトの発足、それから、そのユニットのリーダーを君たちに。そんな、天から降ってきたような話に頭をこんがらせていると、隣にいた眞宮孝明も、社長の言葉に驚きを隠せない様子だった。僕は次の仕事があったからその日はその場で離席して、返事は後日、という話になったのだけれど、あの人は受けるんだろうか、このプロジェクトを。
正直言って、今の僕は、音楽家として順風満帆だった。十代の頃は張り詰めた糸のようだったけれど、昔よりもずっと、糸は柔らかくなっていて、今はもっと柔和に音楽と携わる事が出来ている。プロジェクトに参加しなくとも、タレント活動をしなくとも、音楽一本で食べていく事に不自由を感じていなかった。けれども、新しい世界に魅力を感じている自分も確かに存在していて、新しい事に挑戦してみたいと、心の中ではある程度の決意を固めていた。
……あの人はなんて返事をするのかな……
そして、会議室で出逢ったあのアメジストの輝きを思い出して、マネージャーさんの運転する車の柔らかなシートに身を埋めて、そっと目を閉じたのだった。

……う、翔、起きて」
「う……、ん……?」
うとうとと重い瞼が開きかけていた。元々、飛行機での長時間の移動には慣れている僕は、ファーストクラスの心地良い椅子と、適度な空調の中、意識がふっと引き戻されたのは前髪をかき分ける指先の感触で、ピクリと反応した僕の瞳を、孝明のアメジストが覗き込む。
「着陸だって、シートベルト締めて」
…………ん、ありがとうー……
時差ぼけ予防のために照明が落とされていた薄暗い機内は、いつの間にか明るくなっていて、僕ら以外の周りの乗客たちもリクライニングを戻してシートベルトに手を掛けているところだった。触れられた前髪がくすぐったくて笑った僕に、孝明の穏やかな笑みが重なる。通路を挟んで隣のシートに座った孝明はあくびをしていて、どうやら上手く寝付けなかった様子だった。海外旅行なんて、そう言えば生まれて初めてかもしれないと、旅行の計画を立てている時に君がそう、まじまじと言っていたのを思い出す。海外ロケは経験があるからまるっきし海外が初めてでは無いけれど、純粋な旅行は初めての体験だと。言われてみれば僕だって、海外生活が長かったし、仕事で頻繁に海外を訪れていたけれども、こうやって計画立てて旅行に行くのは初めてだったかもしれない。前にロクダンのみんなと話をしていて、みんなで観光地に遊びに行きたい!と言っていたのはルカだっただろうか、結局はみんな忙しくて願いは叶わないまま大人になってしまったけれど、今こうして長期の休みを与えられた僕と孝明は、改めて「観光らしい観光をしに行こう」と、二週間の長期休暇の計画を練ったのだった。

「おやすみ?それも二週間?」
「えっ、社長、暗にクビって言ってます?」
「アッハッハ!タカくん、酷くない?」
そう、社長から二週間の休暇を与えられたのは、まだ夏の暑い日の事だった。六月に仲間内を集めた内輪だけの結婚式を挙げて、晴れて孝明のパートナーとなった僕は、より一層仕事に励んでいた。今までとは何も変わらない、忙しい日々の中で、社長に呼び出されたと思ったら孝明も一緒だったみたいで。なんなのだろう?と首を傾げていた僕らは社長に、「ジャジャジャジャーン」の効果音付きで、「二週間の有給休暇」を言い渡されたのだった。
「まぁまぁ、勤続十年?それくらいまじめにうちの事務所に尽くしてきてくれたご褒美だよ」
「結構アバウトですね」
「ご褒美!」
「まぁまぁ、慶弔休暇だと思って、新婚旅行にでも使ってよ」
……新婚」
……旅行……
社長の言ってる意味が上手く飲み込めずに、最初は顔を見合わせている僕たちだった。
新婚旅行なんて考えてもいなかったのだ。仕事が忙しくて……と言ってしまえば言い訳に聞こえてしまうけれど、本当に、揃っての休暇なんて、あっても昼間まで眠っているし、起きたら孝明の作ってくれたご飯を食べるのが楽しみとか、それくらいで。連休が重なることも滅多に無いから、旅行なんてこれまで考えたことも無かった。
「旅行!」
だから嬉しくて両手をパチンと合わせた僕に、社長は優しく微笑みかける。
「僕から君たちへのプレゼントだよ」
そう、格好良く社長は言ってくれたけど、先日の結婚式だって、この人が沢山援助してくれたのだとルカから聞いて知っていた。本当に素敵な人だなぁって思いながら、「ありがとうございます」と言って頭を下げた孝明に続いて、僕も頭を下げたのだった。
その日の晩、早速揃って旅行の計画を立てる事にした。先の話とはいえ数ヶ月後だ、こうやってタイミングが合う事も少ないと思って、善は急げだよって言った僕に、孝明も応じた。
「二週間でヨーロッパを回るってなると、結構な弾丸だよ」
「だよなぁ……、でもドイツでビール、イタリアでジェラート、ベルギーでワッフル食べたいって翔が」
「僕は別に、君と一緒だったら地球上どこへ行っても楽園さ。それに、弾丸ツアーには慣れてるからね」
「そりゃー、翔はね」
そんな風に、孝明は苦笑して言ったけれど、結局は僕の希望通りに二週間のヨーロッパ弾丸ツアー……もとい、新婚旅行、という事で計画は進められた。行程的にロンドンは諦めたんだけど、それでも孝明が僕のワガママな希望をまるっと詰め込んでくれて、ビールもジェラートもワッフルも全部叶えてくれそうだった。僕の希望ばかり聞いていた孝明だったけれど、ひとつだけ、最終目的地であるイタリアでの滞在を一日だけ伸ばしてくれないかって、そんな事を言っていた。もちろん僕に異論は無かったし、イタリアは魅力的な国だったから、どこか行きたいところでもあるのだろうと、その時はなんとなくそう思っていた。

一目惚れだった。あの時出逢ったアメジストの輝きに、必死にしがみついて離さなかったのは僕の方だ。紆余曲折の末にVAZZROCKプロジェクトの話を受け入れた孝明だったけれど、思えばあの日から、僕と孝明との攻防は始まっていたんだと思う。良く整った容姿はもちろんのこと、優しくて気配り上手、その上人に好かれる魅力もあって、孝明はとにかくモテた。そのくせ、本人は博愛主義のように見えてその実誰の事も本気で愛してはくれないのだから、ほんとーに厄介な存在だった。君の「特別」になりたくて必死だった。
「翔、俺はね、いつだって誰かの特別になりたかったんだ」
いつだったか、確か、寝屋での睦言の一つだったと思うんだけど。おもむろに、そう、孝明がそっと、僕にだけ教えてくれた、その言葉が印象的だった。指先を絡めてそっとキスをして、眠たそうに微睡んでいる僕にだけ聞こえるような、本当に小さな音で。
……君は僕の特別だよ?孝明」
「そう、……だから、俺は翔が好き」
抱きしめられてキスをされて。抱きしめられているのに、僕の方が孝明の事を抱いているみたいだった。誰かの特別になりたいくせに、誰の事も特別扱いしてくれないのだから、この男は本当にずるい。そんな男に惚れてしまったのだから、もう、僕に残された道は意外と少ない。
さみしんぼの孝明は、VAZZROCKプロジェクトの解散と同時に、一年間の休暇をとって、一人暮らしを始めるのだと風の噂で聞いた。今更君が、一人で生活なんて出来るのか、という僕の傲慢な考えは横へ置いておいて、僕は多分過去経験が無いくらいに頭を働かせた、どうすれば君が、僕の手のうちから離れないように出来るか、ってね。僕が考えたのは同棲……もとい、奇妙な同居生活だった。「僕も寮を出ようかな」リーダー会議の終わった席上で、そんな事を口にした僕を見下ろして、孝明は目を丸くしていたのだ。「……翔に一人暮らしなんて出来るの?」……なんともまぁ、失礼な話ではあるけれど、孝明の言っている事は大体正しい。朝は起きれないし料理は出来ないし、家事も、生活力がまるで皆無な僕が一人で暮らしていけるのかって、そう言いたいんだろう。だけどもそれも、僕の作戦のうちだった。
「だから僕と一緒に住もうよ、広めのマンションを借りて」
「いいねぇ、楽しそう。翔と一緒なら退屈しなさそうだ」
だからそんな、あっさりと同居生活を受け入れた孝明に、今度はこちらが目を丸くする番だった。孝明は一年間の休業期間の間、まるで僕のお嫁さんみたいに、朝は美味しい朝食を作って仕事に送り出してくれたし、気まぐれでお弁当を持たせてくれたし、夜は仕事から帰って来た僕を、温かな料理と共に迎え入れてくれた。最初は一年限りの契約だったけれど、同居生活は同棲生活に名前を変えて、孝明が芸能界に復帰した今も続いている。

最初の目的地にフランスを選んだ僕らはノートルダム大聖堂やエッフェル塔、美術館なんかの観光地を一通り回って、その日はパリの高級ホテルに泊まった。翌朝早起きした孝明に付き合って散歩に出掛けた僕らは、誰もいないセーヌ川沿いを二人きりで歩いている。
「翔、寒いからこれ巻いときな?風邪ひくよ」
「ふふ、愛の逃避行みたいだね」
……二週間きりの?」
パリは歩いて回れるくらいに観光地がギュギュっと凝縮された地で、数日、パリでの生活を満喫したら隣のベルギーへと飛行機で移動する予定を立てていた。早朝で誰も人通りが無いのをいい事に、僕が孝明の手に指先を絡めると、孝明もそれを見つけて繋ぎ返してくれる。
「ほら、やっぱり冷たい」
旅行の間、二人の左手の薬指にはお揃いのリングがはまっていた。普段はネックレスにして首から掛けられているこの、結婚指輪は、連れ立って原宿のセレクトショップに作りに行ったもので、アメジストとダイヤモンドが埋め込まれた一点ものだった。僕の、三つある宝物のうちの一つ。一つ目はダイヤモンドの婚約指輪、もう一つがこれで、最後は最高級のアメジストの宝石。一緒に暮らし始めて一年目の春に、お誕生日プレゼントとして差し出された婚約指輪とプロポーズの言葉に、僕は八年分の思いを込めて号泣したのは言うまでもない。
やっと手に入れたと思った。ずっと、焦がれて止まなかったアメジストの宝石を。
「ジャケットを着てきて良かった。孝明も、風邪ひかないでね?」
僕は、孝明の笑顔を見上げてにっこり微笑みかける。孝明はそんな僕を見下ろしてニコニコと、ご機嫌そうに笑っていた。

***

長い長い、夢を見ていた。

煌めくステージは俺にとって、ずっと当たり前にそばにあった存在で、その中心で俺はスポットライトを浴びて立っている。隣を見渡せば仲間たちがいて、その顔ぶれが変わってもなお、俺はステージの上に立ち続けた。思えば、必死で駆け抜けて来た十年間だった。まだ十代の多感な時期からアイドルとして芸能界の第一線を走っていた、その場所を、「活動休止」という形で離れた後、しばらく一人でやっていたんだけど、一人でやっていけると思っていたのに、周りから見たら相当落ちていたらしい。燻っていた俺を捕まえて、社長は新しい居場所をくれた。それが、俺にとっての新しい家族、「VAZZROCK」という存在だった。一人で大丈夫だと思っていたのだ、俺は生来、器用な性分だと自称していたし、実際、与えられた仕事はいつだって卒なくこなしていた。新しいユニットなんて、昔の仲間たちに申し訳無いという思いだってあった。だから、一人でもやっていけると思っていた、俺が。結局のところ、紆余曲折あってVAZZROCKに加入する事を決めたのだ。VAZZROCKで過ごした五年は、俺にとっては短くも太い日々で、そこで得た新しい仲間たちとの日々はかけがえのないものになった。VAZZROCKでの活動を通じて、メンタル的にも落ち着いた俺はもう、昔の仲間とは、声を掛け合って飲みに行くような仲になっていたから、もう、大丈夫だと思ったのだ。
VAZZROCKプロジェクトは元々、五年という期間を設けられた短いプロジェクトだった、俺は、事前にそれを聞かされていたんだけど、実際五年という短い歳月を駆け抜けて来て、この場所を離れるかどうかの決断を迫られるタイミングになって俺は、頭の中が真っ白になった。そうして、一度、芸能活動を休止、という、一年間の休養を与えてもらったけれど、その何もない生活の中で、「何者でも無いまっさらな眞宮孝明」になって改めて、大切だった存在を知った。
翔だった。
翔とは、VAZZROCKプロジェクトが始まるワンシーズン前の夏に出逢った。二人きり、呼び出された事務所に会議室で、唯一無二の輝きを見つけた。
その日は特に暑い日だったと思う、真夏日で、外なんて駅からの道を少し歩いただけで暑くて、涼しい事務所の会議室のクーラーが快適だと思っていた。汗ばんだシャツをパタパタと仰いでいた俺は、チラリとこちらを伺っている様子の視線を感じて振り返ったのだった。
第一印象は、男にしては中性的な、儚げなお人形さんみたいな容姿をしている、と思った。最初に抱いた印象から、内面は、この後何度もいい意味で覆されていく事になるんだけど。外見の印象はきっと一生変わる事は無いだろう。翔はお人形さんだった。色白で、目が大きくてまつ毛が長い。宝石みたいな瞳をしていて、じっと覗き込んだだけで芯の強さを感じさせる。
思わずニコリとアイドルスマイルで微笑み返した俺に、ぽっと頬を赤く染める様子がまた、可愛らしかった。それから、同じようにニコリと微笑んでくれる笑顔も可愛くて。
翔の第一印象はそんな感じ。結局そのあと社長からVAZZROCKプロジェクトの概要を聞かされて、初めての出逢いなんて吹っ飛んでしまうくらいの衝撃だったんだけど、第一印象は悪く無かったと思う。俺は、悩んだ末にこの話を受け入れて、それから翔と再会したのは、寮のコミュニケーションルームだった。
それから翔は、俺の生活にガツガツと介入してくる事になる。こんな儚げな容姿をしているのに、生活力は皆無で危なっかしくて、朝に弱く寝汚い、部屋だって、一週間放置していると荒れ放題になるくらい物に溢れていて、たまに相方の悠人に怒られるのだと言う。そんな、私生活のギャップと、それからもう一つが性格のギャップだ。突いたら花のように折れてしまいそうなのに、幼い頃から世界で活躍しているせいもあるのだろう、その気性はどこまでも頑固で骨太で大変男らしい、多少のトラブルには動じなくておっとりしている、本人は酔っぱらいやすいと言うけれどワイン二、三本を一人で開ける男は酒に弱いとは思えない。あとは本人曰く胃腸が強く「どの国のどんな食べ物も美味しくいただけるけど、孝明の作ってくれる日本食が一番好き」、らしい。戯れに俺に向かって差し伸べられた手を引いてみたら、その深みにハマってしまったのは俺の方だった。最初は、酔った勢いで寝てしまったのだ、翔の希望もあって俺が上で。それからも、メンバーには明かせない関係は続いていた。その辺は、勘のいいメンバーにはすぐにバレていたみたいだけれど。仕事上でも、翔は俺のかけがえのないパートナーであり続けた。リーダーズとしての仕事は思ったよりも多く、VAZZROCKでの何年目かの年末から、翔は気づいたら俺のことを「タカちゃん」って呼ぶようになっていた。翔曰く他のリーダー達とは違った関係性の構築だとかなんとか言っていたけど、俺の手を引いて「一番の理由は特別扱いだよ」と微笑む翔に、俺は心を鷲掴みにされた心地になった。
「特別」、俺はいつだって、たった一人の誰かの特別な存在になりたかったんだ。

「孝明、ねぇ、孝明見て」
上唇に真っ白なお髭みたいな泡を付けて、翔が笑っていた。社長が与えてくれた二週間の休暇も、折り返し地点まで来ていた。今日はドイツの首都、ベルリンの観光地を回って、翔おすすめのバーでドイツビールとソーセージを楽しむ行程だった。
「ふは、可愛い」
日本にいる時は日本酒を飲む事が多いけれど、ドイツのビールも飲みやすくて美味い。翔と一緒なら尚更だった。相変わらず飲みっぷりが良くて、見ていて気持ちが良い。何年か前に翔と一緒に撮った、ビールのコマーシャルを思い出していた。
「そういえば、こんな仕事もあったね」
それは、翔も同じだったみたいで。半分以上中身の無くなったジョッキを置いて、繊細な指先が結露した水滴をなぞる様子が綺麗だなって見惚れていた。
「孝明と飲むお酒は美味しいな」
「ふふ、おれも」
……ふふふ、幸せだなぁ」
最近の翔は「幸せ」って言葉をよく口にする様になった。こうやって一緒にお酒を飲んでいたり、俺のご飯を食べている時だったり、休日の朝のベッドの中で寝ぼけた様子でだったり、その状況は様々だったんだけれど、翔が幸せな時は俺だって幸せなので、いつだってぎゅっと抱きしめたい気分になる。今日みたいに、流石に人前では我慢するんだけどね。
幸せの形を教えてくれたのも翔の存在だった。
いつだって誰かの特別になりたかった本当の俺を見つけてくれたのは、翔だった。

物心ついた時から三人兄弟の長男として育てられた俺は、いわゆる「手のかからないいい子」だったと思う。歳の近い妹と弟がいたから、お兄ちゃんだからちゃんとしなきゃいけないってずっと思ってて、転んでも泣かなかったし、勉強もスポーツも、「格好良いお兄ちゃん」であり続けるためにずっと一番でやって来た。元々器用な性格だったから、それほど苦労した思い出は無かったんだけど、器用であるが故に、損な思いをした事も数えきれない。所謂器用貧乏ってやつ。中学校に上がって、芸能事務所に入る事を薦めてくれたのはクラスの女の子達で、その頃から異性にも良くモテた。芸能界に入る前はカノジョみたいな存在も何人かいたけれど、そのいずれも、「孝明くんって格好良いけどそれだけだよね」と言って向こうから別れを切り出される事が大半だった。芸能界に入ってからはもちろん異性との交際は禁止、遊びで男の人と付き合った事もあったけれど、なんかしっくりこなくて別れてしまった事が何回か。だから本当に、翔が、生まれて初めてまともにお付き合いをした存在なのだった。
「特別扱い」されるのが嬉しくて、翔に触れると温かい、優しい気分になって、ずっと一緒にいたいと思う。翔が幸せなら俺も嬉しくて、その笑顔を守ってあげたいって思うのだ。
そんな事を、酒の席で昔の仲間に打ち明けたら、零と呂庵にすごい顔をされた。
…………熱でもある?」
「こら、ろーあー」
翔へのプロポーズを相談したのもこの二人だった。VAZZROCKは俺の家族だったけれど、流石に翔との事を相談するには生々しいかなと配慮した結果、友達の少ない俺が身近で頼れるのがこの二人だったってわけだ。
「一般的に、婚約指輪をあげてプロポーズをして、結婚指輪は一緒に買いに行くカップルが多いと言われているけどな」
「へーえ、れえさん博識〜。もう指輪は決めてあるの?」
「うん、このね、ダイヤが一周になってるリングが綺麗かなって」
「タカちゃん、俺は値段に慄いてます」
婚約指輪もオーダーメイドにするつもりで、いくつかのジュエリーショップを周っている途中だった。そのうちの一つに見積もりを出していて、サンプル画像と共にそれを零と呂庵に見せると、それまで明るく笑っていた呂庵が急にサッと顔を青ざめさせる。
「えっ?給料三ヶ月分ってこれくらいじゃないの?」
「いや、婚約指輪は身につけないで保管しておく認識だったら孝明の価値観は正しい……
「だよねぇ?結婚指輪はもっと普段使いしやすいデザインにしようと思ってて」
「そーなんだ、じゃあもうこれで良いじゃん」
呂庵の興味はもう、他に移ってしまっている様だった。お皿の上の枝豆を空っぽにして傍に下げた呂庵をジョッキ越しに伺って俺は、机に突っ伏して深ーいため息を吐き出す。
「えっ、ヤダ。急に辛気臭いけどどうしたの?って聞かなきゃダメ?」
「ロア、」
呂庵の軽快な声と、零の優しく嗜めるような声を頭上に聞いて、机に突っ伏した状態の俺は、それまで誰にも打ち明けて来なかった不安を吐き出した。
…………断られたら、どうしよう……
先にも言ったが、翔は俺にとっては初めての、まともに付き合った相手なのだ。それまでのどの恋人も長続きした事は無くて、その何れも俺が原因で向こうから振られていた。VAZZROCKで一緒にやって来た五年間、それから、一緒に暮らして来たこの一年の間を省みて、断る要素はどこにも無いと思っているけど……、いや、俺がそう思いたいだけであって、俺たちには「男同士」だとか「芸能人同士」だとか、そういう現実的な問題が積み重なっているのも事実だった。翔が断る要素は、充分にある。けど。
零と呂庵は顔を見合わせて、それぞれ目を丸くしていた。
「タカちゃん」「孝明」
「それは絶対にないから安心していい」

…………孝明、起きて」
長い夢を見ていた心地だった。実際は二時間程度のフライトだろうか。翔に起こされるのは珍しかったけれど、彼はこの短いフライトで微睡む事は無く、手にしていたガイドマップを眺めていたようだった。それほどまでに爆睡していたのだろうか、あくびをして身体を伸ばしながら、随分と長い夢を見ていたと思う。旅の終着地はイタリアのローマが良いと言い出したのは俺だった。翔は、僕はどこでも良いよって、笑って承諾してくれた。ヨーロッパ周遊旅行を切り出された時に、どうしても、二人で行ってみたいところがあったのだ。
俺の希望は、旅の最終日に取ってある、初日はローマ市内のホテルにチェックインをして、明日からの観光に備える予定だった。

結局のところ、プロポーズは大成功に終わった。婚約指輪を差し出して「家族になろう」って伝えた俺に、翔はこれまで見たことがないくらい号泣して頷いてくれた。「僕は君の家族になれる?」って、そう問いかけた翔には、今度は俺が頷いて、細い肩をぎゅっと抱きしめた。
一人と一人とが寄り添って、家族になった俺たちを、昔からの大切な仲間たちは揃って祝福してくれた。凰香とルカと、それからVAZZROCKのみんなが主体となって作り上げてくれた手作りの結婚式は宝物で、今でも二人の家の寝室には、結婚式で撮ったツーショットと、みんなの集合写真を飾っているくらいだった。その、挙式も、本当に素晴らしいものだったんだけれど、俺にはすこーしだけ、ほんの少し、女々しい野望があって。イタリア・ローマに滞在して三日目の朝、俺は未だに眠たそうな翔の手を引いてタクシーを拾って、ローマ中心からは少しだけ離れた、その、小さな施設を訪れようとしていた。
「なんだい?今日の今日まで僕には秘密にしていたんでしょう?」
「着いたらすぐにバレちゃうの。もうちょっとだけ、楽しみにしてて」
タクシーの中であくびをかみ殺しながら、翔はゆったりと車窓に目を傾けていた。
…………これは……孝明、」
「はは……、は、だめ?」
揃って訪れたのは広いガーデンの中にある赤いレンガが可愛らしい小さなチャペルで、赤絨毯がひかれたバージンロードのずっと先には一着のウェディングドレスを着たトルソーがそっと置かれていた。これは、日本で見つけて翔に内緒で購入したもので、エンパイアラインというらしく、所謂ドレスらしいドレスではなく、ロングスカートのワンピースみたいで、あんまり抵抗が無く着れるかなって思ったんだけど。
…………だめじゃない」
「しょ、翔?」
「だめじゃない、孝明、大好き!」
隣にいた翔は、しばらくプルプルと震えていたかと思うと、涙の滲んだ瞳で俺を見上げて、そう、叫んで、びっくりしている俺をぎゅっと抱きしめてしまう。そうして、翔は俺の胸の中でわんわん泣いていて、あぁ、また泣かせてしまったって思うんだけど、嬉し泣きはノーカウントだろう、瞼の腫れは化粧で直せばいいかなんて思いながら、頭をぽんぽんと撫で付けた。
前に仕事でローマを訪れた時、このチャペルの存在を知ったのだ。映画のワンシーンで使われた事もあるらしく、日本人にも人気で、こんな雰囲気の中でウェディングドレスを着た翔が立ってたら素敵だろうなって思った、俺の、女々しい願望。だからヨーロッパ行きが決まった時にふとここの存在を思い出して、すぐに挙式の予約を取ったのだ。翔が着てくれるかわからないけれど、ウェディングドレスも、ティアラもオーダーして。結果として喜んでくれたけれど、フルオーダーのドレスを着てくれるのはこれが初めてだったから、どんな風に仕上がるのか俺も分からなくて。グレーのタキシードに身を包んだ俺は、控室で、支度をする翔を待つ。
……孝明、」
「翔」
女装なんてさせるつもりは最初から無かった。翔はありのままが美しくて、だから、化粧も翔の元々持っているものを活かしてくださいねって、現地在住の知り合いのヘアメイクさんに依頼する時にお願いした事だった。さっきまで泣いていたから、目元の腫れは綺麗に修正されていて、薄化粧を施され、ウェディングドレスを身につけた姿は、天使……いや、神さまみたいに綺麗だったのだ。すっかり言葉を失ってしまった俺を見上げて、翔は不安そうにしている。
……孝明、似合わないかな?」
……い、や、ううん……すごい、綺麗すぎてどうしよう……
「本当に?」
ぱあっと顔色に朱が差した、可愛い、そんな事を考えながら指先で頬を撫でた。
「じゃあ、二度目だし、二人きりの式だけど、また愛を誓ってくれる?」
仕上げに、こちらもフルオーダーの日本から持ってきたダイヤモンドたっぷりのティアラを頭に乗せて、花嫁さんが完成する。そっと手を差し出した俺の手のひらに、翔の手が重なると、翔も満足そうに美しく微笑んでいる。
「もちろんだよ、病める時も健やかなる時もってね」
そう、言って、翔の長い睫毛に縁取られた瞼が閉じられ、薄くリップを引かれた唇がツンと上を向く。そうして俺は可愛いパートナーに誓いのキスを落とすのだった。

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