机の上には作りかけの衣装の山と、隅に置かれたA4サイズくらいの箱。色とりどりの布がコラージュされた可愛い箱は、年甲斐もないが俺の宝物が詰まった宝箱だった。
思い出は、これに詰めて持っていく。四年半もの長い時間を、こんな、お菓子の箱みたいな小さい箱に詰め込みきれるとは思えないけど。
窓からの風が吹き込んで、心地のよい春のとある日。
外からは元気な、劇団員たちのレッスンの声が聞こえてくる。夏組の、定期公演の稽古がはじまっていた。七月末の公演の頃にはもう日本にいないから、俺は不参加だったんだけど、最後のワガママで、夏の公演衣装は作らせてもらえる事になっていた。
夏組の方には既に新メンバーを迎えていて、旗揚げの4人に加えて追加メンバーやアンサンブルキャストの助力もあって、今回も中々に盛大な規模の舞台になるって綴が意気込んでいた。舞台を降りて見る仲間たちの芝居は新鮮で、新たに得るものも沢山ある。
衣装係の方は中々後任が見つからず、しばらくは外注に頼むと言っていた。そうなればいいと願ってはいたものの──俺がデザインをして、外部の業者に縫製を依頼出来れば、多少なりとも劇団と繋がっていられるんじゃないかと思っていたんだけど──、結局はどれほど多忙になるか読めない今後の生活もあって、そんな無責任な事は出来ないという事で、その提案は誰にも言えずにいる。
準備は着々と進んでいた。
俺は2ヶ月後、ここを巣立って行く。
***
窓の外では雨が降っていた。朝の情報番組でお天気キャスターが梅雨入りを告げていて、今年は雨が多くなるでしょうって。水滴の滴るピンクと水色のビニール傘が窓際に並んでいて、着替えの入った小さなボストンバッグとリュックは棚にあげていた。一度新宿に出て、そこから特急で1時間半。新幹線みたいなふかふかな座席に肩を並べて座って、リクライニングを少しだけ倒した。
遅くなったが卒業旅行だと、彼は言った。自由登校期間には体調を崩してしまい、企画倒れに終わったし、春休みは、彼は夏からの新生活の準備で渡米していたからそんな暇なんて無くて、延ばし延ばしで結局、梅雨入りしてしまった。今では夏組の公演に向けての稽古が始まってしまっていたから遠出する事は叶わず、行き先は近場の温泉、一泊二日のささやかな旅行になるはずだった。
ボーイッシュなTシャツとパンツに、黒いキャップを被った姿からは、フリフリの可愛いスカートを穿いていた面影はもう無い。中性的で幼い外見は相変わらずだったけど、幸くんは、高校を卒業すると同時に、可愛い格好をやめてしまった。心境の変化と本人は言っていたけど、多分ずっと考えていたんだと思う。自分の「可愛い」のリミットってものを。
「髪の毛、切りに行こうかな……」
独り言みたいに車窓を眺めて呟いて、振り返った窓が吐息で白く曇る。
帽子からはみ出した、長く伸びた襟足はピンク色のゴムで括っていた。
「伸ばしてたんじゃ無いの?」
「ううん、タイミングが無かっただけ。忙しくて」
美容院で毎月手入れしているらしいショートボブの長さが変わったのは、卒業式が終わってから、徐々に、で、今では肩口に付くくらいの長さになっていた。
「長いの、可愛い、よ?」
「……そういうの、もうやめたから」
可愛い格好は、もうやめた。
言い方はきついけど棘は無くて、清々しい横顔から、決心は意外と固いのだと察する事にした。
どんな格好をしていても幸くんは幸くんだ。いつだって可愛いし格好いい。本人がこの格好をしたいと思ったのなら、それでいい。実際、どんな服も着こなしちゃうしね。
シートに背中を埋めて肘掛に手を置くと、ふいに左手を、ぎゅっと握られた。
驚いて隣の少し低い位置にある顔を覗き込むと、少々気まずそうな顔色で、ぽつりと呟く。
「ごめん。今だけ、いい?」
「え?」
「向こう着いたら我慢するから、……今だけ」
今だけも何も、僕は気にしないんだけど。
それでも、僕以上に周りの目を気にする幸くんに合わせて、外ではこういう事はしないようにはしていた。幸くんが男の子らしい格好をするようになってからは特に、だ。
握られた手を膝と膝の間に隠すようにして、幸くんはゆったりと瞼を閉じる。
「昨日、楽しみで眠れなかった。……着いたら起こして」
クールでドライな性格でも案外可愛いところがあるって事は、この4年で随分と思い知らされていたけれど、たまにこういう変化球を投げてくるから油断できない。肩にもたれかかった頭からはふんわりといい匂いがして、余計にくすぐったい気分になってしまったけど、内緒。
2人きりでの旅行は、4年間一緒にいて、はじめての経験だった。
付き合って半年が経つのに未だにキス以上の進展は無くて、早々にご本人から許しを得ていたけど、それを「大事にしたいから」とのらりくらりとかわしてきたのは僕の方だった。そんな僕に、幸くんが色々と、わかりやすいモーションを掛けてきた事にも気づかないフリをして気づいている。
『椋、部屋が散らかってるからここで寝てもいい?』
『どうぞ、うちも散らかってるけど』
『一緒のベッドで寝てもいい?』
『いいよ。おやすみ、幸くん。いい夢を』
流石に、ここまでされたら気づかないわけないじゃないか。
僕たちは仮にも恋人同士で、幸くんの好意は意外とわかりやすいって気づいたのは早い段階での事だったから。でも直接的な言葉で誘われた事がなかったから、それをいい事に一度も手を出した事はない。本当に君が大切で、君との関係だけは大事にしたかった。
でもそんなの言い訳だった。だって僕は根っからの臆病者で、それは、何度も舞台を経験しているからと言って改善されるようなものではない。
ずっと一緒にいる幸くんの事、そういう目で見た事がない、わけではないのも事実だけど。
色々複雑な想いを抱え込んだまま、それでも別れの時は刻一刻と近づいていて。
旅立つ日が近づくにつれて段々と吹っ切れた様子になっていく幸くんとは対照的に、僕は、別れの日が来なければいいのになって思うようにさえなっていた。
そんな中での、旅行のお誘い。卒業旅行だと言われたら、断る理由なんて無くて。二つ返事で了承した僕に、彼は珍しくご機嫌な様子でスマホを取り出して旅のプランを練ってくれた。
泊まりがけ、ちょっといい旅館、大浴場には露天風呂も付いていて、ご飯も美味しそう。
『ねえ、近くに大きなプールもある、行きたい!』
そういえば、こんなに楽しそうな顔を見るのは久しぶりだった。
新宿駅のホームで買った、赤と黄色の紅茶が、電車の振動に合わせて揺れる。
肩にズンとかかる重みが、温もりが、こんなにも愛しい。
***
「俺はね、学校のプールが死ぬほど嫌いだった」
水着で入る温泉、がコンセプトの施設らしい。繁忙期には混み合って芋洗い状態らしいけど、6月の平日には客足もまばらで、経営が心配になるくらいにはがらんとしていた。ほとんど貸切状態の子供用のプールみたいな温泉に首まで沈んで、幸くんはぽつりと呟く。
可愛いのはもうやめた、の宣言通りに、割とシンプルめな白地に花柄の男物のサーフパンツを穿いていた。日に焼けていない上半身は真っ白で、細い。鍛えても筋肉が付かないし、食べても太りにくいのだと、以前言っていたことを思い出す。毎年夏にはみんなで海やらプールやらに行っていたけど、そういえば男物の水着を着ているのを見るのは初めてだった。
「男子は教室で着替えなきゃなんないし、水着はぴったりしててダサいし、みんな、変な目で見てくるし……本当に嫌だった。高校は選択科目だったから、助かったけど」
デリケートな問題だった。実際、彼と知り合ってから、学校の授業でプールに入っている姿を目撃した事は無い。
「でもみんなで行った海も、可愛いからってピンクの水着着てたけど、怖かったんだよね、正直。みんなが居てくれたから何もなかったけど、変な男にナンパされたりして、女って大変だなって」
「……それ多分、可愛い子限定だと思うけど…………」
「最初からこーゆう水着にすればよかったのかな。すごい楽だね。今度は女の子からの視線が痛いけど」
たしかに彼の言う通り、さっきからチラチラとこちらを伺う、お姉さんの団体さんや、2人組の女の子たちからの視線を感じる。多分他の男客がいないからだと思うけど、その視線の意図するところの意味を知らないほど子どもではなかった。それでも、男のそれよりはよっぽどマシで、手を振られたら笑顔で手を振り返すくらいにはこちらも余裕を持って対応できる。
「……あーゆう胸がおっきい子がいいの?」
「またそういうこと言う……」
ジトリとした視線で僕を睨んで、面白くなさそうな様子で、湯から上がってった。
「前に一回、海で万里に聞かれた事がある。『お前、あーゆう胸のデカい綺麗なお姉さん、どう思う?』って。俺は、ほんと、何も思わなくて。『水着が派手』って返したんだけど」
白いサーフパンツから水が滴り落ちる。ん、とこちらに手を差し伸べる姿はプールサイドのイケメンさんのそれで、僕が思わず手を取ったら、お湯の中から引っ張り出される。
「本当になんとも思えなかった。一般的に魅力的な女の人を見てもなんとも思わない俺、おかしいのかなって思って。……でも、女の人、興味ないし、男の人、怖いし」
湯から上がったら、繋いでいた手をパッと離して、隣に立つ僕をじっと見上げる。
「椋は?綺麗な女の人、どう思うの?」
なんでそういう、答えのわかってる質問をするの?
でも、そんなことを言わせているのは、いつまでもグズグズと煮え切らない態度をとっている僕のせいだって知ってるから、僕は幸くんが1番望んでいる答えを探す。
綺麗なお姉さんを綺麗だと、可愛い女の子を可愛いと言える感性は持っている筈だ、けど、恋を知るべき1番多感な時期に1番近くにいたのが、どんな女性よりも綺麗で、どんな女の子よりも可愛い、男の子だった。そんな子に恋に落ちてしまったら、他の人なんて目に入るわけがない。
「綺麗なお姉さんを見たら、綺麗だなって思うけど……特別は幸くんだけだよ」
これで、伝わる?
ちらりと伺った表情は、半分正解で、半分は納得していない、と言ったところ。
なんとも言えない微妙な表情で、幸くんがこちらを見上げている。
「俺もそう、男も女も関係無くて、椋だけが特別。」
「……そっか」
「でも、」
一つに括られた長い襟足から、水滴が滴る。前髪も、少しだけ濡れていた。
僕は、高鳴った胸の音を奥の方にしまい込んで、やんわりと曖昧な笑みを浮かべる。
「でも?」
「特別なら、特別扱いしてほしい」
髪を濡らし、頬を染めてこちらを見上げる顔に、クラリと体が熱くなるのを感じる。
「大事にしたい」なんてものは言い訳で、王子様に憧れて、舞台の上では煌びやかな王子様を演じていても、僕は到底、あんな風に綺麗な存在には程遠い。
最後の一線は、耐えて、耐えて、我慢を重ねてきたのだ。
***
幸くんが探してくれた旅館は、ホームページで見たままの、ちょっと古風で小綺麗な、雰囲気のいい旅館だった。玄関先でぼんやりとした提灯みたいな赤い光がぼうっと光っていて、訪れる客を招いている。中へ入るとホテルみたいなフロントがあって、受付のお姉さんと仲居さんが出迎えてくれた。
「2名さまでご予約の、瑠璃川様でございますね、お疲れ様でございました」
外観はだいぶ古風だったけれど、中は割とモダンで、沢山の客室があるようだった。カーペット敷きのふかふかな床を仲居さんの後に続いて歩いて、五階の一室に通される。
「大浴場は地下一階になります、夕食はこの後18時よりお部屋にご用意させていただきます。フロントには内線8番で繋がりますので、何かございましたらお申し付けくださいませ」
お母さんくらいの世代の仲居さんの背中を見送って、向かい合わせの座椅子に腰を下ろして一息ついた。音の無い静かな空間に、「ふぅ」という声が重なって、思わず顔を見合わせて吹き出す。
「ちょっと、」
「変なところで息が合うよね……」
窓の外はもう日が沈んでいて、思ったより温泉に長居しちゃったなって思う。
「特別扱いしてほしい」の言葉の中に含まれる意味を十二分に理解している僕としては、恥じらいを含みながらそんなことを言い出した幸くんの心境を受け止めてあげたいとは思いつつも、その後、気まずくなった距離感は埋められないまま、旅館まで来てしまった。
例えばこれが、単なる仲のいい友人との卒業旅行であったなら。
実際彼は長いこと、僕の親友のような存在だったわけだから、分岐点を恋人ルートに曲がることなく親友の関係のままここへ来ていれば、気まずい思いなんて抱えること無く、将来の夢を追いかけて旅立つ彼を、素直に激励出来たのかもしれない。けれど分岐点に立たされた僕は、隣を歩いていた君の手を引いて、曲がり角を勢いよく曲がった。親友のポジションが居心地良かったのも事実だったけど、一歩先に進むなら、他の誰でも無く君とが良かった。「特別」って言った言葉の意味を反芻して、ずっと隣にいた存在を振り返る。
「あー、ご飯美味しかったね。あんなに豪華だとは思わなかった」
昼間もふやけるくらい温泉に入ったのに、またお風呂行くの?って聞いた僕の腕をぐいぐい引いて、幸くんに連れられるがままに露天風呂までやってきたんだけど、旅館の方も閑散期らしく人の入りは疎らで、大浴場の方もだいぶ空いていた。ここまでで見たお客さんといったら、すれ違いで出て行ったおじいちゃんくらいなもので、おかげで、広いお風呂がここでも貸切状態。
春とはいえ夜はまだ寒くて、シンと暗い夜空の中、満天の星が輝いてる。
都心から近いけど、山の中だから空が綺麗だなあって感心して、ぼんやり、空を眺めていた。
そう言えばこの前読んだ少女漫画で、遠く離れていても、見ている星の煌めきは変わらないってセリフがあったな。卒業して、遠い街へ行ってしまうヒロインに、王子様みたいにかっこいい後輩の男の子が、星を見上げてそんな事を言うんだ。ちょうど今の僕の心境に似ていて、後輩の男の子に酷く感情移入をしてしまって、読み終わったらボロボロと泣いてしまったんだけど。
「…………椋?」
言葉が無くなった僕のことを気遣い、覗き込んでくる。
フリフリの格好をしてお化粧をしている可愛い顔も、今みたいに男の子っぽい服を着てクールに構えた顔も、もちろんどっちも素敵なんだけど、根本的な部分は出会った頃から何も変わることがない。きつい言葉の裏に隠れた優しさも、不器用な弱さも、自分の信念に真っ直ぐ生きてるところも、幸くんを形成する全てが美しい。
「……遠くになんて、行かないで」
「えっ……」
泣き出しそうになった顔を隠すようにして、そばにあった桜色の唇に、そっとキスをする。
ほんとうに触れるだけの優しいバードキスだった、けど。
「……あっ、……ご、ごめん、こんな、外で……」
何をしてるんだ、こんな、公共の場で。人気がないとは言え、つい勢いあまって、というのは些か配慮が足りなかったのではないか。怒られるのを覚悟して幸くんの顔を見やると、真っ赤な顔で唇を噛み締めて、こちらをじろりと睨んでいた。
「……なんでこういうことすんの?」
「ごめん、本当に。こういうの嫌だよね、ほんとにごめん」
「違くて!」
真っ赤な頬が、涙で滲んだ瞳が、僕を睨みつけて揺らぐ。
「行かないでなんて言わないでよ、俺が、どれだけ…………あ、」
ぱしゃりと水音を立てて勢いよく立ち上がった幸くんの身体がぐらりと揺れて、危ない、って差し出した腕で受け止めてやる。抱きとめた身体も、顔も真っ赤で、対照的に白くなった薄い唇から「あつい……クラクラする……」って言葉が漏れ聞こえた。
どうやら逆上せたらしい。
ゆでだこみたいな幸くんをお風呂から引き上げて、とりあえず適当に浴衣を着せて部屋に連れ帰る。旅館が空いていたのと時間帯が幸いして、大浴場から部屋まで誰にも会わなかったので心底ホッとした。腕の中に抱いた華奢な身体がちいさく「ごめん」と呟いて、ぎゅっと目を閉じる。
薄暗い部屋の中には、食事の片付けの際に、旅館の人が一緒にひいてくれた布団が2組、和室の畳の上に並んでいた。布団と布団の間に空いた距離感は、一般的な、友達同士──男2人の旅行客には多分正しい距離感だったんだけど、なんとなくそれに気まずくなって、見て見ないふりをして片方の布団の上に幸くんをゆっくりと下ろす。
「まだ気持ち悪い?お水飲むなら買ってくるよ?」
「……ううん」
居所が悪くて、仕方なく隣の布団に腰を下ろすと、布団と布団の距離感の分だけ離れた場所から、すっと白い手が伸びてきて、行き場を探していた僕の手を掴む。
「さっきの言葉……」
「え?」
「行かないで、って……」
先ほど風呂場で口走った言葉は、しっかりと彼に届いていたようだった。
縋るように伸びた手は、僕を捕まえて、未だ虚ろな視点は、僕を通り越して遠くを見ている。
「そんな事言わないで、俺は、椋が1番大切で・・椋にそんな事言われたら、決意が鈍る……」
腕を引かれ、反動で横たわった身体に覆い被さるような体勢になる。近づいた距離感、目の前には幸くんの整った顔があって、無言のままでその、見慣れた顔が近づく。白い手が僕の頬に添えられてぎゅうっと目を閉じると、唇に優しい温もりが触れた。
「ごめん、本当に、がっついてるみたいだけど。……特別扱い、してほしい」
少しだけ遠のいた唇がそう呟いて、今度は深い口づけ。
熱い舌に身を任せていると、自分で設定した枷なんて無かったみたいに、このままどうにでもなってしまえって思う。肌蹴た浴衣の間からは白い素肌が覗いて、昼間も見ていたはずの見慣れたそれが、今はすごく妖艶に見える。
今更特別扱いだなんて。言われなくても、君はずっと、僕の特別だった。
──椋。
不意に、これまでの全てがフラッシュバックする。
出会った頃のまだあどけない澄ました顔とか、懐かしい藤色のセーラー服、旗揚げ公演のエメラルドグリーンのお姫様みたいな衣装、夏が来ると一緒に舞台の上に上がって、夏休みはずっと一緒だった。高校に上がっても、夏以外の季節も、何度も何度も2人で巡って、君は、僕の。
「ちょっと、椋…………」
「あ…………え?」
「泣かないでよ」って笑った幸くんの目からもポロポロと涙がこぼれていて、細くて長い指が僕の頬をなぞって、止めどなく流れる涙を拭う。
「……できない、よ」
「なんで」
「幸くんが1番大事だから」
「そんなの何度も聞いた、大事なら、俺の願いも叶えて欲しい」
「できない」
涙が止まらなかった。好きだって思いも、止めどなく溢れてくる。
できない、できるわけがなかった。
「俺が男だから?」
「違う」
「俺相手じゃ勃たない?」
「ちがう、そうじゃない」
そんなことはなくて、現に今、こんなにも心は拒んでいるのに、細身な腰を跨いでいる姿勢の身体は、キスだけで反応してしまっている。でも僕には、最後の一歩が踏み出せない理由があった。
臆病者の、情けない理由が。
「だって、忘れられなくなる……こんなに好きだから、……一度でも、幸くんの事知ってしまったら、僕はきっと、……羽交い締めにしてでも、行かないでって……」
だから、セックスなんて、できない。
怖かったんだ、君が1番大事だったから。友達のまんまだったら、こんな事考えなくて済んだのかなって、好きだって言ったことに後悔はしなかったけど、そんな風に考えてしまうことは多々あった。だからずっとなあなあにして、友達以上恋人未満みたいな曖昧な関係のままでいれば、なんの後腐れも無く、旅立つ君を見送れるんじゃないかって思っていた。
「よわむし」
だからそんな風に言われても仕方ないって、開き直って……
急に視界が変わって、身体の下いたはずの幸くんが身を起こして僕の膝の中に収まるみたいな体勢になる。肩に手を掛けられて、目線の高さが合う。懐かしい高さだ、出会った頃は、同じ高さで同じものを見ていたっけ。目の前の公演に無我夢中で、他のものなんて目に入らなかった。それがいつからか、僕たちはそれぞれ、目指すものが違うのだと気がついてしまった。
あの頃よりも少しだけ大人びた顔が、ジロリと僕を睨みつける。
「弱虫むく。俺はずっと、椋の事尊敬してたから、一度も馬鹿にした事なんてなかったけど、今回ばかりは言わせてもらう。バッカじゃないの?」
そういえば、僕に対してこんなに辛辣なことを言う幸くんは初めてかもしれない。
驚きで、ぼろぼろと流れていた涙が止まって、ようやく、幸くんと目があった。睨むような瞳にはうっとりと甘さが加わって、潤んだ瞳の真ん中に、泣きはらした顔の、情けない弱虫が写ってた。
「忘れられなくなる、なんて言わないで。俺はずっと、離れても、椋の事大好きだよ。だから…………忘れないでよ、俺のこと」
カシャン、と最後の枷が小さな音を立てて、壊れたような気がした。
肩にかかっていただけの浴衣が、音もなくはらりと布団の上に落ちて、それが合図みたいにゆっくりと布団に押し倒される。今度は目は閉じない、絶対、忘れないように。
「俺のこと忘れられなくさせてあげる。心臓も脳もおれで溢れるくらいいっぱいにして置いていくから、他の男も女も見ないで、俺を上書きしないで」
情事と呼ぶには程遠いくらいの、甘さなんてカケラもない、必死な行為の最中で、うわごとみたいに幸くんがそう言ったのが印象的だった。
こんなの一生、忘れられるわけがない。
特別は幸くんだけ。
***
卒業旅行2日目、訪れたのはガラスの美術館。
ここだけは俺がどーーしても行きたかったから、寝起きからギシギシと痛む腰を抱えながらも、強行でやってきたのだった。ガラスのモニュメントが綺麗だって劇団の仲間から聞いて、ずっと見てみたいって思っていた。
「綺麗だね、ゆき、みたい」
名前を呼ばれた気がして振り返ると、椋が、きらきらひかる大きな球体の前で足を止めていた。
スノードームだ、それもすごく大きい。まんまるなガラスの球体の中に真っ白な木が二本、それから、白い雪が降り注いでいた。降り注ぐ雪は止まることはなく、どういう仕掛けなんだろうって不思議そうにガラスを覗き込む椋の横顔を、ちらりと見やる。
一線を、こえてしまった。
それも、長いこと親友みたいに育ってきた、大事な存在の椋と。
初めてだったから、入念に下調べと準備はしてきたつもりだった。例えば俺が物理的に傷ついてしまったり、しんどくて朝起きれないだとか言い出したら、絶対に椋は自分自身を追いつめてしまいそうだから、そういった負担はかけさせたくなかった。
けど、実際には事前にネットで調べた情報なんて全く役に立たなくて、うまくやれたかと聞かれたら否だ。そんなもんは承知の上だったけど、そもそもそこは男同士で繋がる場所なんかじゃないし、痛いもんは痛い、気持ちよくなんてない、でも、椋が自分を追い詰めるような事は全くなくて、ただ俺を気遣ってくれるような態度だけがくすぐったい。痛いけど、初体験なんてそれくらいでちょうどいいのかもしれない、とも思う。だって絶対に、忘れたくなかったから。
朝、旅館を出てから繋いだままの手をぎゅっと力を込めて握ると、同じくらいの力で握り返してくれる。ずっと、こういうのも、本当はダメなんじゃないかって控えてきた。男同士で手なんか繋いでって、俺は慣れてるからいいけど、椋まで変な目で見られるのは耐えられそうになかったから。
別に心境の変化があったわけじゃないけど、朝が早いからか、観光地だからなのか、変な目で見てくるような輩はいなくて、それ以上に一度握ると離すタイミングが無くて、ずっとこのまま。
「ゆきくんみたいだね」
「……えっ」
ぼんやりとしていたら椋が振り返って、なんの脈絡もなしにそんな事を言う。
「まっさらで、儚くて、すごくきれい」
──やめてくれ、俺はそんなに、綺麗なものなんかじゃない。
椋の1番になりたくて必死で、そのためだったら手段なんか選んでられなくて、そうやって散々、その椋の綺麗な心と身体を病気みたいに蝕んで、結局は彼の元を離れていこうとしている。
椋の1番は俺であってほしいのに、俺の大切なものはたくさんあって、順番なんてつけられそうになかった。すごくずるい、大人になってしまったと思う。
***
さらさらと降り続ける砂の雪を眺めていた。
部屋の外は真夏に向かって暑い日々が続いていたけど、クーラーのよく効いた室内で冷たい机に頬杖ついて見つめるそれは、夏に降る雪。
俺の宝箱に、また宝物が増えた。
そっと蓋をあけると、1番上には往復分の電車の切符と、美術館のチケット、それから、いつもは卓上に飾ってある手のひらサイズの小さなスノードームを入れる場所も開けてある。スノードームは美術館の帰りがけに立ち寄ったミュージアムショップで、ふと見つけて買ったものだった。金色と銀色の台座のものが2つセットで、旅行から幾日か経った今でも、片方を、椋にあげるタイミングを逃していた。
あの夜以来、椋の態度は不自然なくらいに何も変わっていない。
俺のことを見つめる瞳の色も、隣に立つ体温も、それから、俺のことを呼ぶ声も。
椋が大学に行っている間以外は、寮ではずっと一緒にいる、けど、一緒の布団で寝ることは無くなった。多分、意図的に俺も椋も避けてるんだと思う。無防備な姿で隣にいたら、多分また、求めてしまう。でも寮は、劇団は、俺たちにとって特別な場所で、そんな実家以上に大事なスペースでセックスするなんて罪悪感しか残らないんだろうなってずっと思ってるから。
なんて事のない、穏やかな時間を隣に並んで過ごして、ほんとうに絶妙なタイミングで啄ばむようなキスをかわす。誰にも見つからないように。今はもう、それで充分だった。我ながらゲンキンなものだって思うけど。
「幸くん、起きてる?そろそろ劇場に移動して準備始めよう」
コンコンと部屋の扉の音がして、扉の向こう側から椋の声が聞こえる。
劇場。何度も通ったその場所に上がる、最後の機会。今年の夏組の公演にもゲネプロにも間に合わないで遠くに行ってしまう俺を気遣って、みんなが用意してくれたのが、今日の、夏組のファンミーティングだった。俺が作った衣装を着て、新作の通し稽古を舞台上で行なって、それで、最後に挨拶をさせてもらう予定だった。
思ったよりも盛大に送り出されるんだなって、最初は腰が引けていたんだけど、劇団がリニューアルされてはじめての卒業生だっていうんだから仕方ない。空中分解してしまった以前のMANKAIカンパニーのように、今度は散り散りになってはいけないと、夢を追いかける者はしっかり送り出すのが残された者の務めだって監督が笑いながら言ったから、俺は少しだけ泣きそうになった。
「起きてる、けど、まだ準備できてないや。入っていいよ」
「そう?お邪魔しまーす」
中に入ってきた椋も、私服のまま。まぁ椋はこの後劇場で衣装に着替えてメイクに入るからまだいいんだけど、 寝起きでそのままぼーっとしていた俺は、顔くらい洗わなきゃいけない。
ぼんやりしたままの俺を見下ろして、椋が困ったように笑ってる。
「……LIMEでも言ったけど、お誕生日おめでとう、幸くん」
……──そう、今日は、
「ありがと」
俺は今日、19歳になった。
今年の夏組の公演は、夢を追いかける少年たちの物語だった。現代物のオリジナルストーリーで、とある高校の軽音部が決裂したり仲直りしたりして、プロデビューに向かって突き進む話。衣装は、制服とステージ衣装の2パターン。最後だから、1針1針想いを込めた。俺も一緒に、舞台に立つ気持ちで。
緞帳が開く、俺も、ずっとあの場所に立っていたのだ。
それを思い出したら、泣けた。
俺がいなくても物語は何事もなく進行していって、けれども、演者たちの身を包むのは、俺が作った、最後の思いを込めた、特別な衣装。舞台の中心で輝かんばかりの笑顔を向ける椋が目に入る。ずっと好きだったのは俺の方だ、舞台の上の王子様に恋をした。
カーテンコールは涙が止まらなかった、バカ、泣きやめ、俺。
この後には俺の最後の挨拶だって控えていた、のに。
舞台の中心でマイクを握る椋が、パッと、顔を俺の方に向ける。
「では、最後に幸くんから、挨拶があります」
ステージの上に呼び出された俺は、涙が止まらなくて、正直言って上手く挨拶を出来た自信はない。椋からマイクを受け取って、あんなにファンのみんなにも伝えたい事が沢山あったはずなのにって、思えて情けなくてまた泣いて、そしたら三角に抱きつかれて、天馬がフォローを入れてくれて、そういうところが夏組なんだよなって思ったらまた泣けてしまった。
卒業公演を兼ねたファンミーティングは盛大に終わった。最後の方には臣の手作りだって言うおっきなケーキまで用意されていて驚いた。その頃には涙も引っ込んでいたから、俺は笑顔でろうそくを吹き消して、みんなにありがとうって言えたのだ。
最高の時間だった。覚悟は決めたはずなのに。もう、離れるのが惜しい。
俺は今日、この場所を巣立つ。
***
見送りはいらない、って言ったのに、寮の玄関で盛大に送られた。
カントクや夏組のみんな、寮に居た劇団員まで全員が出て来てくれて、俺のお見送りをしてくれた。家具なんかは向こうに用意されて居たから、日本からは大量の洋服を送って、後は、機内持ち込み用の手荷物と大きなキャリーケースが一つ。俺が一人分居なくなった201号室では、天馬からちっちゃなキーホルダーを貰った。三角からはよくわからないサンカクのオブジェ、一成からは、全団員分の写真が載っているアルバムを渡された。それら全部を宝箱に詰め込んで、宝箱はキャリーケースの1番上に入れた。
「幸、元気でね」
「幸チャン!!必ず手紙書くっス!!」
俺よりもみんなの方が号泣していたから、俺が泣く暇なんて無かったから良かった。
俺を育ててくれた大切な場所だから、ここを巣立つ時は笑顔で、と決めていた。
「ありがとう、」
だからそうやって笑顔で、キャリーケースを引いて寮を後にする。
椋とは、天鵞絨駅で落ち合う約束だった。
これも空港まで見送るつもりでいた椋を説得して、なんとか駅までの見送りに留めて置いてもらったのだ。空港まで来られたら、それこそ決意が鈍ってしまいそうだったから。
駅前の柵に腰掛けて、スマホを覗き込んでいる横顔を見つけた。出会った頃よりもずっと大人びてしまったけれど、椋を形成するものは何一つ変わっていない。可愛さの中に格好良さも含まれてきたその横顔が、俺はずっと大好きだった。
今日からは、もう、俺のものでは無くなってしまうけれど。
別れを告げるつもりでいたのだ。だって、俺は一度向こうに行ったら、成功するまで日本に戻るつもりは無かったから。そんな不確かな決意に、椋を付き合わせるつもりは無かった。
椋は入場券を買って、ホームまで入って見送ってくれた。
電車はすぐにでもやって来てしまいそうだったから、これが最後のチャンスだと思っていた。
「幸くん……?」
「椋」
俺の手の中にあるのは小さなスノードーム、二人きりの卒業旅行で買ってきた、あの金色と銀色の、2つセットのその金色の方だった。こっちはずっと、椋に渡すつもりでいたのだ。タイミングが中々合わなくて、渡せずじまいだったけれど。
無言でそれを差し出す俺に、椋ははて、と首を傾げていた。
「これは椋に、持っていてほしい」
「幸くん」
刹那、電車はまだ来ない、ホームに人は疎らで、俺達のいる自販機脇のベンチスペースは、ちょうど人目から死角になるスペースだった、椋はそれにもきっと、気付いていた。
唇が一瞬だけ、そっと重ねられる。これも監視カメラの死角になっているのだろう、椋はそういうところは聡いのだから。だけどこれで、スノードームを渡した勢いに乗じて別れを切り出そうとしていた俺の言葉が、遮られてしまった。
一瞬だけのキスは、俺を捉えて離そうとしない。
「幸くんは僕にとっての特別で大切。アメリカに行ってもずっとそうだよ」
少しだけ離れた椋の顔がすぐそこにあって、こんなところでキスしたくせに、頬が赤らんでいるのが可愛いなどと思ってしまう。そんなの、俺だってそう、椋が特別で大切。だからこそ俺から解放してあげようって思ってたのにな。
そうしたらさっきまでずっと我慢していた涙がポロポロとこぼれ落ちて来て、止めようと思ってももう俺の手のひらでは拭いきれない。
「幸くん……、泣かないでよ」
「俺は、椋から離れようとしたのに、」
「もう今更、離れられないよ。君は僕の想いまで連れて行くんだ」
そう、呟いた唇が手の甲に触れて、こんな時でも椋は王子様みたいだなって思う。
びっくりするくらい自然な動作で指にはめられたのはシンプルなシルバーリングだった。
右手の薬指?と、首を傾げた俺に、椋の微笑みが降ってくる。
「……左手は、しばらく取っておいて?」
へ……?と意味を理解するまでに数秒を要していた俺の元に、ガタンゴトンとホームへ電車が入ってくる音が響いた。さよならの時間だった。
夕暮れのホームへやってきた電車に、俺はキャリーケースを引きずって乗り込む。
都会の電車は発車が早くて、その発車のメロディに合わせて椋の唇が動くのが見えた。
「幸くん、ずっと大好きだったよ」
「椋、……、おれも……、」
「遊びに行くからね」
「うん、……うん」
「いつになってもいい、必ずまた、僕のところに戻ってきて」
椋の笑顔が眩しかった。無常にも閉じられた扉とホームドアに、俺の最後の言葉は届いていただろうか。ずっと伝えたかった言葉だ、4年間、ずっと。
「ありがとう」
***
「ありがとう」の言葉を残して、幸くんを乗せた電車が発車して行く。
ホームに吐き出された人が居なくなった頃合いを見計らって、僕はその場に膝を折った。大丈夫、笑顔で見送れた筈だ。君を見送る時は笑顔で、って、ずっと決めていたから。
そうしたらそれまで堪えていたものがぶわりと溢れ出して、両腕で堰き止められなかった分の涙がぽとぽとと地面に落ちてしみを作った。声は出なかった、ただ、静かに涙が溢れて、溢れて、拭っても拭っても次から次へと溢れてきて、もう止まらなかった。情けないなぁと、思う。大の男が、物語の王子様は、こんなみっともなく泣いたりしないのだろう。
ずっと大好きだった、中等部で出逢ってからずっと。
それからずっと一緒にいた、僕の大切な半身。
片翼をもがれたとは良く言った例えだと思う、それくらいの痛みを抱えて、僕は生きていかなければならないのだから。手のひらに残されたスノードームをぎゅっと握りしめる。
指輪を渡すのはずっと前から決めていた。僕の想いを込めた、ずっと身につけていられるように出来るだけシンプルなデザインにして。そうして君を迎えに行けるだけの立派な男の人になったら、おもちゃなんかじゃない立派な指輪を、君に渡しに行くのだ。
今はさようなら、幸くん。また会う日まで。
その日まで僕も、歩むのを止めない。

コメントを残す