薔薇の君【※学パロ】

薔薇の妖精が眠っているのだと、最初は本当にそう思ったのだ。
だってその人はあまりにも美しくって浮世離れした雰囲気を秘めていたから。

暖かな温室で、隅の方からホースを出してきてしゃわしゃわと水を撒く。朝と夕方の水やりは日課で、その甲斐もあって今年も綺麗な薔薇が咲いたのだ。赤と黄色と白、それからピンク色に、ピンクと白のツートーンカラー、珍しいところだと緑の薔薇もあるのだ。どれもこれも綺麗に咲いて、俺を迎えてくれる。ここの薔薇は俺の恋人みたいな存在だった。
薔薇園には誰が持ち込んだのかテーブルと椅子が置かれていて、俺はたまにそこで読書をしたりするんだけど、妖精はそこでうたた寝をしていた。テーブルの上に腕を置いて突っ伏して、腕の間から覗く鮮やかな赤毛が呼吸に合わせてすよすよと動いている。真っ赤な薔薇のふもとで眠る紅薔薇の妖精を起こさないようにそっと水をやって、それから、ホースをしまって剪定でもしようかなと思っていた。
と、ハサミを取ろうと手を伸ばした瞬間であった。
「やば!!」
「えっ」
妖精が目を覚ましたのである。がばり、と身を起こすと、それはそれは鮮やかな、長い赤毛が風に揺らめいて、思わず見惚れてしまいそうになる。甘やかなストロベリーレッドの瞳には光が煌めいて、その真ん中に俺を写して、驚きに目をまぁるくしていた。
「可愛い」の言葉はそっと飲み込んだ。だって、現れたその顔はお人形みたいに可愛くて、でもここは男子校で、その子だって男子の制服を身につけていたから。
妖精さんの白磁のような真っ白なほっぺたは温室の気温で上気していて、前髪がまばらに散ったおでこはテーブルのせいで赤く跡がついてしまっていた。
自分一人だと思っていた場所に人がいた事が気まずかったのだろう、バツが悪そうに愛想笑いを浮かべると、その細やかな両手で俺の右手を掴んで、ギュッと握りしめられる。
手を握られた俺は、頬を赤らめるしか出来ない。
「この事は、内密に!!」
「えぇ……?」
「ヤバい、遅れる!」
カバンを手に駆けていく後ろ姿を、目で追いかけることしか出来なかった。それくらい本当に慌ただしくって。足、速、って思ったりして。多分、向こうは俺が誰なのかは知らないだろうけれど、俺はその整った顔立ちには些か見覚えがあった。けれど。

本当に妖精を見つけてしまった、と、そう思ってしまうほど、これは俺にとって運命的な出会いだった。

 

[chapter:薔薇の君]

 

この学校には生徒会の組織として『花園会』というものが存在していた。所属する生徒は『薔薇様』と呼ばれ、学内の生徒たちの羨望を集め、憧れの存在となっている。

……というのが表向きの話である。花園会は生徒会の下部組織みたいなモンで、薔薇様と呼ばれて生徒の羨望を集めている俺たちは生徒会長である御影玲王様直属の、「学園の擬似アイドル」「男子校のお姫様」であった。
「お嬢、遅刻だよ。どこで油を売っていたんだ?」
「…………すんません」
放課後にたまたま訪れた温室で、うたた寝をしてしまったのは失態だった。だって、今週はずっとテストで、その期間を終えて気が抜けてしまったのかもしれない、無意識のうちに疲れが溜まっていたのかもしれなくて、温室が暖かくて、薔薇の花の香りが心地よくて、うとうとしてしまったのだ。でも、それは言い訳でしかなくて、遅刻をした事でこの人たちに心配をかけてしまったのだとしたら申し訳ないなと思っていた。
「まぁ良い、座って。今前期予算と県大会に向けての運動部の応援について話してて」
会長の声を聞きながら、俺は向かい側の長テーブルの、空いている席に座った。
そうすると今度は、両隣からヒソヒソと、友人らの追求が入る。
「(ちぎりんが遅刻なんて珍しいって話してて、どしたの?調子悪い?)」
「(千切くんほっぺた赤いで?熱あるんちゃうん?)」
「(えぇ?!)」
そこで初めて、俺は自分の両頬を押さえて目を丸くした。
熱は無い、はず……。大丈夫だ。調子も悪くは無い。だから「なんとも無いよ」とだけ声をひそめて言って、それからは会長の話に耳を傾ける事にした。

俺だけの秘密の場所を見つけたと思ったんだけどなぁ。
放課後に訪れた場所は、校舎の裏にある秘密の花園だった。薔薇の季節にはまだ早いのに、暖かな室温のせいか色んな種類の薔薇が咲き誇っていて、ちょっとひと休みしようと思ったのだ。あんな秘密の場所にいたのだから、あの薔薇園を世話している生徒だろうか。俺の覚醒に、きょとんと驚いた様子だったあの生徒を思い出して、今度は顔が真っ赤になりそうだった。うたた寝をしてしまったのは失態だ。寝ているところを見られるだなんて。薔薇様としてあってはならない事だと玲王に怒られそうだ。

薔薇様というのは「擬似アイドル」「お姫様」の事である。
ここにいる蜂楽が「黄薔薇様」、氷織が「白薔薇様」、そして俺が「紅薔薇様」と呼ばれていて、学校行事その他諸々で女装をして男子生徒達の応援をする……という偏差値高めの男子校に伝わるトチ狂った伝統であった。もちろんタダ働きなどではなくて学食が実質無料であったり、公式ブロマイドの売り上げはお小遣いとして貰えたりする美味しい「お仕事」なので俺も割り切ってやっているが、こうして活動内容も中々多くて忙しい、というのが本音であった。あとやっぱり、自分自身が校内の男子生徒の癒し的な存在だとわかっちゃいるんだけど、俺にだってそんな存在が欲しいよって、思ってはいる。
「じゃあ、この後は薔薇様達はフィッティングに移って」
会長の玲王がそう言って書類をまとめていると、両隣の蜂楽と氷織が「はーい」と席を立ったから俺も後に続いた。次の目的地は同じ3階にある家庭科室である。
「はっ、ちぎりん、カバンに土付いてるよ」
「えっ?!」
「ほんまに何してたん……、あー、葉っぱも……」
ぽんぽんとカバンの土を払われて、俺はあははと笑うしかない。
まぁ、「薔薇様」を通して知り合ったこの二人のことも大切だと思っていたし、俺にとって癒し的な存在である事は間違いなかった。学園のお姫様である以上、こうやって素の自分をさらけ出せる存在は貴重であった。

癒しが欲しかったのだ、俺は。
ただその一点を満たすために、俺の「秘密の花園通い」が始まった。

潔世一は、同じ2年生で園芸部に所属しているのだと教えてくれた。
あの温室にいた生徒である。
あの日以来温室に通っている俺は、温室の主である潔とも自然と仲良くなった。
「この薔薇はお前が育てたのか?!」って驚いた目を丸くして驚いたら潔は顔を真っ赤にして俯いてしまった。潔のこの反応は新鮮である。多分向こうは、俺が「薔薇様」だって気付いているんだろうけれど、そんな扱いなんて一切せずに、ただの「千切豹馬」として接してくれるのが嬉しかった。そんな潔は、俺の癒しだった。
だから俺は今日も、生徒会での活動の合間を縫って、この温室に通ってしまう。
「千切!!」
潔は、ちょうど薔薇への水やりを終えた所だった。軍手を外して、俺を温室のテーブルに座ってと促してくれる。時間がある時はたまにこうして、俺が貰い物の和菓子を持ってくる事があって、そうしたら潔がお茶を淹れてくれる。俺は和菓子が大好きで、潔も和菓子が好きで、二人揃って緑茶も大好きで。薔薇園に和菓子と緑茶は中々面白い組み合わせだったけれど、それが揃ったテーブルの上は、それだけで胸が高鳴って、向かいで穏やかに笑う潔といるこの空間が本当に居心地が良い。
「あーー、ほんとーに……癒される〜〜〜」
だからテーブルの上に頬を擦り付けて、ぐだぐだしてしまう。そんな気の抜いた瞬間も貴重だった。潔は俺を見て笑って、そうして自分もずずっとお茶を啜っていた。
「あー……、もう行かなきゃなー……、」
「千切……」
本日のタイムリミットである。
今日は運動部への応援は無くて、生徒会の打ち合わせだけだったけれど、そろそろ行かなければならなかった。俺は、残ったお饅頭をひとくちで食べてしまうと、すっかり冷めてしまったお茶を飲んで席を立つ。
「洗い物、いつも任せちゃってごめんな」
「千切!待って!」
「え?」
と、その日は、席を立った俺は潔に呼び止められた。
なんだろうと首を傾げていると、潔は自分の背後にある紅薔薇の木から咲き誇る一輪の薔薇を側に置いてあった剪定用のハサミで丁寧に切ると、棘を落として俺の髪の毛の左サイドの編み込みの部分にスッと挿してくれる。そうして同じ高さにある瞳を細めて、満足そうに笑うのだ。
「うん、可愛い」
ぼぼぼっと頬っぺたが真っ赤に染まっていくのが分かった。
なんて言った、潔は。「可愛い」なんて、そんな言葉は「薔薇様」で沢山言われ慣れているはずなのに。どうして、この男に言われるとこんなに真っ赤になるのだ。
「あ……、ありがと、」
俺は、真っ赤になった顔を押さえて、カバンを手に温室を後にした。

薔薇の花は、早々にめざとい蜂楽と氷織に見つかった。
まあそれもそうだろう。今日は遅刻はしなかったけれど、既に二人は席に着いていて、おそらく俺が生徒会室に入ってきた瞬間に、髪に添えられた薔薇の花を目に留めて、そっからずっとニヤニヤしていたから。
「今日も『薔薇の君』のところ?」
「〜〜〜!!そうだよ!!」
「千切くんが楽しそうでなによりや」
二人はニヤニヤしていながらもそれ以上追求してくる事はなくて、会長がやってくる前に、と、俺は髪に挿さった一輪の薔薇をそっと取り外して、生徒会室にあった花瓶に生けた。お水をあげると、元気を無くしていた紅薔薇はシャンとして、窓辺で咲き誇っていた。
「始めるぞー、薔薇様たちも席着いて」
「はーい」
会長の玲王と、玲王に引き摺られるようにして副会長の凪も玲王の背中にくっついて一緒に生徒会室に入ってくる。
今日は、全国大会へと駒を進めた運動部への応援の割り振りなどを話し合った。その中に「陸上部」の名前見つけて、俺は俺の心が思った以上にズンと沈み込むのを感じた。

***

「千切豹馬」の名前は、おそらく薔薇様として活動するずっと前から、俺は知っていた。
最初は、そう、放課後の校舎脇の花壇からの光景だったと思う。園芸部に入ろうと思ったのは偶然が重なった結果だった。中高エスカレーター式のこの学校は、高等部から入った俺みたいなやつは外部生と呼ばれていて、進学校でありながら部活動も活発だったため、外部生は運動部に入ってもついていけないだろうと言われていた。
上下関係も面倒くさそうだなと思って、文化部を探していたらこの園芸部が目に入った。最初から目的はこの学校の隅にある薔薇の温室だった。入学当初からこの誰からも忘れ去られていた温室を見つけた俺は、当時廃部寸前だった園芸部に入って、顧問のおじいちゃん先生(ずっとこの温室を見守り続けてきた人らしい)から、温室の世話を請け負った。
薔薇の世話は難しいとは言われていたけれど、おじいちゃん先生のアドバイスもあって、こうして毎年、一年中薔薇の咲き誇る薔薇園が生き返ったのである。
話を戻そう、俺が「千切豹馬」を初めて見たのは、校舎脇の花壇を世話している時だった。花壇の世話も園芸部員の仕事だったけれど、こっちは薔薇よりはずっと育てやすくて、見た目も綺麗な季節の花を植えていた。確か、それはチューリップが咲く季節だったと思う。近隣でも有名な私立の進学校である我が校であったが、当然のようにグラウンドもかなりの広さだった。そこで俺は、一瞬の風を見つけたのだ。
随分と美しく走る人がいるなぁと思った。
俺は陸上には疎かったけれど、本当に、その走る姿が綺麗で印象的だったのだ。
その人が同じ一年生である事は後々になって知った。スポーツ推薦で、俺と同じく高等部から入学の外部生である事も。俺が自転車を押して帰る時間帯になってもまだ残って練習をしていて、頑張り屋さんだなって思って、それからその子を目で追いかける日が増えた。
陸上部は個人技だから他で言うような上下関係は無いのかと思っていたけれど、その子は目立つ容姿のせいか、その才能のせいか、面倒な先輩にやっかまれているところを目にする事もあった。俺がどうこうできる問題でも無かったから、もちろん見ているだけだったけれど。それでもそんな面倒な先輩もその子の才能には余計な口出しも出来なかったみたいで、俺が見つけた一瞬の風は、周りの雑音を気にする事なんて無いみたいに美しく目の前を駆け抜けて行った。それは永遠に近い一瞬だった。
永遠だと思ったんだ、君が、君の、風のような姿をずっと目で追いかけていた。

「千切豹馬」の姿が陸上部の風景から消えてしまったのは、肌寒い、学校の花壇からも花々が姿を消していて、なんと無く寂しい気分になるそんな季節だった。

千切が怪我をして陸上をやめてしまったという風の噂を聞いたのもその頃だった。
千切が、来年度の「薔薇様」に選出されたのだと聞いたのも。

「薔薇様」の千切豹馬は、それはもう高嶺の花として君臨していた。
うちの代の薔薇様は親しみやすいアイドルみたいに可愛い黄薔薇様の蜂楽と、はんなりした京都弁が魅力だと言われている白薔薇様の氷織と、それから、クールな高嶺の花の紅薔薇様、千切の三人だった。三者三様で魅力のあるキャラクターで、今年は当たり年って言われていて、あまりそういうのに興味の無い俺の耳にも入ってくるくらいの有名人だった。
だから本当に、あの「千切豹馬」が、温室で居眠りしているとは思わなくて。
千切は高嶺の花だった。
だから今後、関わり合いになる事は無いと思っていたのに。

妖精が眠っているのだと思った。

見覚えのある鮮やかな長い赤毛が、寝息に合わせてすよすよと動いていた。
俺にはそれが「千切豹馬」だと一瞬で分かったし、なんでこんな場所に、とすら思ったのだ。妖精が迷い込んできた。紅薔薇の妖精が。そっと眠らせておこうと思った。起こさないように、大切に、そぉっと。だから目を覚ました時にはこっちまでびっくりしたし、その甘い瞳に俺だけを写してくれるとは思わなくて、思わず胸が高鳴った。
夢でも見ているのかと、思って、そうして一瞬のうちに去っていってしまった千切だったが、なんでか、俺にとっても高嶺の花である紅薔薇様は、この場所がいたくお気に召したらしく、生徒会での活動の前にこの温室を訪れるようになった。
だから俺も、校舎脇の花壇の水やりの時間を少しずらして、千切を迎える。
「いつも悪いな、はいこれ」
薔薇様の活動ではあまり笑顔をみせない千切だったが、こうして気を許した相手にはふわりと笑顔を向ける事があって、俺はドキドキしている内心を外に出さないようにして平静を演じている。千切は、この外国のお人形みたいな容姿に似合わず(と言っては失礼かもしれないが)和菓子と緑茶が大好きで、俺も和菓子好きなんだって話をしたら、こうやってたまに和菓子を差し入れてくれるようになった。お饅頭、大福、俺の好きなきんつばを見つけると嬉しくなって、俺はお礼に熱い緑茶を振る舞うようになった。
千切は、それはもう可愛い。
陸上部で走っていた頃から、現在薔薇様として活動している時の印象から、すっかりクールで怖いやつなのかなって思っていたけれど、先述のように気を許した相手にはとことん甘かった。走れなくなった頃は、その整った顔立ちからは完全に表情というものが抜け落ちてしまっていたかのように見えたけれど、薔薇様として活動していくうちに笑顔が増えて行ったのは良い事のように思えてならなかった。
だって千切の笑顔は可愛い。当たり前のことなんだけど。
だからその笑顔を独り占めしたいって思ってしまうんだ。
そんな言葉はすっかり飲み込んでしまって、俺は今日も紅薔薇の妖精さんを迎え入れる。

その頃の俺は、千切に笑っていてほしくて、だから、そんな千切から笑顔を奪った、陸上と怪我からは遠い世界に、この妖精さんを囲ってしまいたいとすら思っていた。
それが俺自身の単なるエゴイズムだなんて気付かないで。

***

「……本当にいいのか?陸上の応援なんて……」
「大丈夫です。お勤めはキチンとします」
打ち合わせを終え、帰宅しようとしていた俺は、会長の玲王に呼び止められた。
全国大会へ行く部員達の応援の件だ。野球部や陸上部は常連、今年は柔道、剣道部辺りも該当して、流石に遠方までは応援に行けないけれど、関東近郊の部活動は薔薇様として応援に出るという話になっていた。まぁこの時点で甲子園に行く野球部は外れる事になるが、じゃあ三箇所なら日程的にも三人全員で回れるんじゃ無いかって結論に至った。
今年生徒会長になった玲王は、人望にも厚い、頼れる人物だった。
成績優秀、眉目秀麗でサッカー部の部長もこなす、文武両道。実家は御影コーポレーションという会社をやっている御曹司らしいが、そういうのもひっくるめて、嫌味のない、尊敬できる先輩。ちょうど半年くらい前、俺が薔薇様に推薦された時にも、薔薇様は基本的に拒否権は無いと聞いていたけれど、その時俺は怪我を負って陸上を諦めた時だったから、「大丈夫か?本当に良いのか?」って気を使ってくれた。玲王自身も、(ついでに一緒にいる凪も)先代の薔薇様で、その大変さを分かっているからこその言葉だったのだが、誰かに必要とされる事なんてもう二度と無いと思っていたから、俺は玲王の心配をよそに、薔薇様の推薦を受け入れる事にしたのだ。
誰かに必要とされているのならば、俺に断る理由はない。
それに陸上は、もう戻るつもりは無いと割り切っているはずだった。

一人で生徒会室を後にした。外はもうすっかり日も落ちていてグラウンドにも人影は無く、やっぱり蜂楽と氷織には先に帰ってもらっていて正解だったと思った。俺たちは三人とも寮生活を送っていて、学校からは寮までは比較的近いけれども、あまり遅くなってしまったら夕飯にも遅れるし、夜の自由時間も減ってしまうから申し訳ないと思っていた。
誰もいないグラウンド、トラックに、足が向いたのは本当に一瞬の気の迷いだったと思う。この学校のグラウンドは広くて、野球場やサッカー場は別にあるし、陸上部も専用のトラックで練習をしていた。荷物だってあるし、靴だってスパイクでは無い、けれども、スタートラインに立った俺は、怪我をした今でも、昔みたいに駆け出せそうな気がしていた。そっと目を閉じて、ビュウと風を感じる。
「千切?」と、呼び止められるとは思いもしなかったのだ。
声の主はすぐに分かった。ここ数日、ずっと聞いている聞き慣れた声で、優しく俺の名前を呼ぶ。肩に掛けたスクールバッグを掛け直して、俺は声のした方に向き直った。
「……潔、どうした?今帰りか?」
「あーうん、ちょっと温室に長居しちゃって」
「あそこ、夜は明るいのか?」
「あぁ、一応、電灯はついてる」
そんな、他愛もない会話をしていた。潔は寮生ではない、電車で通っているのだと、あの温室通いの世間話の中で、聞いて覚えていた。押している自転車も、駅までのものなのだろう。ここは微妙に駅からは遠くて、潔のように電車通学の生徒は駅からの自転車使用も認められていた。ぼんやりと潔を眺めていると、何故だか気合いの入れた声で潔が尋ねるのが遠くから聞こえた。
「千切は、また走りたい?」
多分、聞いてはいけないことだと捉えられているのだろう、言葉を選んでいる様子で、出来るだけ不自然にならないように気を使って聞いてくれているのだと分かった。
潔の声は、ずっと優しかった。
だから俺も、ずっと優しい気持ちでいられた。
「俺はもう、走れない」
「千切」
「走れないんだ、また怪我をするのが怖くて、走りたくても走れない」
本音を吐き出せたのもきっと、潔が優しいからだった。
潔は、俺の言葉には納得していない様子だったけれど、この言葉を理解して、飲み込んでくれようとしていた。
「千切はよわむしだ」
だからきっと、この言葉も、彼にとって優しい言葉を選んでくれたのだ。
「俺はずっと、お前の事見てたよ。風を切って走っていく姿が好きだった」
「…………え?」
「もう一度走って欲しいなんて俺は言わないけど、お前の、走ってる姿が好きだった」
潔は、なんて言ったんだ。
状況を飲み込めずに、俺はただ、トラックに立ち尽くしていた。
走っている姿が好きだと誰かに言われたのは初めてだった。
っていうかおまえ、そんな頃から俺のこと知ってたの?なんて、頬が熱くなっていたけれど、多分暗がりだったし距離も離れていたから潔には気づかれなかっただろう。
俯いてしまったらポタポタと涙がこぼれ落ちたけれど、多分これは潔には気付かれていないだろう。
「……走りたいよ」
呟きも、きっと届かない。それくらいに小さな声だった。
滴り落ちる涙の雫をグッと堪えて、黒い空を見上げた。今日の空は星が一つも見えなくて、曇っているのだろうか、なんて、思ったりして。星も見えない夜空に、丸い月だけがもやがかって見えた。暗い夜だった。
「千切、一緒に帰ろう。寮まで送る」
潔の声は優しかったけれど、有無を言わせない迫力を秘めていた。
だから俺はコクリと一つだけ頷いて、カバンを背負い直して潔の元へ駆けた。

***

俺は千切に笑っていて欲しかっただけだ。
悲しい顔はしてほしくなくて、だから陸上とか、怪我とかからは遠い世界にいれば、千切は笑っていてくれるんだろうなって思っていた。

まさか、涙を流すとは思わなかったのだ。
あの強い千切が。クールで、華やかで、それでいて芯の強そうな千切が。
だから俺はその涙は見なかった事にした。だって千切だって、泣いているところなんて見られたく無いだろうなって思ったから。
寮まで千切を見送る帰り道、俺たちの間に会話は無かった。
それでも、玄関先で「またな」「あぁ」とだけ言葉を交わして手を振ると、千切は取ってつけたような笑顔を浮かべて手を振りかえしてくれた。それがあまりにも痛々しい笑顔で、俺は自分の心臓がギュッと締め付けられるのを感じた。
駅までの帰り道、自転車を走らせながら俺は、千切の事を思い返していた。
陸上部で走る千切豹馬と、高貴な笑顔を振り撒く紅薔薇様と、それから、俺の前で見せてくれる柔らかな飾らない笑顔と。最後に、今日の痛々しい笑顔と。
電車に乗った俺はスマホを握りしめていた。
千切とは早々に、LINEのIDを交換していたから、連絡先も知っていた。
けれども学校で会えるからって、実際にLINEを送った事は無くて。でも今日は、と、勇気を出してまっさらなトークルームを開く。

【明日放課後、今日くらいの時間にまた会えない?】

ピコンと音を鳴らして、メッセージが送信された。
返事が届いたのは30分後、俺が電車を降りるところだった。

***

【明日放課後、今日くらいの時間にまた会えない?】

この、潔からのメッセージの意図するところはなんなのだろうか。
ちょうど風呂に入っていた。寮の風呂は大浴場だったけれど、薔薇様達は不埒な生徒から身を守るために入浴時間が制限されていて、今日は遅れて帰ってきたから、その入浴時間に滑り込んだのだ。ドライヤーを脱衣所から借りてきて自室で髪を乾かしていると、スマホにメッセージが届いているのに気付いた。受信時刻は30分ほど前だ、送り主は潔で、先述のようなメッセージが浮かぶ。どういうつもりなのだろうと俺は首を傾げていた。

【放課後、昇降口でいいか?】

すぐに既読が付いて、潔からは【ok】の可愛らしいスタンプが送られてきて和んだ。
四人部屋や二人部屋がほとんどの中で、個室を与えられているのも薔薇様の特権だった。
それでもベッドはシングルベッドだし、風呂トイレ洗面所は共用だし、寮生活の制限はあるけれど。俺はスマホを抱いてベッドの上にゴロンと転がった。

『お前の、走ってる姿が好きだった』

潔の言葉がこんなにも胸に突き刺さる。
陸上に未練なんて無かったはずなのに、怪我をした右足が疼いた。

***

その日は朝からずっと落ち着かなくて、勉強も耳に入らなかった。

温室にも寄ろうと思ったのに日直で、それも叶わなくて、そのまま「薔薇様」の活動に駆り出された。先日フィッティングをした衣装が完成したから着用してみて欲しいと、家庭科部長の蟻生先輩から伝言を貰っていたのだ。薔薇様の衣装はこの衣装担当である家庭科部長の一存で決まることが多くて、今年はクラシカルなゴスロリ風の衣装が多かった。
「どや!」
「おー、可愛い可愛い」
「千切くんも可愛いで」
「ふんぬーーー!!チャックが……チャックが……助けて……」
「あー、はいはい」
俺が黒で、氷織がグレーで、蜂楽がブラウン系。三者三様で可愛らしい雰囲気の衣装で、夏に向けて涼やかな生地を使っているのだなと感心して、俺は仕上げにリップグロスを塗る。これで、可愛らしいお姫様の完成である。メイクは自分たちで行うのであるが、女の子は大変だなぁと思いつつ、鏡に向かってリップをパッパッと馴染ませてやる。半年もやっていれば、随分と身体に馴染んでしまうものだ。女装に慣れてしまうのもどうかと思うけど。
「今日は野球部の応援か〜」
「野球部は現地まで行けないから念入りになって御影会長が」
「うーん、そうやなぁ……」
野球部の応援を終えて(新衣装もあって異様な盛り上がりであった……)、今日は生徒会の集まりも無いからって、蜂楽と氷織には先に帰っていてもらう事にした。
誰もいない生徒会室でぼんやりと、夕暮れ時のグラウンドを眺めている。さっきまでいた野球場では後片付けなのだろう、選手達が地面を慣らしていて、野球場の更に奥、遠くの方では帰宅するテニス部員の姿も見えた。ここは三階だから、グラウンドがよく見える。
ぼんやりしていたらいつの間にか、時計は七時を回っていた。
グラウンドからはすっかり人気が無くなっていて、俺は、潔を待たせてしまうと焦って、カバンを手に生徒会室を後にした。

「わりぃ、待たせた」
「いや、良いんだ」
生徒用の出口は鍵が閉まっていたから、教師用の出入り口から出てきた。
潔は、手すりにもたれてスマホを手にしていた。
「なんだ?話でもあるのか?」
潔に呼び出された意図が分からずにそう問いかけると、隣を歩いていた潔は足を止めて、俺をじっと見つめる。同じくらいの身長だったから目線の高さも同じくらいで、同じ高さにある瞳はこんなにも近いのだとやたらドキドキしてしまう。ドキドキを、押し込めていると、潔はそっと俺の手を引いた。
「昨日は、ごめん。俺、変なこと言った」
「え?」
「お前が弱虫だとか、そんな事、思ってないのに……」
「……あぁ、」
なんだそんなことか、と、これには俺も小さく笑った。
弱虫、なんてのも、そういえば初めて面と向かって言われたなと思い出して、笑っていると、潔は何かを決意したように深く一息吐くと、また、真っ直ぐに俺に向き直った。
「俺は昨日、自分の気持ちに嘘をついた」
「潔……?」
ギュッと繋がれた手から、熱が伝わる。
「千切、俺は、もう一度お前に走って欲しいよ。……もう一度、あの、風のようなお前が見たい」
ぎゅうっと、胸を締め付けられる心地だった。
どうしておまえは、そんなにも他人の事に真っ直ぐでいられるんだ。
一歩踏み込めばそこはグラウンドだった。誰もいない、薄暗いグラウンドには、今は二人きり。潔の声だけが静かに響いている。
走るって言ったって、だって、もう半年もトレーニングをしていなくて、今は制服だったし、靴だってスニーカーだ。昔の自分が見たらバカにしているのかと言ってくるだろう。けれども、潔が言いたいのはきっとそんなことではなくて、もっとずっと、俺の心の奥底に呼びかけているのだと、このまっすぐな瞳を見て思う。
「お、俺は……、弱虫じゃ、ない」
「あぁ、知ってる」
「お前の言うように、風みたいに走れるかは、分からない……」
「あぁ」
それでも良いのかと問いかける。きっとあの日のような走りは出来ないのだろうけど、今ここで、もう一度あの風を感じたいと思っているのは、俺の方なのだと思う。

『それでも良いだろ?』って潔が言ってくれたから、俺はもう一度ここに立てる。

たった50Mだ。こんなの、体育の授業の体力測定でも走った。記録は相当落ちていたけれど。カバンを潔の足元に置かせてもらって、学ランの上だけ脱いで、それも持っていてもらう。潔がゴールで待っていてくれた。スタートラインに手を付いて、まっすぐにゴールを見据える。「位置について」「よーい」の声が聞こえた、けど、ゴーを出すのは自分だった。一歩目を踏み出す、間を置かず二歩目も。俺は、風になれているだろうか。

ーー・・・

***

今日は日直で、いつもよりも温室に行くのが遅れてしまった。
今日はテスト期間で生徒会が無いから千切が顔を出してくれるって言うのに、すっかり遅くなってしまったと、俺は駆け足気味に廊下を歩いていた。

薔薇の妖精が眠っているのだと、あの日と同じ錯覚を覚える。
デジャヴだ、と、そのすやすやと眠る長い前髪を指先でかき分けると、可愛らしい寝顔が覗いて、くすぐったさで身を捩った千切が、がばりと身を起こした。
「ハッ、俺、寝てた?!」
「爆睡だったぞ」
クスクス笑っていると、千切がはポッと頬を染めて、側に置いてあった紙袋を手渡してくれた。
「わぁ!きんつば!!」
「好きだって言ってたから、この前のお礼も兼ねて」
「わーー、嬉しい!本当に大好きなんだ」
「ふふ、おれもすき」
お茶を淹れようと身を翻していると、背中に掛けられたそんな言葉にやたらとドキドキしてしまう。「俺も好き」なのは、和菓子の話だ。だからそんなに意識をするな!高鳴るな!俺の心臓を必死に押さえ込んでいる。

千切は、世間話の一つみたいに、また陸上に戻りたいと考えている事、そのためにはもう来年の総体には間に合わないから大学陸上を目指していること、陸上部の顧問の先生に話したら行きたいと思っていた大学に声を掛けられた事、それがきっかけで土日は大学の陸上部でトレーニングをしてる事を教えてくれた。薔薇様の活動も、会長は辞めても良いと言ってくれたらしいが、本人の強い意志で継続すると言うことも。
「あの二人に申し訳無いし、寮の一人部屋は捨てがたいもんな〜」
「そういうもんなの?忙しく無い?大丈夫か?」
「ただ、来年の生徒会には参加できないかな。大学絶対落ちれないし」
「千切はすごいな。俺よりもずっと先を見てる」
前よりもずっと、明るい表情を見せるようになった千切が嬉しくてそう言うと、千切は照れくさそうに赤くなった頬をかいてみせた。
「じゃあこれは俺から。千切の前途を祝して」
「えっ、な……に……」
ポンと、出したのは赤とピンクが鮮やかな薔薇の花束だった。
もちろん、ここに咲いている沢山の薔薇たちで作った、世界にたった一つの花束。
それを千切に差し出すと、それまでニコニコと楽しげだった可愛らしい笑顔が一瞬でくしゃりと歪んだ、あれ、えっと、泣いちゃう?って思っていると、千切はポロポロと涙をこぼし始めて、俺から花束を受け取ってもなお、涙が止まらない状況だった。
「…‥泣かせちゃったな」
「違う……人って、嬉しい時にも泣くんだな……」
ずずっと鼻水を啜っても、千切の涙は止まりそうも無い。
千切に悲しい顔させる事全部、千切から遠ざけてしまいたいと思っていたのも事実だ。だけどそれは俺のエゴでしか無いことも学んだし、ハードルをひとつ飛び越えて、新しい世界へと羽ばたこうとしている千切はこんなにも眩しかった。

だからこれは、もう、殆ど衝動的なもので。
俺は千切の涙を指先で拭って、それから小さな顎に指を掛けた。
チュッと小さな音を立てて、唇と唇が重なるだけの、優しいキス。けれども、千切は驚いて、涙も引っ込んでしまったみたいだった。

後には、顔を真っ赤に染めた千切と俺が、困ったように視線を交わしていた。

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