冬の夜明け前のMANKAI寮は思いの外賑やかだ。時計を見るとまだ6時前だっていうのにランニングへ出かけるであろう団員の「いってきまーす」の声が響いて、食堂からは臣さんの答える声が続く。中庭からはじゃあじゃあと植物に水をあげる音が聴こえてきて、あぁそろそろ春が来るなぁなんて思ったりして。ここへ来てからの何度目かの春はもう慣れたもので、いつも通り、いつもと変わらない朝を今日も迎える。今日は大学が休みで、朝から、デパートに新作のコスメを探しに行く予定を入れていた。意識が覚醒してパチリ、と目を開くと、ちょうど朝日が昇っているところで眩しい光が差し込む。寒さで身体が震えたのはきっと季節柄だけのものではなくて、そういえば…と隣にあるはずだった温もりが無くなっている事に気がついて、重たい体を起こす。
「………あれ?」
いなくなることはない、だって、この腕の中に抱いて眠っていたはず。
働かない頭で、そう、ぼんやりと昨夜の事を思い出して顔が赤くなるのを感じた。いつも通り、いつもと変わらない朝、に、なりつつある。あの人の隣で目を覚ますのが。もう何度一緒に寝たかはわからないくらいには関係を重ねていたけどそれに慣れることは未だに無くて、あの人がベッドの中で高い声で俺の名前を呼ぶたびに、まるで初めて恋をしたガキみたいに、鼓動が早くなる。
キスしたくらいで子どもが出来るわけないじゃん、ってキスの仕方を教えてくれたのもあの人で、男同士じゃ結婚も出来ないから責任なんて取らなくていーよって言って俺を押し倒したのもあの人。
女みたいに細い体で、女よりも手入れの行き届いた綺麗な顔をして。傷ひとつない指先で俺の頬を撫でて、それから、誰も聞いたことの無い様な色を含んだ声で、俺の名前を呼ぶ。「あざみ、」って。
「…幸さん、」
目的の人物は、空の隣のベッドで見つけた。小さく体育すわりをして、ぼんやりと窓の外を眺めていて。何も物も置かれていないまっさらなロフトで、1人、朝焼けを見上げている。
リップも差してないのにキスの余韻で赤みの残る唇には、一本の細いタバコ。
「幸さん!」
咎めるような口調で少しきつめに名前を呼ぶと、幸さんは「ゲッ」って気まずそうな顔をして咥えていたタバコに歯を立てる。ふよふよと、冬の朝の寒い空気に立ち上る紫煙はベッドサイドの小窓の方に吸い込まれていって、部屋の中には残っていなかったけれど、唇に挟まれたそれは俺が起きる前から吸われていたようでだいぶ短くなっていた。
「俺、吸うなって言ったよな」
「……細いやつだもん。匂いも残んないって。」
「そういう問題じゃねーし。」
1mg、メンソール、…キラキラのビジューの埋め込まれた、女受けの良さそうな洒落たパッケージの箱を翳して、ほっぺ膨らませて悪気もなさそうに言う幸さんは、正直言って可愛い。けど。
幸さんはハタチを過ぎた頃から喫煙するようになった。しかも俺に隠れて。万里さんとか一成さんとか綴さんとか、あの辺のクリエイター系の人たちが吸ってんのも見たことあるし、そういう息抜きが無いとしんどい職種ってのも理解してる。幸さんがタバコを吸うのは、必ず、衣装作りの作業や構想が、行き詰まってる時だってのも、分かってる。俺の前では吸わない。俺がヤダって言うから。
成人済みのいい大人なんだから、子供の俺に口を出す権利なんてない事も分かってるけど。
身を乗り出して、ズカズカと反対側のロフトに乗り込んで、幸さんの唇に咥えられたほっそいタバコを奪い取る。それを指先で摘んで消して、ジロリと睨み付けると、飴色の一対の瞳が俺を睨み返して腕を掴む。
「あっ……ぶないなー、火傷するよ、指。」
ジェラピケのモコモコの袖から伸びた細くて白い指先が、俺の指先からタバコを奪い返して、形だけは可愛い猫型の携帯灰皿にポイと放る。その慣れた動作が悔しくて、虚しくて、俺は、そっぽを向いてしまった細い肩を抱き寄せて腕の中に閉じ込める。
「……あんたの肌、声、そういう綺麗なもん全部、もっと大事にしてくれ」
「っは……ガキ。」
ガキで結構。俺には一年分のあんたとの差があって、それ故に、その一年の差を猶予にして、言い訳にして、俺はあんたに甘えてる。匂いは付かないって言ってたけど、抱きしめてようやく香るくらいの薄いメンソールの残り香が鼻について、やっぱりこいつは好きになれないなって思う。俺はガキだから、昨夜この人を抱いた時に漂っていたボディクリームのミルクの匂いの方がよっぽど、幸さんらしくて落ち着くし、身体に馴染んでいた。
「莇、」
ボディクリームもシャンプーも、化粧品だって全部、2人で一緒に買いに行って俺が選んであげたやつ。幸さんの肌を、身体を構成するのは俺で、だから俺の知らない匂いが漂ってくるのは我慢ができなかった。くん、と鼻を鳴らして髪の毛の香りをかいでいると、目下のその人は伺いを立てるように、腕の中から俺の顔を覗き込んでくる。
「怒んないで。一緒に買い出し行くって約束したのに、喧嘩したまま行くのは嫌だ。」
透き通るような白い肌は、化粧なんてしなくても充分綺麗なんだけど、今日は新しく買った白いニットが着たいって言ってたから、もうヘアメイクも決めてある。一足早い春メイク。淡いサーモンピンクのチークに、桜色のリップをのせて。付き合い始めてから少し伸びた髪の毛は、両側から編み込みを作ってまとめる予定だった。幸さんは素材がいいから何をしても可愛いし、雑誌などで仕入れたメイクやヘアアレンジを実践させてもらう、恰好の人形みたいなもんだった。俺だって、喧嘩を引きずって出掛けるのは嫌だ、けど。あんたがそうやって、なあなあにしようとするから。
ほら、こうやって。
頬に手を添えられて近づいてきた顔が、口元に笑みを浮かべて俺に口付ける。
ちゅ、とリップ音を立てて、一瞬だけ触れて離れて行ってしまった。触れただけの唇から、メンソールが香る。俺の嫌いなタバコの匂い。確信犯なんだ、この人は。
「莇、許して?」
「ぜってーやだ」
「何したら許してくれんの?」
俺の肩に腕を回して、首を傾げてかわいこぶって。
ほかのやつらには絶対そんなことしねーくせに。しててもムカつくけど。
幸さんは何をしたら自分が一番良く見えるかを知ってるし、俺がどんな風にされたら弱いのかも全部ばれてる。だからこういう時は、絆されるしかなくて。
布団も無い硬い床に細い身体を押し倒して、乾いた髪をかき分けて少しだけ強引にキスをすると、俺の行動なんてわかりきってましたとでも言わんばかりに、溶けたような瞳がうっとりと甘く細められる。赤い唇に舌を這わせると、受け入れるように薄く唇が開いた。
「幸さんタバコやめて」
「莇の前では吸わないようにする」
「………」
そういうんじゃなくて。俺はあんたのことを心配して言ってんの。
言いかけて押し留めて、口内で舌をからめ合わせる。嫌だ。嫌だ嫌だ。幸さんから俺の知らない匂いがするのも、この絹みたいな肌がボロボロになってしまうのも、俺を呼ぶ高くて優しい声が擦れてしまうのも。全部が嫌だ。子どもじみたワガママは、言葉の代わりに行動となって、いつもより少し乱暴にこの人を組み敷く。
「……もっかいするの?買い出しは?」
口ではそんなことを言ってるけど、幸さんは本気で嫌な時は全力で拒否るから、今日のこれは大丈夫なやつだ。引き寄せるようにして、覆いかぶさる俺の首に両腕を絡める。
「…昼からにする」
「オッケー、いいよ。……その代わり、昼ごはん作ってね」
「はーぁ?」
「莇の作ったフレンチトーストが食べたい」
「…っざけんなよ」
クスクスと、愉快そうに。からかっているのかいないのか。多分前者なんだろうけど。色々誤魔化された俺は形成逆転されて、腹の上に幸さんに乗っかられる形になる。細くて軽い身体は、乗られても全然重みなんてなくてくすぐったいだけなんだけど。
部屋の外からは魚を焼いたみたいな旨そうな匂いが漂ってきて、それを嗅いで俺は大きくため息を吐く。
「俺は臣さんが作った美味い朝メシが食べたかった」
「…………俺よりも?臣の朝ごはん?」
「…アンタ本当にサイアクだな」
羽織っているだけのもこもこのパジャマの前をはだけさせて白い素肌を覗かせて、幸さんは誘うみたいな目つきで、俺を見下ろしてニンマリと笑っていた。

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