ラッキープール

カランコロンと、アイスティーの氷が溶ける。
淡いピンクの泡沫模様のグラスの側面には結露した水滴がついていて、麻のコースターを湿らせていた。ローテーブルの上には夏休みの宿題が広げられていて、ピンクの可愛らしいシャーペンを持った美少女が、その整った横顔を潜めながら、国語の問題と睨めっこしてる。
夏休み、お盆前でみんな結構寮にいて、お前ら電気代が馬鹿になんねーだろって左京さんの号令で、日中は各部屋エアコンは時間制という厳しい規則が出来上がっていた。この部屋もまた、午後からのエアコンタイムに備えて今はルームメイトが実家から送ってもらったレトロな扇風機で暑さを凌いでいるところで、窓は開けているのにじっとりとした不快な暑さが身を纏う。
そのルームメイトは、朝早くからランニングと、近所のサッカーチームの試合に助っ人参加してくると言って出かけてしまっていた。だから自室には俺と、この、美少女の2人きり。

「紬、できた。」

トン、とシャーペンを置いて、俺を見上げる一対の瞳。
アイスティーにガムシロップをとろりと溶かしたような、鼈甲色の大きな瞳に、スッと通った小さい鼻と、血色のいい薄い唇。真夏なのに日焼けという言葉とは無縁な真っ白い頬には、ジワリと汗が滲んで髪の毛が張り付いていた。それを億劫そうにかき分ける指も、白い。
「美人」と形容するにはまだあまりに幼いが、「可愛い」では片付けられないような、ちょっと危うげな美しさが彼にはある。

「紬?聞いてる?」
「えっ?あ、あぁ、ごめんね。・・出来たなら見せて。」

そう、「彼」
長い前髪を止める猫ちゃんのヘアピンも、肌が露出した淡いイエローのキャミソールとショートパンツも、机に置かれたピンクの花柄のペンケースも、俺を見上げるそこら辺のアイドルよりも整った顔も、全部が全部可愛らしいんだけれど、これでもれっきとした男の子。
同じ劇団で活動していて、同じ寮で暮らす、「ユキちゃん」。まだ、現役の中学生だった。この辺では有名なエスカレーター式の進学校に通っていて、多分教えなくても要領良くお勉強のできるタイプだと思うんだけど、たまにこうしてテスト前とか休みの日に、勉強を見てあげる事があった。
いつもだったら彼の友人も一緒に勉強会に訪れる事がほとんどだったんだけど、先日行われた夏組公演が終わって早々に実家の家族と海外旅行に行ってしまって、しばらく寮を開けているらしい。
今日は一人で夏休みの宿題を持って、俺の部屋を訪れていた。

「あっつい。ホント、扇風機が快適過ぎる」

国語のワークの添削を待つ間、レトロな扇風機に向かって風を浴びる後ろ姿。

「談話室でやれば良かったんじゃない?あそこならクーラー効いてるし」
「夏組の連中がうろついてるからヤダ!」

確かに午前中の時間帯は、各自室のエアコンの使用が制限されているため、涼を求めて一日中涼しい談話室に人が集まっていた。
先ほどアイスティーを取りに行った時にコンビニ帰りの三角くんとカズくんに遭遇して、「三角のアイス見つけたー!!」「マジウケる!めっちゃインステ映えするやつじゃーん!」って、夏休みの小学生男子みたいに騒いでいたことを思い出した。

赤マルしか付かない、見本のようなお行儀のいい答えが並ぶワークブックに苦笑していると、俺の笑いに気付いたのか、ショートヘアを扇風機の風に靡かせてこちらを振り返る。

「何?なんか変な解答でもあった?」
「ううん。逆に、模範解答で面白いなって。」
「模範解答に面白いもなにもあんの?」

笑われたことが気に食わなかったのか、小さな唇をツンと尖らせる。そういった顔は年相応の子どものようで、可愛いなぁって微笑ましく眺めていると、細いキャミソールの肩紐と、細い二の腕の奥に真っ白な素肌がチラチラ見えて、思わず目を背けた。

「ーーはい、全問正解。よく出来てるね、流石幸ちゃん」

丸だらけのワークブックを返却して、隣にある小さな頭をよしよしと撫でる。俺の事をちらっと見上げる顔が、照れくさそうに赤くなっていて、まずい、子ども扱いし過ぎたかなってばっと手を離すと、彼もまた気まずそうな表情でそっぽを向いてしまった。

静かな部屋。扇風機の回る音と、外からは煩いくらいの蝉の声。夏の音が部屋を包む。

「・・俺で役に立ててる?」
「え?」
「幸ちゃん、何も教えなくてもすいすい問題解いちゃうから・・先生役、いる?」

頭の良い子だった。だから先生なんて必要無いんじゃないかって思ったんだけど、そう言った俺に、幸ちゃんはサーっと顔色を変えると、焦った様子で身を乗り出してくる。

「役に立つとかじゃない、手のかからない子は可愛くない?」
「まさか。手のかかる子も、かからない子も、俺の可愛い生徒さんだよ」

手のかかる子ーー夏休み終盤に駆け込んでくるであろう、賑やかなO高組を思い浮かべて苦笑してしまう。幸ちゃんと、彼の同級生の椋くんは、間違いなく手のかからないタイプの子なんだけど、そういう子は教えた事をすぐに吸収してくれるから、それはそれで教えていて楽しい。

「じゃあ俺は紬がいい。忙しい時は我慢するから、言って。」

キュッと、シャツの裾を握って、懇願するような瞳で俺の事を見上げるのは、美少女。
潤んだ目も潤んだ唇も、おおよそ俺が知る中学生男子のものではない。けど、キャミソールの胸元から覗くぺったりとした何もない胸に、暑さで飛びかけていた理性が引き戻される。

俺がいい、だなんて。そんな事、先生役としてだって分かってはいるんだけど。

時刻は正午を回っていて、階下からは昼ごはんのいい匂いが漂ってきている。そろそろサッカーに出かけているルームメイトも帰ってくるはずだ。戻ってきたら暑苦しいから、エアコンを付けよう。
午後になったらこの子どもも、涼しい自室へと帰ってしまうだろう。

外ではセミが鳴いている、ジリジリと暑い夏の日。

 

 

***

 

 

最近、中学生の子に懐かれている。
と言えば、みんなニコニコと微笑ましいものを見るような顔をして、「あらあら、先生冥利に尽きますね」って言うんだけど、実際はそんなに単純で、可愛らしいものなんかじゃない。
これまでは、生活時間が違うから中々顔を合わせる事が無かったのかもしれないけど、夏休みに入ってからと言うものの、特に今は、彼の友人が家族旅行に出かけてしまっているから遊び相手が居なくて退屈なんだと思うんだけど、俺が暇な時を見計らっては可愛い顔してひょっこり現れる。

「紬!」

その日も彼は、少女趣味なノースリーブのワンピースを着ていた。

今日も暑い日で、午前中は暑さを凌ぐために近所の図書館へと行っていた。先日見たミュージカルの原作を読んで、数冊、気になった本を借りてちょうど帰ってきたところ。玄関の扉を開いた瞬間に、俺の名前を呼ぶ少し高い声と、しなやかな動きに応じて、揺れるワンピースが目にとまる。
猫のような子だった。真っ白くて、毛並みのいい、すごく愛らしいんだけど、決して誰にも懐かない子猫。第一印象からそれは変わらなくて、でも可愛い子猫は、一度心を開いてしまえばそこからはずっと後ろを付いてくるし、腕の中に入れれば安心しきったようにゴロゴロと喉を鳴らす。

「もう昼ごはん食べた?まだだったら一緒に食べよう」
「まだだよ。キッチン、何かある?それともなんか作る?」
「臣がチキンライスとスープを作ってて、それがまだいっぱいある」

スニーカーを脱いでシューズクローゼットにしまっている間も、嬉しそうに玄関を行ったり来たりしている。普段はこういった表情をまわりの人見せることは無いから不思議な感じで、

「楽しそうだね、いい事でもあった?」

そう聞いた俺に、わかる?と首を傾げて返す。

「さっきね、たまご、買ってきたの」
「卵」
「チキンライス、いっぱいあるから、オムライス作ろーよ」

オムライス、と言う彼は、いたずらっ子の男の子みたいな、幼い笑顔を浮かべていた。
幸ちゃんの好物だ。だからこんなにご機嫌だったのか。
無邪気な笑顔に俺まで嬉しくなって、キッチンまでずるずると手を引かれて連れて行かれる。

「幸ちゃん、オムライス作れるの?」
「お母さんと一緒に作ったことしかないけど・・薄焼き卵くらいなら出来る。はず」
「えぇ?大丈夫?俺もそんなに器用じゃないよ」

クスクス笑っていると、談話室にはソファに横たわって昼寝をする密くんの姿があって、彼は俺たちの入室に気付くと、少しだけ目を開いてこちらを伺う。

「おかえり紬・・」
「ただいま。密くんもオムライス食べる?今から二人で作るんだけど」
「・・いらない。マシュマロ、食べたい・・・」
「もー。ダメだよ、食事はちゃんと摂らないと。」

ぐぅ、と俺のお小言を面倒そうに寝たふりで聞き流して、再びソファへと沈み込む。
キッチンでは幸ちゃんがガチャガチャと調理の準備をしていたから、急いで後を追いかけた。

 

「・・・俺の知ってるオムライスじゃない」

まず、最初に言う。俺たちはよく、見た目から几帳面そうに見られがちだが、中身は大雑把で適当なO型らしい性格をしていた。加えて、料理なんてこれまで数える程しかした事がない。
出来上がった料理をダイニングテーブルの上に並べて、ぐぅぐぅ寝ていた密くんを起こして、3人で食卓を囲むと、寝ぼけ眼を擦りながら密くんがぽつりと呟く。

お皿の上には美味しそうなチキンライスと、ぽそぽその細切れ炒り卵が載っている。

「う、うるさいなあ。材料は一緒じゃん」
「はは、何が悪かったんだろうね・・油が足りなかったのかな・・」

ぼっそぼその卵だったけど、密くんは黙々と、文句も言わずに食べてくれた。

「紬は卵料理では、卵焼きが一番好きなの?」
「んー、何でも好きだよ。甘い卵焼きも、だし巻き卵も。」

幸ちゃんはそれから「ふーん、」って少しだけ考えると、視線をオムライスへと戻す。
見た目はあれだけど、やっぱり、臣くんの作ってくれたチキンライスが土台だから、凄く美味しい。仕上げに幸ちゃんがケチャップで描いてくれた猫の絵が上手で可愛くて、思わず顔が綻んだ。

「紬・・なんだか楽しそう・・」
「えっ?」
「ぐぅ・・・・」

そんな事を言いながら、密くんは再び夢の中に落ちていってしまう。
気付いたら彼のお皿は綺麗に空っぽになっていて、俺と幸ちゃんは顔を見合わせて笑った。

 

***

 

夏休みシーズンの行きつけの純喫茶は、なんだかいつもよりも賑わっていた。
常連のおばあさんが、おそらくお孫さんであろう、小学生くらいの男の子兄弟を連れていて、子ども達が出されたクリームソーダのアイスを美味しそうに頬張っている姿が目に入る。お孫さんを見るおばあさんの優しい笑顔と、窓からの光を受けて輝くクリームソーダの緑色が、懐かしい、おばあちゃんとの記憶を思い出させる。
カウンターからはコポコポとコーヒーが落ちる音がして、いい香りも漂っていた。

「・・中学生の子に、懐かれてる。」

冷めたコーヒーを啜って、何でもない世間話の一つとしてそう言った俺に、万里くんは訝しげな表情を浮かべていた。

「なぁ紬さん、」
「ん?」
「・・それって、幸?」

ブッと吹き出しそうだったが寸前で飲み込んで、俺は無駄に勘のいい、この目の前のイケメンくんを見つめる。慌てて飲み込んだ分が気道に入ってゲホゲホと咳き込んでしまった。

「ゲホっ、・・なんで?そんなに俺、分かりやすかった?」
「うーん・・紬さんってか、幸の方がな。あいつ、2.3日くらい前に、いきなり臣の所に来て、『だし巻き卵の作り方教えてくれ』って。みんな不思議そうにしてたけど、俺にはバレバレ。」

ケラケラ笑う万里くんに、カーッと顔が赤くなるのを感じる。
2.3日前といえば、オムライスを失敗したあの日だ。「紬は卵焼きが一番好きなの?」という質問の意味をここでようやく理解して、1番肝心なところで心を読み解けなかった自分を恥じる。

「つーかあいつ、あんなに手先器用そうなのに料理はてんでダメで、あの温厚な臣が頭抱えてたのがマジ可笑しくて」

そういえば、オムライスの薄焼き卵を作るときの手つきもぎこちなかったなって思い出す。
幸ちゃんが、ガタイの良い臣くんと一緒にキッチンに立ってる姿を想像すると、なんだか可愛くて微笑ましくて、思わず顔が緩んでしまう。万里くんは、そう言うとこも目敏く指摘してくるんだけど。

「どうすればいいと思う?モテモテ万里くんの意見を聞かせて」

好意を抱いてくれているのは分かっている。幸ちゃんのそれは、とても分かりやすいから。
ただあまりにも幼くて、甘酸っぱくてキラキラしていて、真っ直ぐ過ぎて。
おじさんがそれを受け止めてあげるには荷が重い。

「モテモテて。どうするもこうするも、いいじゃないすか、好きにさせとけば。紬さんから見たら中学生なんて可愛いもんでしょ。」
「ほっとくって事?」
「そうそう。俺もガキの頃あったなぁ〜、近所に優しくて綺麗なお姉さんがいてさー。ちょうど10個上で、俺は結構本気で惚れてたけど、あっちからしたら中学生なんてクソガキじゃん?」

ガキの頃って、君まだ未成年じゃないか。
言いかけた言葉はコーヒーと一緒に飲み込んで、そう言うものなのかなって思うようにする。

「・・可愛いけど、男の子だもんね。どうもこうも出来ないか。」
「どうもこうもって・・アンタ、幸が女だったら手ェ出せるって事?キャー!」
「ち、ちっが!そう言う事じゃなくて!」

言ってようやく、自分がおかしな発言をしている事に気付いた。これじゃあまるで、俺が幸ちゃんをどうにかするみたいな話になってる。慌てて両手を振って訂正するけど、じゃあ先日のあの暑い部屋で抱いた感情は何なんだろうって、心の中で自分に問いかけてみるけど、答えは出そうにない。

「紬さんって、ロリコン?」
「もーやだ、万里くんきらい!」

 

「すんません、俺、寄るとこあるんで先帰ってもらってもいいすか?」

そんな事を言っていた万里くんと駅前で別れて、俺は一人で家路に着く。
用事があるのに、長居させちゃったかなって思うけど、彼はそう言うとこはちゃんと言ってくれる子だからきっと大丈夫なんだろう。万里くんも、しっかりしていて大人っぽいけどそういえば未成年の高校生なんだよなぁとぼんやり考える。中学生なんて、それよりももっと幼い。俺が中学生の頃なんて、毎日丞と、くだらない、馬鹿な事ばかりやってたよな・・って考えると、幸ちゃんはだいぶ大人だし、落ち着いている。
手を出すなんてとんでもない。俺はいい年の大人で、成長を、見守る側の立場だ。
けれどあのうつくしい子猫は、どんな風に成長するんだろうって、興味が無いわけではない。

うーんって、消し去っては浮かんでくる煩悩をしつこく払いながら寮の扉を開くと、夕刻、ちょうど夕ご飯の支度をしているらしく、キッチンの方から香ばしいいい匂いが漂ってきた。

「あ、紬さん、お帰りなさい。」
「ただいま。すっごくいい匂い、焼き魚?」
「正解です。今日は、家庭料理のフルコースですよ」

キッチンから顔を出した臣くんは、相変わらずいい笑顔で、彼が両手に持っている焼き鮭の皿を見たらお腹がぐうってなった気がした。臣くんの料理は美味しい、しかも、和食だなんて、最高だなあって談話室に立ち寄ると、ソファで眠る人影。密くんじゃない、一回り小さくて、部屋着にしている白いパーカーの背中を丸めて、すやすや眠る穏やかな寝顔。
わぁって声を上げそうになると、彼を膝枕していた東さんが、しーっと人差し指を立てる。

「遅かったね、幸が待ちくたびれてたよ。」
「・・俺を、ですか?」
「『卵焼きを作る』って、珍しくキッチンに立ってね、だから今日は和食のフルコース」

テーブルの上には美味しそうな肉じゃがやほうれん草のお浸し、きんぴらなんかが並んでいて、その中に形は不恰好な、でもすごくつやつやした綺麗な黄色のだし巻き卵が混ざっている。
万里くんはああ言っていたけど、すごく美味しそうに出来ているのではないか。

「ボクもう、膝が疲れちゃったから膝枕交代して」
「・・交代って。起きちゃいますよ、こんなに気持ちよさそうに寝てるのに」

口ではそう言いながらも、可愛い寝顔に釣られておとなしく東さんの隣に座ると、東さんは器用に小さな頭をスライドさせる。膝の上に、軽い、それから温かな感触。本当に子猫を膝に乗せているかのような感覚で、思わず頭を撫でてしまう。

「・・ん・・・あずねぇ・・・・?」

あ、まずい。起きちゃった。
眠たそうに目をこすって、狭いソファの上でぐーっと伸びの姿勢になる。
ぼーっとした頭では、まだ東さんの膝の上に居るつもりらしい。

「東さんじゃなくてごめんね、俺です。」
「・・つむぎ?・・んーーー、お帰りなさい・・・」

寝ぼけているようで、無防備に膝に頭を擦り付ける仕草が可愛い。
可愛い、が、これは・・・擦り寄る場所が、些かまずい。
とんとんと肩を叩くと、ぼんやりとしていた瞳が開いて、その真ん中に俺を写す。

「っ?!えっ、紬?なんで?あれ?あず姉は?」

飴色の瞳に俺を認識した瞬間に覚醒したらしく、目を見張る速さで、ばっと、俺の膝から居なくなる。君は本当に、猫なのか。早くもダイニングテーブルについて、食前酒代わりの日本酒を飲んでる東さんが、遠くの方でそれはもう愉快そうに俺たちの様子を見て笑っている。

「幸、待ち人来たりだね」
「ただいま、幸ちゃん」

にっこり笑ってそう言うと、幸ちゃんはぴょこんとはねた寝癖を両手で隠して、声にならない声を上げる。

「〜〜〜〜!!」

 

***

 

「美術館?」

本日の勉強会は夜に開かれていた。昼間は茹で上がりそうな暑さだったけど、夕暮れから段々と過ごしやすくなって来て、20時を回った今の時間帯なら、窓を開け放てばクーラーを付けなくても、扇風機だけで暑さを凌げそうだった。
机の上に置かれた小洒落たデザインのチケットを眺めて、首を傾げている。今日はお風呂上がりのようで、いつもの様な可愛らしい格好ではなく、ラフなTシャツとショートパンツ姿。こういう格好をしていると男の子なんだよなぁって、不思議な感覚になる。

「そう。昔の演劇仲間からチケットを貰ったんだけど、展示が今週いっぱいなんだ」
「・・・西洋のテキスタイル?」
「幸ちゃんなら好きかなって。明日か明後日、暇だったら一緒に行かない?」
「・・明後日から実家に帰るから、明日ならいいよ。」

小さなチケットを両手で大事そうに持って、控えめに頷く様が可愛い。
成る程、明後日から帰省なのか。じゃあ、今日誘っておいてよかったって、こっそり安堵した。

「渋谷のミュージアムだから、帰りになんか美味しいもの食べて帰ろうね」
「・・それってデート?」

そうやって、いたずらっぽい表情でチケットをヒラヒラと見せて、デート?って。
少し湿った髪の毛と俺を見つめる女の子みたいな顔、長い前髪はヘアピンで上げられていて、つるつるのおでこが露出している。けど、首から下は未発達な少年の身体で、アンバランスな可愛さと美しさに、頭がクラクラする。少しだけ下から見上げる目は自然と上目遣いになっていて、大きな瞳に惑わされそうだった。
だからそんな、無意識下の誘惑を振り切って、いつも通りの笑顔を浮かべる事に努める。

「デートだよ。おしゃれしてきてね」

幸ちゃんは、あっさりと言った俺の言葉に、びっくりしたのか目を丸くして、うん、と小さく頷いて、そのまま机の上に広げた宿題たちをまとめだす。
時計を見るともうすぐお開きの時間。衣装の制作期間以外の彼の寝る時間が意外と早い事も、ここ数日で学んでいた。両腕に宿題を抱えて、入口の扉の前で、もう一度こちらを振り返る。

「おやすみなさい。・・あ、明日、楽しみにしてる。」

咄嗟、だった。真っ赤な顔でそんな事を言う姿が可愛かったから、足が動いて手が動いて、驚いた君の手を引いて、その無防備なおでこに、ちゅっと、音を立ててキスをしてしまう。

「おやすみ、また明日ね」

最後、ぱたりと閉じた扉の隙間から、おでこを抑えて呆気に取られている彼の姿がちらっと見えた。

 

あーーーーやってしまった。なんだ今のは、衝動的にも程がある。

俺の方が恥ずかしくなって、赤い顔を抑えて、ズルズルとその場に崩れ落ちる。
大丈夫かな?気持ち悪いとか、思われてないかな。
だって、好きな子をデートに誘うなんて、24年生きてきて初めての経験で、それであんなに、可愛らしい反応を貰えるとは思っていなかったから。

そこまで考えて、好きな子?嘘だろ?って、ハッと我に返る。

ーーー紬さんって、ロリコン?

先日の喫茶店での、万里くんの言葉が蘇って顔が青くなる。
いや、ちがう。これは。・・・・これは、一体なんなんだろう。

ゴンッ
物思いに耽っていると強い衝撃がおでこを襲い、突然開いた扉の向こうから、見慣れた幼馴染が顔を出す。ルームメイトであり幼馴染の彼は、夜の筋トレに出かけていたらしい。この暑いのに汗だくで帰ってきて、おでこをぶつけた痛みでドア前に蹲る俺を、きょとんとした顔で見下ろす。

「ーーい、った・・」
「あ、悪い。・・そこで何してんだ?」
「・・一人芝居」

 

***

 

お盆前とはいえ、そもそも夏休みシーズンの渋谷は、だいぶ混雑していた。
寮からはそんなに時間がかからないが、渋谷は中々用事でも無い限り訪れる機会がない。久しぶりに訪れたけど、やっぱり馴染まないなぁって、スクランブル交差点の人の多さに辟易してしまう。
貰ったチケットは、本当にたまたま、西洋の美しいデザインの生地を集めた展示で、おもて面に印刷されていたクラシカルな花模様見たときすぐに、幸ちゃんの顔が浮かんだ。
あ、こういうの好きそうだなって。
だから最初は、自分自身はテキスタイルには興味は無かったんだけど、実際にミュージアムを訪れてみると、展示されているフランスの田園に咲く花々のプリントに釘付けになって、ついでに付いて来た俺の方が解説役みたいになってしまった。それでも彼は、寮での先生と生徒役の延長のように、解説に耳を傾けて、うんうんと、楽しそうに聞いてくれていた。

「あー可愛かった〜。やっぱ男ばっかの劇団だとさ、あんな可愛い生地、中々使えないじゃん?」
「確かに・・花柄はきっついかもね」

人の流れに乗って、隣を歩く幸ちゃんをチラ見する。踵のある靴を履いているのか、いつもより少しだけ近い場所に顔があって落ち着かない。デートだからおしゃれしてきてね、の言葉通りに、上から下までフルコーディネート、フルメイクのその姿は大人っぽくて、贔屓目に見ても中学生、しかも男子とは思えないくらいの美人だった。正直言って、成人女性でも中々見ないレベルの。
夏組の公演を見ていても思うんだけど、やっぱり元々が綺麗な子は化粧映えする。
通り過ぎていく人たちが振り返る視線を浴びてもなお、ツンとした顔ですましているところはやっぱり猫っぽい。昨日、おでこにキスした事なんて無かったかの様な振舞いだったけど、気まずいままよりはまあいっかなって、割り切ることにする。

「美術館、初めてだったけど楽しかった。また誘ってよ」
「いいよ。あ、これとか好きそうかなって思うんだけど。写真展も楽しいよ」
「ファッションポートレート!すごい、刺激されそう。」

貰ってきたフライヤーを眺めて、そんな事を言う横顔が微笑ましい。
ちゃっかりと次の約束もしてしまったなって、くすぐったい気持ちになる。

「そろそろお昼にしようか、何食べたい?」
「うーん、・・・あ、紬の知ってる、お洒落なカフェがあったら連れてって」
「え?」
「自分じゃ行かないようなところ、行ってみたい」

黒いベレー帽の下で、大人びた笑顔が覗く。
美人、大人っぽいとはいえ中身は中学生だ。ちょっと背伸びをしてみたい、普段行かないところに行ってみたい、という所だろうか?そんな思いを汲んで、頭の中に周辺のカフェを思い浮かべる。
そうだ、西口のあそこにしようかな。

「ちょっと歩くけど、足痛くない?」

差し出した手は、自然だったと思う。
けれど彼の目が揺らいで、戸惑っているのが見える。迷っている顔だ。こんな往来で、手なんか繋いでもいいものなのか?って。そうやって数秒置いて、躊躇って伸ばされた小さな手は俺の右手を掴んで、弱い力できゅっと握られる。

「・・平気」

「あれ?月岡センセ?」

呟いた声と、俺の名前を呼ぶ高い声が聞こえたのは、殆ど同時だった。
俺が振り返った瞬間に、やっと繋いだ手はバッと離されてしまい、心の中で密かに落胆する。
声の主を探すと、近くの若い女の子向けのブランドのショップから出てくる、派手な格好の女の子がこちらに向かって手を振っているのが見えた。あれは確か、何度か家庭教師をした事のある生徒さんだ。

「センセ〜!久しぶり!何やってんの?買い物?」

明るい髪色、夏とはいえ露出の多い格好。夏休みだからか、爪の先までキラキラしている。
いわゆるイマドキの女子高生の登場に、幸ちゃんがさささっと後ろに隠れてしまうが、確かこの子、見た目は派手だけど、人当たりが良くて性格の良い子だったはず。

「ちょっと用事があってね。君は?買い物?」
「そー!夏休みだから遊びに来たんだけど、妹とはぐれちゃってさー」

キョロキョロと周辺を探して、あ、と目ざとくも俺の後ろに隠れた幸ちゃんを見つける。

「うっわ、めっちゃ美人!センセーの彼女?」

ビクッと、毛の逆立った猫みたいな顔になって、更に俺の影に影に隠れると、シャツの裾を微かに握って、何とかしろと訴える、無言の圧力を背中に感じる。
「彼女」ではない、だって彼は男の子で、ましてやまだ、恋人でもなんでもないから。
じゃあなんだ?演劇仲間?先生と生徒?それとも弟みたいな子?色んな関係を考えて答えに迷っていると、店の中から女の子を見つけて駆け寄ってくる、これまた派手な格好の女の子が現れた。

「おねえちゃん!」
「あっ、見つけた〜。アンタどこいってたの!」
「おねえちゃんが勝手に行っちゃうからでしょー!」

黒髪の女の子は、お姉さんよりも些か小柄で、その面立ちは幼く感じる。高校生?もしかしたらまだ中学生かもしれない。パステルカラーのポップな感じのお洋服を着ていて、お姉さんとは違ったタイプだった。お姉さんは妹さんの頭をこつんと叩いて、愉快そうに笑ってる。
妹さんの方は、授業の間は見かけた事は無かったから、部活でもしているのかもしれない。

「姉妹仲良くて羨ましいね」
「あれ、アンタ・・」

それまで姉妹できゃんきゃんと言い争いをしていた妹さんの方が、ふと、こちらを向いて訝しげな表情を浮かべる。目線は、俺を通り越して俺の後ろを見ていて、妹さんの目から隠れるように、幸ちゃんはベレー帽を更に目深に被りなおす。が。

「・・・瑠璃川幸?」

知り合いか?ちらっと振り返った幸ちゃんの顔は色白を通り越して真っ青になっていて、俺のシャツを掴む指の力が強くなる。これは・・好ましい知り合いでは無いなって何となく察して、相手の女の子を観察すると、それまでの姉によく似た人当たりのいい顔に、目一杯の嫌悪感を含んで、幸ちゃんの事をじっと睨みつけていた。

「ねぇ、あんたまだそんな格好してんの。」
「ちょっとやめなよ、何言ってんの」

お姉さんの制止も聞かずに、ぐいっと一歩踏み込んで後ろに隠れている幸ちゃんを引き摺り出す。

「おねーちゃんも、そこのお兄さんも知らないかもしんないけど、そいつ男だよ。男のくせに女みたいな格好して、いっつも学校でいじめられてたでしょ。あんな事があって、まだやめてないの?」
「えっ、そうなの?男の子?!」

妹さんは幸ちゃんよりも一回り小さな、女の子らしい女の子だった。幸ちゃんの手を掴んで、顔を見上げる形で一息で言い切る。でもこれは、単なるいじめっ子の言い方には聞こえなくて、何か事情がありそうな様子に、俺も眉を寄せる。

「俺は男だから男には興味ないとか言っといて、次は年上のお兄さんに手ぇ出してるんでしょ」
「ね、何があったか知らないけどやめなって」
「いや、俺は、」

妹さんの剣幕に道行く人も足を止めだしている。お姉さんが必死で止めてくれているけど、お姉さんの声も、俺の声も届く事は無い。その間も幸ちゃんは青い顔を俯かせて唇を噛み締めて、小さく震えていた。・・まずいな、この場を離れないとって思うけど、妹さんは解放してくれそうにない。

「その男に媚びる顔・・ほんっとーに気持ち悪い。」

掴んでいた手で肩をドンと押して、苦虫を噛み潰したような顔で、絞り出すように言う。恐らく中学生くらいの女の子が抱くには余りにも強すぎる憎しみを全身に受けた幸ちゃんは、手が離れた瞬間、ばっとその場から駆け出した。

「あっ、待って!!」

尚も追いかけようとする妹さんはお姉さんに羽交い締めにされていて、そんな状態で放置してしまって申し訳ないとは思いつつも、この人混みですぐに見失ってしまいそうな幸ちゃんを追いかける。
雑踏の中、ヒールはそんなに高くないとは言え、運動には向かないサンダルで、よくこんなに走れるなって思う。俺も元々運動が得意なたちではないけど、幸ちゃんも同類だと思っていた。けど、全然疲れを見せる事なく一定の速さで人混みを駆けていく。この差が年の差、って事か。

「幸ちゃん!待って!」

駆けて、駆けて、メトロの入り口に差し掛かったところで足が止まった。
地下へと続く階段の1番上でやっと追いつき、腕を掴んだところでようやく俺の方を振り返って、ぼろぼろと涙を流したまま、ぽつりと呟く。

「ごめん・・」
「帰ろう、ご飯も帰ってからゆっくり食べよう。話したい事があったら、寮で聞くから」

きゅっと瞑った瞳から、またポロポロと涙が零れる。帽子を被った頭をやんわりと撫でてそう言うと、幸ちゃんはこくりと頷いて、涙を乱暴に拭った。

 

 

「俺は物心ついた時から、可愛いものや可愛い服が好きだった。
幼稚園の頃から既に浮いていたけど、それでもまだみんな幼かったから仲間はずれとか、いじめっていう概念は無かったんだと思う。一人で着せ替え人形で遊ぶのが好きで、その頃から人形に着せるための小さな服を裁縫で作るのが趣味みたいになってた。」

「小学校に入ってからもそれはあまり変わらなくて、「瑠璃川って変なやつ」「でも害は無いから放っておく」という自分と周りとの関係が出来上がっていた。状況が変わったのが、小学校6年の時のクラス替えだった。俺の通っていた小学校は、都内の小学校にしては大きくて一学年5組まであって、毎年一回クラス替えがあった。6年生の時のクラスは、とにかく社交的なやつが多くて、俺みたいなやつでもハブられる事もなくて、毎日楽しく学校に通ってた。楽しくて、ずっと笑ってて、でも多分、それがまずかったんだと思う。」

「夏休みが終わって、二学期が始まるって時に、告白されたんだ。相手はクラスで1番女子から人気だった男の子で、背が高くてスポーツも出来て、明るくて、クラスのリーダーみたいなやつ。クラス替えで真っ先に俺に話しかけて来てくれて、一緒にいると楽しかったから、俺は、初めて男友達が出来たって、すっごい嬉しかった」

誰もいない劇場に、小さな声が響く。
明日から世間的にもお盆休みで、既に寮の半数近くが実家に帰省しているとは言え、互いの部屋にはルームメイトがそれぞれ在宅していて、談話室も人が多い。どこか人気のない場所はって探して、結局、MANKAI劇場に忍び込んでいる。
普段芝居をしている時は気付かないが、舞台の上に座ると、こんなに広かったのかって、不思議な気分になる。照明が落とされた劇場内は真っ暗で、オレンジ色の非常灯の明かりだけが頼りだった。でも多分、人は暗い場所の方が本音が出やすいから、こういう話をするにはちょうどいいのかもしれない。

幸ちゃんの独白は、静かで、抑揚のないものだった。

「その年の夏休みは、クラスのみんなでプールにも行ったし、誰かのお父さんが企画してくれたキャンプにも行った。本当に楽しくて、二学期が始まっても、こんな風に毎日過ごせたらいいなって。・・でも、その男の子に好きだって言われて、俺は混乱して、ごめんって言って。運が悪い事に、その場を見ていたやつがいて、噂があっという間に広がってしまって・・・」

「男子にはホモはキモいって言われて・・女子はもっと怖かった。その男の子の事を好きな子に、嫌がらせの手紙入れられたり、教科書隠されたり、1番酷い子には、カッター持って追いかけられて、ちょっとだけど、怪我、しちゃって。男のくせに男に媚びてんじゃねーよって。」

先ほど出会った、あの女の子の姿が思い出される。
幸ちゃんの姿を見た瞬間からの態度の変化には、恐ろしさを覚えた。あの子も、その例の男の子に恋をしていた女の子のうちの一人なのだろう。話を聞く限りみんな完全なる逆恨みで、特に先ほどの女の子のような、人を傷つけるような子達は、どんな理由があれど擁護のしようがないけれど。

「そいつ、それから学校に来なくなったんだ。中学もどこに行ったか知らない。俺は逃げるのが嫌だったから残りの半年頑張ったけど、みんなと一緒の公立中学に行く気がしなくて、フラ中を受験した。そこでもそんなに、状況は変わらなかったけど」

予想をはるかに超える壮絶なエピソードだった。
静寂が劇場内を包み、しばらくの間の後、暗がりからしゃくり上げるような泣き声が聞こえる。

「・・・俺、誰にも媚びてない・・この服だって・・着たいから着てるだけなのに・・」
「うん、そうだね」

ひく、ひく、と泣く頭を優しく抱き寄せると、驚いたのか腕の中の泣き声が一瞬止まった。
世の中には色んな形の悲しみがあるが、この子のそれは、強烈な痛みだ。カッターで作られたような直接的な傷ではなく、心の中に小さな頃からずっと積み重なり続けて、今にも穴が空いてしまうそうな傷。美しい子猫が人に懐かないのは、決して高飛車だからでは無くて、人から傷つけられた経験が積み重なって、誰にも心を開かなくなってしまっているからだった。

「紬にも、・・・嫌な思いをさせた・・・ごめん・・・」

そんな事ないよって言葉の代わりに、抱きしめた腕の力を強くする。

「幸ちゃんは強いね・・痛みに耐えて、今まで頑張ってきたんだね」
「・・強くなんかないよ」

こんなに小さくて、こんなにも傷ついた子どもを前にして、俺にできる事なんてあるんだろうか。
痛いだろうなあって、感情に寄り添うと、痛みが伝染してくる気もする。
心の中に広がった傷口は大きすぎて、俺の両手でも塞ぎきれそうになかった。

 

***

 

俺には幼馴染がいる。同い年で、生まれた頃からずっと一緒で、兄弟みたいに1番近くで育ってきた、無二の存在だ。幼馴染は生まれながらに天性のオーラを持っていて、小さい頃から華やかな容姿と、恵まれた体格で、スポーツをやらせたら何でもそつなくこなすし、運動会の応援団とか、部活動のキャプテンとか、リーダーシップにも優れていた。
俺は、丞と比べたら大人しくてさえない少年だったけど、丞が側にいてくれたから寂しいと思った事は無かったし、良い友達にも恵まれていた。進路に関しての些細なすれ違いで、言葉も交わさなかった数年があったものの、和解した今ではそれもいい思い出だ。
盆と正月くらいは帰ってきなさいよって言っていたのは、どっちの親だったかもう忘れてしまったけど、今年もこうして連れ立って実家に帰れる事に、うちの母親も、おばさんもすごく喜んでいた。

どこまでも青い空が広がっていて、気持ちのいい天気だった。お盆休み、帰省、丞の運転する車で実家までのドライブ。車内は適温に保たれていて、ラジオからは夏のドライブソングが軽快に流れている。こんな女性ボーカルのハイキーでアップテンポな曲、普段は中々聴かないから新鮮だった。

「紬、眠かったら寝ててもいいぞ。昨日遅かっただろ」

外の景色を眺めてあくびを嚙みころした俺を目ざとく見つけて、丞が優しさを含ませて言う。
幸ちゃんは今朝早く、実家へと帰っていった。小さなカバンに荷物をまとめて、行ってきます、と笑った顔にやっぱり元気はなくて、俺にはいってらっしゃい、気をつけてね、の言葉をかけるのが精一杯だった。今でこそ、夏組のみんなや劇団のみんなに囲まれて、楽しそうに過ごしている姿をよく見かけるけど、幼少期に信頼できる友人に恵まれず、一人で生きてきた子の気持ちなど、俺に想像できるようなものではない。昨日は考えすぎてあまり寝付けなくて、遅くまで起きていたんだけど、丞も気付いていたんなら申し訳なかったな。

「ねぇ丞だったら、怪我して鳴いてる、ひとりぼっちの子猫を見つけたらどうする?」

ハンドルを握る丞の横顔をじっと見て、なんとなしにそんな質問を投げかけてみる。

「あ?またなんかの心理テストか?」
「そんなとこ。」
「とりあえず、病院連れてくだろ、そんでエサやって・・でも、飼えないよなぁ」

丞は優しいから、俺の出した心理テスト?に本気で考えてくれて、多分きっと、連れ帰っても最後まで面倒見きれないだろうなってところまで想像しているのだろう。
整った横顔が曇って、どうしたものか、と、考え込んでいる。

「お前は昔から、捨て犬とか怪我した小鳥とか、すぐ拾ってくる子どもだったよな」
「一緒にうちの母さんに怒られてくれたよね」
「・・紬んちのおばさん、怒ると怖いからな・・・」
「『この子は本当に頑固なんだから!たーちゃんからも言ってやって!』って。完全なとばっちりだったよね。」

懐かしい思い出だった。まだ小学生の俺が、学校帰りに雨に濡れて鳴いていた犬を拾ってきて、母親に「置いてくるまで家に入れません」って言われて途方に暮れていた時、付き合って一緒に、家出してくれたっけ。母親は、俺と一緒で頑固だったから最後までどっちも折れなくて、雨の降る公園の遊具の中に隠れていたところを発見され、そのあと、俺だけ高熱を出して寝込んだ。

結局、熱が下がった時にはもう犬はいなくなっていて、幼い俺はわんわん泣いた。

「・・猫でも拾ったのか?」
「ううん、」

深いため息と共に、視線を車窓に移した俺に気づいた丞は、気遣うようにそう声をかける。
丞は肝心なところで鈍いんだけど、その鈍さに救われる事も結構あって、今は、俺の考えている事が悟られて欲しくなかったから、敢えてそれ以上は言わない。

「俺は、最後まで面倒見きれないから、猫が鳴いていたとしても拾わないと思う。中途半端な優しさは優しさじゃなくて偽善だし、最終的に自分も猫も傷つくからな」
「・・たーちゃんがまともな事言う大人になっちゃった」
「冷やかすな、真面目な話だ。でも、お前が拾ってきた猫なら話は別だ。お前が傷を癒して面倒見るって言うなら、一緒に匿ってやるよ。俺はガキの頃からずっと、紬の味方だからな」

ーーーこの幼馴染は、ほんとうに・・
俺の拗れた想いには気付いていないと思う。10も年下の子どもに恋をしたなんてこの過保護な幼馴染が知ったら、顔面蒼白になって、「俺はお前を未成年淫行で捕まらせるわけにはいかない」って全力で止めに入ると思うから。
だからでも、本能的な何かで、俺の欲しい答えをくれるんだと思う。24年分の絆は強い。

「あはは、本当に拾ってきた時は一番に丞に相談するよ」
「当たり前だろ」

 

***

 

「幸くんただいまーー!!これ、お土産!いっっぱい可愛い小物買ってきちゃった〜」

お盆休みが明けて寮へ戻ると、他の団員も各々のバカンスを楽しんできたらしく、既に談話室は人で賑わっていた。テーブルの上には土産物のお菓子が並べられ、お茶会みたいになっている。
休み前あんな事があって、幸ちゃんの事が心配だったんだけど、久しぶりに帰ってきた友人、椋くんの日に焼けた元気そうな顔を見て、笑顔を浮かべている様子に安堵する。

「ねぇ、宿題終わった?」
「うん。紬に見てもらって、ほとんど終わってるよ。あとは読書感想文見てもらうだけ」
「いいなぁ、僕も紬さんにお願いしよっかなぁ〜」

「いいよ、後で2人で部屋においで」

ぴょこぴょことやってきた中学生組にそう声をかけると、やったーと手を挙げて喜んでくれる。
可愛いなあって感想が自然と出てきた自分にほっとした。それから、楽しそうな幸ちゃんにも。

「紬、見て、椋に貰った。綺麗でしょ?」

手のひらにお土産の花飾りを乗せて微笑む顔には、休み前の陰りは見かけられず、実家で少しは気分転換出来たのかなって思う。

「えー?海?」
「そーそー。もう休みも終わりだしさ、最後にみんなでワイワイしよーよ!」

テレビ前で同じように土産話に花を咲かせていた面々が、そんな話をしているのが耳に入る。

「海!カズくん、僕も行きたい!!」
「ハァ?お前はハワイから帰って早々、また海行くのかよ」
「いいじゃんねー行こうよむっくん!そんなこと言ってー、テンテンもすみーも行くっしょ?」
「待て、俺は仕事の休みが・・」
「行く〜サンカク水着〜」

どうやら今週末に、海へ行く相談のようだった。学生組はもうすぐ夏休みが終わってしまうから、シーズンが終わってしまう前に最後の思い出づくりなのかもしれない。
話の輪は広がって、夏組だけではなく、他の団員も巻き込んで、全員で海へ行く話に発展している。冬組では丞と誉さんが乗り気なのが意外で面白かった。

「・・・海、」

ちらりと見た幸ちゃんの横顔が、キラキラと少年のように輝いているのが見えた。行きたいんだろうなって言うのが、一目で伝わってくるくらいの表情だったが、けれどその顔色が一瞬で曇る様も手に取るように分かってしまう。
伏せられた瞳が、盛り上がっている周りの子たちに悟られる事はない。

「ゆっきーは?どうする?」
「俺はいいや、日焼けすんのも、海水でベタベタになんのもヤダし。」

だから底抜けに明るいカズくんの声にも、そうやって、いつもの調子で上手く返していた。

「えー、幸チャン、行かないんすか〜?」
「んなこと言って、おまえ、実は泳げないんだろう!」
「うっさいバカ犬!うっさいポンコツ!」

俺の側では東さんが誰かのお土産の鳩サブレを食べながらニコニコとした笑みを崩さずに幸ちゃんに続く。それから、東さんの向かいで鬱陶しそうに状況を見守っていた左京さんも。

「ボクも、日焼けが嫌だから留守番してるよ。みんなで楽しんでおいで」
「俺も行かねえからな。ガキどもに付き合ってたら体力が持たねえ」
「え〜、フルーチェさんは引率で決定してるからねん」
「ハァ?!ふざけんなよ三好!」

まぁまぁと場を収めていると、俺の顔を覗き込む意味深な笑顔の東さんと目が合った。

「紬は?」
「俺は・・・俺も、いいです。先約があるので。ごめんね」

行かないのか?という丞の無言の問いと、え〜?という学生組の残念な声に曖昧な笑みで返して、俺も土産物のお菓子をつまむ。結局、密くんも至くんも言いくるめられて、ほぼ全員(欠席3名、保留1名)という大所帯で出かけることに決定したらしい。テレビの前のソファでは、言い出しっぺのカズくん主導で、綿密に計画が練られて行く。

 

今日の勉強会は、生徒が1人増えた。家族旅行のハワイから帰ってきて、元々色白な顔をほんのり日焼けさせた椋くんも一緒に、3人で机を囲む。今日は丞が在室していたから、バルコニーで開くことにした。元々そんなに心配はしていなかったけど、解答欄が綺麗に埋められている椋くんのワークには安心する。読書が好きな彼は、早々に読書感想文も済ませてしまっているらしい。
じゃあ何を教えようか?って言った俺に、2人揃って「休み明けの課題テストの傾向と対策」と言われた時には、優等生はそもそもの頭の作りが違うのでは無いかとすら思ってしまう。

「本当に助かります、紬さん、忙しい中ありがとうございます」
「いいよ、今はそんなに忙しくないしね。来週くらいから駆け込み寺みたいになっちゃうから、そしたら2人には構っていられなくなっちゃうかもしれないけど・・」
「O高の馬鹿どもは海行ってる暇あんの?」

宿題のワークを元にテスト対策を進めていると、会話の中でそんな風に幸ちゃんが呟いたから、不自然にならないように、少しだけ切り込んでみた。

「良かったの?」
「何が」
「海、行かなくて良かったの?」

ピンク色のシャーペンの芯がポキリと折れて、俯いた幸ちゃんを中心に、静寂が場を包み込む。
ヒヤリとした空気に焦りを見せて、椋くんがちらりと幸ちゃんの顔を伺って、優しく問いかける。

「・・行きたかった?」
「別に」
「行きたいなら、一緒に行こう。パラソルの下で見てるだけでも、きっと楽しいよ」

優しい、声色だった。椋くんなりに、幸ちゃんが一番負担にならない形で頷けるように、考えて提案してくれているんだと思う。
幸ちゃんにとっての椋くんは多分、俺にとっての丞みたいな存在だ。
迷っている時に手を引いてくれる、貴重な存在。
けど、今の幸ちゃんの心の傷が大きすぎて、差し伸べられたその手すらも、拒絶してしまう。

「行かないってば!」

ガタン、と椅子を乱暴に引いて立ち上がると、俺たちの顔も見ないで走り去ってしまう。後には呆然とする俺と、複雑そうな表情を浮かべる椋くんが残されて、2人で顔を見合わせて息を吐いた。

椋くんは置き去りにされた幸ちゃんの宿題をまとめて、ぽつりと呟く。

「幸くんね、学校のプールの授業も、一回も出たこと無いんですって。」
「え?一年生の時から一回も?」
「そうです。本人に聞いたら、泳げないからって言ってたけど。でもうちの学校、体育は出席しただけで成績つくから。多分、水着が嫌なんじゃないかなって思ってて。」

自信の無さげな椋くんの予想だったけど、概ね正解だ。正しくは指定水着も嫌だし、それを着ている自分を好奇の目で見られたく無い、といった所か。

「だから、劇団の人と一緒なら、自分の着たい水着を着れば、海でもプールでも楽しいかなって・・思ったんですけど・・・」

段々と椋くんの声は小さくなって、最後の方は消え入りそうだった。

「椋くんは優しいね、」
「そんなことないです。・・・でも、みんなで一緒に海行けたら絶対楽しいと思うから、あと一週間で説得してみますね。」
「・・幸ちゃんは君みたいな友達がいて、幸せだと思う。今はまだ些細なことでケンカも沢山すると思うけど、こういう縁は大切にした方がいいよ」

これまで、友達という存在に恵まれて来なかったあの子だからきっと、分かっていると思うけど。
些細な諍いくらいじゃ途切れない縁は、一生ものの大切な絆になる。

「経験者は語る、ですね」
「え?」
「紬さん、忙しいのにこんな事になってすみませんでした。また、お願いします」

やっぱり、賢い子だなと思う。お勉強ももちろんだけど、人の感情というものに機敏だ。
俺と丞の過去のすれ違いについて椋くんに話した事は無かったけど、感じ取ってくれている部分はあるのかもしれない。
2人分の宿題を抱えてぺこりとお辞儀をする姿を見送って、俺もまた、自室へと戻ることにした。

 

***

 

椋くんは、そのあと頑張って、幸ちゃんの説得に尽力してくれていたみたいだったけど、カチコチに固まった彼の心を溶かす事は出来なかったらしく、「敗北」の二文字をおでこに滲ませて、今日は朝早くから、海へ行く準備を進めていた。
空気の入っていない浮き輪類とか水鉄砲、みんなの細かい荷物、それから臣くんが早起きして作ってくれた沢山のお弁当をみんなと手分けして車に積んで、深いため息とともに振り返る。

「朝も、起きて来なかったな・・」

憂う瞳で寮を見上げて、思うのはまだベッドに隠れている友人の事だ。
俺も、出掛ける前にちょっとだけ顔を出してみようかなと思いついて、出発するみんなを見送る。

「いってらっしゃい、気をつけてね」

一番手前の車の運転席に収まった丞に声をかける。
大きなミニバンタイプのレンタカーも借りて、車3台にみんなでわいわい乗り込んで、運転手は、丞と至くんと左京さん。それぞれ助手席に、サブのドライバーも乗せて。当初乗り気じゃなかった面々もなんだかんだで、楽しそうにしていた。東さんはまだ起きてこない。幸ちゃんも、ベッドから出てこないらしいから、お見送りは俺だけだった。
丞は腕だけをさっと上げて俺に返事をして、先頭で車を出す。
残り2台も後に続いて、賑やかな一行は出発していった。

「さて、と。」

先約がある、というのは本当だった。とても大事な約束で、ただ、約束まで少々時間があったので、幸ちゃんの所に顔を出す時間もある。みんなが出払ってしまった寮はとても静かで、空っぽの箱の中にいるようだった。

「幸ちゃん、入るよ」

トントンと二回ノックをして、返事を聞く前に鍵の空いている部屋に、勝手にお邪魔する。
201号室、幸ちゃんと、それから天馬くんの部屋は、天馬くんがきっと朝方に急いで支度をしたのであろう、若干散らかっていて、けれど普段ならそれを叱る立場の幸ちゃんが布団から出てこないため、散らかって、そのままになっていた。
こんもりと盛り上がったタオルケットが、住人の在室を教えてくれてはいる、が、その中にいる人物はこちらの呼びかけにも姿を見せない。

「幸ちゃん、俺、午後からなら暇だから、どこかにお出かけしようか」

ロフトベッドの階段に登って、ベッドを覗き込むと、ぴくりとピンクのタオルケットのおばけが反応して、頭まで隠れた状態で、こちらを見る。

「お出かけ・・?」
「そうだよ、カフェでもいいし、コンビニにお買い物とかでもいいよ」
「紬と、お出かけ・・」

そう言って、タオルケットの隙間から覗いた顔は、真っ赤で、涙でぼろぼろになっていて、俺はその後に続けるべき言葉を失ってしまった。
幸ちゃん、君は・・・

「そんなになるくらいなら、何で一緒に行かなかったの?」
「・・だって、・・・だって!!」

最初は、ぽろぽろと、それまで止まっていたはずの涙がこぼれ落ちて、それが次第に、土砂降りの雨みたいになる。流れても流れても涙が止まる事は無くて、終いには、「わーん」という大きな泣き声が、誰もいない寮に響き渡った。

「お、俺もいきたかった!!・・ほんとは、水着だって持ってる!・・でも、海で、色んな人に変な目で見られるのが嫌だったの!!」

ワンワンと泣く泣き声は完全に子どものそれで、ベッドに乗りあがった俺の胸に顔を埋めて、幼子のように泣いていた。言わんとする事はわかる。幸ちゃんは可愛い。先日、一緒に渋谷に行った時にも実感したけど、自然と周囲の目をひいてしまうのだ。「可愛い」「美人」といった羨望の視線ならまだいいが、それが、本人の予期しない形・・例えば海でよくあるような不埒な輩の下卑た視線だった時、それを浴びるのが耐えられない、ということか。

「水着も!可愛いのが着たいだけなのに・・!また男に媚びてるって思われたら、やだった!」

ーー誰にも媚びてない、着たいものを着ているだけ。

いつの日かに彼が言っていた、そんな言葉が思い出された。
傷口は俺が想像するよりもずっと深くて、自分が、一番好きな可愛い服を着た事で、初めて出来た友達をなくし、クラスメートに身も心も傷つけられた過去を思い出してしまい、今こうやって、水着を着ることすら躊躇ってしまっている。
可愛い水着を着たいのに、誰にも見られたくないという思いもあって、きっと自分が一番、何が正しいのか分からなくなってしまっているのかもしれない。

幼い子猫を優しく抱きしめ、背中を撫でる。
泣き声がひゅぅっと止んで、腕の中が静かになった。

「・・媚びてるなんて、誰も思わないよ。それに、そんな事言う人がいたら、怖いお兄さん達が総出で、君のことを守ってくれる。だってみんな、幸ちゃんの事が大好きだからね」

あの人たちはみんな、強くて優しい仲間だ。
そんな大きな人たちに囲まれて、この子の悲しみが、塞がる日が来るように。
少しずつでも、傷が癒されて、君が健やかに大人になれるように。

「紬は?」
「え?」
「・・いや、いい。なんでもない」

細い腕が背中に回されて、ぎゅうって力を込めて抱きしめられる。欲しい言葉はわかっていたけど、敢えてそれを返さないのは大人の優しい意地悪だ。今はまだ時期ではないし、君はもっと、広い世界を見て、沢山の人を好きにならなければいけない。

早く大人になって、って思う一方で、まだまだ可愛いままでいて欲しいなぁとも思うんだけど。

「水着持ってるって言ってたよね?」
「言ったけど・・何?海は行かないよ」
「いいこと思いついた。俺が帰ってくるまで待っててね」

は?って、幸ちゃんの顔には疑問符が浮かんでいて、まだ納得いかない様子だったけど、素直な彼は俺の言葉にはうんって小さく頷いた。

 

その日は、思いがけない人からのアポイントメントが入っていた。
お盆休みに入って数日、実家でだらけていた俺のスマホに、見慣れない人物からのメッセージの通知が入ってきた。馴染みのない名前は、普段あまり連絡のやりとりを行なっていない人だろう。派手な装飾と加工の自撮りの紹介画像を見てようやく、「あ」と声を上げた。

天鵞絨町から電車に乗って数駅、何度か通った事のある道の、その間にある静かなカフェで待ち合わせをしていた。店内に入ってすぐ目につく、窓際の席に、先日見かけた時よりも一段おとなしい格好をした姉妹が、気まずい顔で座っているのが見えた。先日渋谷で会った、俺の元教え子の、幸ちゃんの元同級生の、あの姉妹だった。

「ほんっとーに!すみませんでした!!」
「すみませんでした・・」

妹の頭を下げて、最初に、お姉さんの方が謝罪の言葉を述べて、妹さんも後に続く。
俺はいきなりの謝罪に呆気に取られてしまい、思わず意味もなく「あ、はい」って頷いてしまった。
間を空ける事なく、妹さんがぽつり、ぽつりと喋り出す。

「あの後、お姉ちゃんに事情を聞かれて、全部話したらめっちゃ怒られて・・あんたそれ、逆恨みって言うんだよ、超ダサいよって・・」
「・・君が、カッター持って追いかけた子?」
「それは別の子です!その子、退学になったって聞いた。・・でも私も、嫌な言葉言ったり教科書隠したりしたから、謝る事は、いっぱいある」

本当に泣きそうな、小声で、妹さんが言葉を探す。俺は割と冷静だったけど、当事者の居ないこの場で、俺に対する懺悔は、まるで告解のようだなって冷めた視点でぼんやりと思った。

「本当は、あの子に直接謝るべきだと思うんだけど、いきなり呼び出して来てくれるとは思えなくて・・月岡先生に仲立ちしてもらう事は出来ないかなって思って、呼び出しました、巻き込んでしまって本当にすみません。」

今にも泣き出しそうな妹さんの代わりに、お姉さんがそう言って、俺はうーんと唸ってしまう。
彼女の言う通り、おそらく呼び出したところで幸ちゃんが素直にやって来るとは思えない。
あの子の傷は彼女達が思っているより深く、痛みを伴うもので、きっとこの妹さんに謝罪された所で、他にも幸ちゃんに危害を加えた人物が多くいるわけだから、何の解決にもならない。
でも、何もしないよりはいいのかな、とも思う。

「・・あの子は、今同じ劇団に所属していて、俺にとっては家族みたいなものだから、こうして、傷つけられた過去があった事に、俺は結構怒ってるし、俺みたいに本気で怒ってくれる人があの子の周りに今は沢山いる。」

静かな物言いに、妹さんの肩がびくりと跳ねた。
お姉さんの方も、事の重大さを分かっているから、静かに状況を見守ってくれている。

「もう関わりがないってわかってるけど、二度と、こんな事はしないでほしい」
「・・はい、」
「謝罪の件も、本人に言ってみるけど、了承するかは分からないかな」

はい、ってまた小さく妹さんが頷いたのを確認して、俺は出された水だけを飲んで席を立つ。

「あの、あの子が良いって言ったらいつでも呼んでください。都合つけて会いに行かせるので」

去り際の俺の背中に、お姉さんがそう言ったから笑みを交えてうんと頷いて、店を後にする。
雰囲気のいいカフェだった。お洒落な雰囲気なのに、店内中にコーヒーのいい香りが漂っていて。こんな事が無ければ、本を持って長居したいくらいだったんだけど。
外に出ると、正午前、既にかんかん照りの太陽が痛くて、みんな、海、楽しんでるだろうなって少しだけ羨ましくなったりするけど、涙で真っ赤になったあの子を放っておいて海に行けるほど、俺も冷たい男では無い。
まずは天鵞絨町に戻って、近所のホームセンターに寄って、欲しかった堆肥のついでにあれも買って、ビールも買っちゃおっかな。買いたい物リストを頭の中に浮かべて、電車に乗り込む。
早く帰ろう。今日は暑いから、帰って、可愛い子猫と水遊びでもしよう。

 

***

 

「ぜ、絶対やだ!!!」

太陽が眩しい、寮の中庭。俺が丹精込めて世話をしている花壇にはミニヒマワリとマリーゴールドが燦々と咲き誇っていて、黄色とオレンジのコントラストが目に鮮やかだった。
その、中庭の空いているスペースに直径3メートルくらいの、大きなスカイブルーのビニールプールを広げる。ホームセンターで見つけた一番大きなサイズだった。確かうちの実家か丞の家に同じサイズ感のプールがあったんだけど、ホームセンターで買うと意外と安くて驚いた。倉庫の中から電動の空気入れを引っ張り出してきて、機械音を聞きながら空気を入れていく。その頃になるとようやく、幸ちゃんも気付いて部屋から出てきたらしく、物凄い怪訝な顔で中庭を見下ろしていた。

「なんで?水着あるんでしょ?せっかくだから着て見せてよ」
「やだ!ぜっったいやだ!」

水やり用のホースで水を溜めながらそう言う俺に、全力の拒絶。
そんなに言うなら仕方ない。こういうのはキャラじゃ無いんだけどなぁと、ホースを持ったまま、二階にいる彼を見上げる。

「俺しかいないから大丈夫。可愛い水着、見せて」

にっこりと笑って。
そうしたら幸ちゃんは、涙で赤くなった目元だけじゃなくて、顔全体を真っ赤に染めて、二階の手すりを握りしめてわなわなと震えていた。

「紬はずるい!」
「知ってる」
「〜〜!!5分待って!」
「いいよ、俺も着替えてくる。」

 

きっかり5分後、控えめな様子で現れた幸ちゃんは、それはもう可愛らしい水着を着ていた。
予想通りの、フリフリで、ピンク色で、チェック柄で、ファンシーな水着。それに、大ぶりな麦わら帽子も被っている。まあ男の子だから当然なんだけど、やっぱり細いな、ちゃんと食べてるのかなって、自分の事は差し置いて心配になる。
中庭のベンチに座って、露出した足だけをプールの水に浸しながら幸ちゃんの合流を待っていた俺の姿を見て、じろりと可愛い顔でこっちを睨む。

「・・水着じゃない」
「水着に着替えるとは言ってないけど」
「俺ばっかりこんな格好で馬鹿みたいじゃん。」
「そんな事言わないで、すっごい可愛いから。」

どうやら、ハーフパンツにパーカー姿の俺が気に入らないらしい。
頬を膨らませても可愛いって感想しか出てこないから、苦笑しておいでって細い手を引いて水の中に引き入れる。ぱしゃりと小さく水飛沫がはねて、俺の膝を濡らした。

「つ、冷たっ!」
「あはは、でも気持ちいいでしょ?」

うーんと唸りながらも、手を水に浸して、膝を浸して、少しずつ冷たさに慣らしていく。
ビニールプールは意外と広くて、大人2、3人くらいだったら、露天風呂みたいな感覚で浸かれるくらいだった。隅っこの方で冷やしていたビニール袋の中からビールを取り出した俺を見つけて、幸ちゃんはあっと声を上げる。

「昼間っからお酒飲んでる」
「大人の特権だよ」

しゅぽ、と音を慣らして缶を開けて、一口口に含むと、いい感じに冷えたビールが喉に流れていく。
大人ってずるい、って小さく呟いて、ベンチに座ったままの俺を置き去りにして、幸ちゃんは小さなプールをパシャパシャ飛沫を上げて進む。中庭の大樹の、丁度日陰になっている所を抜けて日向に出ると、暖かいのか、気持ちよさそうに大きく伸びた。
眩しい、とっても。背骨の浮いた真っ白な背中も、パステルピンクの水着のラインも、全部。

「気持ちいいね。・・夏って、楽しいんだね、」

麦わら帽子を手で押さえて、夏組のお姫様は、俺を振り返る。

「ありがとう、紬」

幸ちゃんの笑顔は眩しくて、そしてやっぱり、美しい。
早く大人になって。そうしたらって、夏に浮かされた俺は、こっそり思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

日も暮れてきた時間帯、玄関の方から車のエンジン音が聞こえて、ほぼ同時に、賑やかな声が寮の中に響き渡る。俺の隣でベンチに座って、ふやけた足をプールに浸して居眠りしていた幸ちゃんも、その声に気づいてぱっと目を覚ましたらしくて、真っ青な顔で水から足を上げる。

「やばい!帰ってきちゃった!」

「あーーー幸チャン!ずるい!何してるんすか?!」

幸ちゃんが逃げるよりも、一行が俺たちを見つける方が早くて、先頭の太一くんとカズくんが、中庭のプールを見るなり、裸足のまま飛び出してくる。

「なになに〜?ゆっきーとつむつむ、2人だけで楽しそうな事してんじゃん」
「違う!ってか、入ってくんな!」
「おれたちもまーぜーてー!」
「狭い!引っ張るな!」
「幸くん、良かったね!」
「良くない!椋も引っ張るな!」

一人、二人と増えていく団員に、水から出ようとしていた幸ちゃんも手を引かれて引き戻される。
海から帰ってきたというのに、まだみんな元気で、というか水着じゃないのに濡れても良いのかなって思うけど、楽しそうだからまあいいのだろう。
誰かが持ってきた水鉄砲まで加わって、中庭はちょっとした騒ぎになってる。

「賑やかになったと思ったら、みんな帰ってきたんだね」

ベンチで苦笑しながら見守る俺に、夕方なのに腕も顔周りも完全防備で日傘までさしてる東さんが声をかけてきて、にこやかにみんなの事を見守っていた。

「東さん・・ずっと寮にいたんですね・・」
「うん。紬と幸の楽しそうな声はずっと聞こえてたよ」

だったら出てきても良かったのに、気配を感じなかった・・
まあ多分誘っても、日中は絶対に出てこなかっただろうなって思うけど。

「飲みます?温くなってるかもしれないけど」
「頂くよ」

しゅぽ、と余っていた2缶のビールを開けて、一本は東さんに手渡して、一本は自分で飲む。
東さんは水がかからないようにベンチの端っこに座ると、はしゃぐ子たちを微笑ましげに眺めて、俺だけに聞こえる声でそっと呟く。

「居心地のいい自分の庭に囲っているだけじゃ、幸の為にならないと思うけど。その辺、月岡先生はどうするつもりなのかな」

俺を責めるわけではないのだろう、それは、やけにあっさりした言い方だった。
けど、幸ちゃんの過去も、俺の想いすらも、全てを知っているかのような物言いに少しだけびっくりして、でもまあ東さんだしなぁと納得する事にする。

「いいんです、今は小さな庭で慣らす段階。・・それで慣れて、次のステップに進みます」

目をやると、団員のみんなに囲まれて楽しそうな幸ちゃんの姿。
きっと、水着の事も、周りの目の事もすっかり忘れていて、水をかけられて笑っている。

「つむぎー!あずねぇー!」

話し込む俺たちに気づいたのか、幸ちゃんはびしょびしょの姿でこちらにやって来て、濡れた手で俺の手を取る。座った俺を見下ろした鼻が、日に焼けたのか少しだけ赤くなっていて、頬は、夕焼けのオレンジ色に染まっていた。
俺が繋いだままの手を引くと、君の髪が頬を掠めて、その、小さな耳にこっそりと耳打ちをする。

「・・今度は2人で、プールに行こうね」
「えっ?」

ーーー夏が終わる前に。

 

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