先輩の座る席は、窓側の一番後ろの席だった。
おそらく出席番号順だと思われるその席に座って、窓から吹く風を受けてぼんやりとグラウンドを眺めている姿が美しくて、まるで漫画の世界の王子様みたいだった。
三年生の教室は一階だったから、移動教室があるたびにそこを通るのが楽しみで、通り過ぎるたびに、つい目をやってしまう。
夏のある日の事だ。その日も先輩は、グラウンドを眺めていた。
どこかのクラスの体育の授業のようだった。体操着姿の生徒たちが、授業を終えてちょうど校舎に入っていく所。生徒たちの群れを眺めて、それまで退屈そうにしていた先輩の綺麗な横顔が、綻ぶのが見えた。
それはパッと、花が咲いたような笑顔だった。
「幸くん!」
グラウンドから、教室に駆け寄っていく人影。
「あ、向坂先輩だ!」って、連れの友達の目にハートマークが浮かぶ。
ちらっと様子を盗み見ると、教室の窓越しに、仲睦まじく会話する2人の姿が見えた。先輩の顔からはさっきのような笑顔は消えていて、いつものクールビューティな表情に戻ってしまっている。
「本当に2人とも、仲良しよねー。目の保養目の保養」
教科書を腕に抱いて、ぽっと頬を染める友達には適当に相槌を返して置いて、私はそれよりも、先程の、瑠璃川先輩の花のような笑顔の方が気になってしまっていた。
あれは完全に、恋する乙女の顔じゃないか、って。
季節は夏の終わり、もうすぐ学園祭の準備が始まる頃だった。
***
がらんとした教室の、自分の席に座る。
教室内には誰もいなかったが、遠くの教室からは授業を行う声が聞こえていたし、グラウンドからも体育教師の威勢のいい声が響いて来る。この寒いのにマラソンだなんてご苦労な事だ。ぺたりと机に頬を付けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
三年生は、自由登校の期間だった。
先程図書館へ寄ったら同級生の姿がちらほら見かけられたが、教室まで用事がある人間はなかなかいないものだ。いつもだったら一緒に登校しているはずの椋は、私立大学の一般入試日という事で、朝早くから寮のみんなで激励して送り出したところであった。
別に、そのまま寮にいても良かったのだけど、なんとなく落ち着かなくて学校まで来てしまった。
図書館で勉強して、たまたまクラスメートが居たから二言三言交わして、そうして、行くあてもなくなってしまい、教室にいる。
机に突っ伏した状態で、校内にチャイムの音が鳴り響くのが聞こえた。
授業が終わる、もうお昼か。お弁当なんて持って来てないから、学食へ行くほどでも無いし、寮に帰ろうかな、それともどっかに寄り道をして食べていこうかな。・・なんかもう、どれも面倒だ。
学校生活、色々あったなあって、どんよりと曇った冬の空を見上げながら思いを巡らせる。
小学校は普通の公立校だった。実家のリビングに入学式の写真があるんだけど、ピンク色のワンピースを着て、ブラウンのランドセルをしょって、両親に挟まれていい笑顔で写っていた。多分、小学校は最初からそんな感じだったから、「瑠璃川幸はそう言うもの」って言う感じの扱いだったんだと思う。いじめてくる男子はいたけど、うちの小学校は女子が多くて強かったのもあって、庇ってくれる女の子がたくさんいたから、それなりに楽しかった。一緒に帰ったり、家に遊びに誘えるような、友達と呼べるような存在は居なかったけど。
だから、近所の公立中学にそのまま進学しないで、家からは近いけど進学校で有名だったフローラ学園に入学した時、あぁしくじったなって入学式後に入った教室で実感した。
だって近所の公立中学は、制服が黒の学ランだったんだ。オーソドックスすぎて可愛くないし、そんなのを着て、俺、似合うと思う?女子の制服はこれまた古風なセーラー服で、スカートも膝丈。それもどうかなって思って、はなからそこに行く気は無かった。
フラ中の制服は、男女ともに藤色のセーラー服だった。グリーンのタイがまた可愛くて、ズボンの制服だったけど、こんな可愛いデザインなら着てもいいかなって思えたから、小6の夏から急遽猛勉強して、見事に合格したわけ。
念願の制服は可愛かったけど、進学校、って事もあって、学校の奴らはつまんない奴が多かった。
別に、男が男の制服を着てるんだから、構わないでそっとしておいてくれって思うのに、入学式から俺は、好奇の視線に晒されていた。「え?男の子?女の子?」って言う困惑の目から始まって、お調子者の男子生徒による「お前、ほんとに男なのかよ~」という揶揄いの言葉。俺がシカトし続けていると気に食わなかったのか、体育の時間にパンツ脱がされそうになった事もあったし、教科書を隠された事もあったっけ。そういうふざけた男子生徒の他は、成績に関わるからと言って、見て見ぬ振りをする大多数の生徒。中等部は部活動が必須だったからとりあえず美術部に入ったけど、一度も部に顔を出した事はない。委員会も同じ。友達なんて居なかったし、毎日が退屈だった。
服作りに出会ったのはその頃で、私服で着たい服を着れないストレスをぶつける様に、自分で服を作って、身につけて、遠くの街へ繰り出して遊んでいた。作りすぎた服はネットで販売したりもしていた。服を作っている間はつまらない、退屈って思う事は無かったし、俺の作った服を着て可愛いって褒めてくれる人が居ることが嬉しくて仕方なかった。
中3の春、このままフローラの高等部に進学するのはやめようかなと思い始めた頃だった。
その頃俺の縫製の技術は、自他共に認めるほどになって居て、ネット販売だけでは無く、もっと、他にも何か出来るんじゃないか、自分の作ったものを世の中に発表できる場があるんじゃないかと考えるようになっていた。服作りを本格的に学べる学校に進学してもいい、海外にも行ってみたい、その為にはこんな閉塞された空間に居てはいけない。
そんな事を考えて、進路についてインターネットで調べていた時期、とある小劇団の募集広告に目を止めることになる。
【新生MANKAIカンパニー、スタッフ募集ーー経験者優遇】
劇団?演劇?これまでの十数年の人生とは、縁遠い言葉だった。劇なんて、小学校の学芸会でやったくらいなもので、それもあまり目立ちたくない俺はいずれの学年でも端役に収まっていた。
けれど、何故かひどく、俺の心を惹きつける。
何かを作り出す、そしてそれを、多くの人に見てもらう、評価してもらう。
俺が進みたいのはそういう世界だ。そういうところに惹かれたのかもしれない。
募集項目の中に「舞台衣装」という言葉を見つけて、これだ、って思った。
舞台衣装の製作は、とても刺激的だった。演じる物語の世界観や時代背景によって、作る衣装も変わってくる。例えばアリスのような原作があるおとぎ話とか、現代劇の衣装は得意分野だったけど、Water meの衣装はアラビアンナイトの映画を見て、関連書物読んだけど、パターンを取るのが難しかったし、生地も、舞台映えするようなものを探すのが大変だった。困ったのはにぼしのような綴の完全オリジナルな作品で、「好きにやっていい」って信頼されるのは嬉しかったけど、初めて自分のスランプというものに直面した。今となってはそれもいい思い出だ。
劇団で知り合った奴らも面白かった。
俺はカンパニーの中では最年少だったけど、人気俳優とか、一流企業のサラリーマンとか、ニートとか、ヤクザとかとにかく変な奴らがいっぱいいて、みんな自由な大人だったから、誰も俺がスカートを穿いていても文句や嫌味を言ってくることも無く、とにかく居心地が良かった。
あの場所と出会っていなければ、俺はとっくに海外に出ていたかもしれない。
けど、これが回り道だったと思う事は無い。
3年と半年、衣装を作って、自らも舞台に立ってみて、もっと貪欲に技術を吸収したいと思った。
だから、舞台芸術の本場であるニューヨークへ行って、舞台についても、衣装についても、一から学ぶことを決意した。
自分で選んだ道だったけど、巣立つその日が近づくにつれて、離れ難いなって思ってしまう。
あの場所は居心地が良すぎた。照れくさくて口に出して言うことは無いだろうけど。
それに・・
馴染んだ親友であり、今は恋仲にある「彼」の姿を思い出して胸が痛くなる。
好きだなんて、言わなきゃ良かった。
仲のいい友達として、青春時代の爽やかな思い出にしてしまえば良かったのだ。
でも、少しでも強い形で彼の記憶の中に留まっていたくて、言ってしまった。俺がいなくなって、ちょっとでも寂しいって思ってくれればいいなって。心の隅っこでもいいから、俺との思い出が根を張ってくれればいいなって。
でも、そんな事を言っていた俺の方が、幸せな思い出に埋もれて泣きそうだった。
初めての恋も、初めての告白も、キスも、デートも、プレゼントも、日々の言葉も、彼から貰ったもの全てが積み重なって、心に溢れて苦しくて、窒息しそうだ。けれど、もう充分だと思うことはきっと無くて、貪欲な俺はもっと欲しいとすら思ってしまう。
もっと思い出が欲しい、ここを離れてしまう前に。心が溢れて窒息死するくらい、もっと。
──冬の空を見上げて思う、春なんて来なければいいと。
***
「瑠璃川先輩!!」
先輩を見つけたのは、本当に偶然だった。たまたまその日は朝から体調が優れなくて、四限まで頑張ったんだけど、熱っぽさを感じて、自ら保健室へ向かう途中だった。時期的に風邪が流行る季節だし、インフルエンザじゃないといいなって、ボーッとした頭で、ぼんやりと考えていた所だ。
3年生は自由登校期間だというのに、つい先輩の教室に目をやってしまうのは、ここ一年で身についた癖だった。たまたま授業中に3年生の教室の前を通りかかって、たまたま、いつもの席に先輩が座っていた。こんな偶然って無い。もう、卒業式まで顔を見かける事も無いだろうって思っていた。
だから、つい、声をかけてしまったのだ。熱に浮かされていたとしか思えなかった。
声をかけてしまって後悔した。
うつくしい横顔に、きらりと一筋の涙が零れるのが見えた。いつものように窓の外をぼんやりと眺めていた先輩は、ひっそりと涙を流していたのだ。
「誰?」
「あっ、ごめんなさい!!」
先輩はこちらに気づくと、不機嫌さを隠さずに、眉間に皺を寄せて怪訝な表情を浮かべる。綺麗な人が怒ると怖い見本だ。私は慌てて、頭を下げて謝罪する。
そうしてゴシゴシと乱暴に目を擦ると、律儀にも私の方に向き直って、視線を上げる。
「なんか用?」
「いえっ、あのっ、すみません、たまたま見かけて・・」
今は授業中で、1人でウロウロしている生徒なんて私くらいなものだ。
先輩はきっと、私のことなんて知らないだろうから、どう考えても怪しい後輩にしか見えない。
教室の扉のところで挙動不審な態度でいると、先輩は「入れば?」って促してくれる。
だったらいっそ、って。開き直る。見ず知らずの後輩ならば、逆に恐れるものはない。
トコトコと誰もいない教室にお邪魔して、瑠璃川先輩の机の前に立つ。
「なに?卒業前の告白ってやつ?」
「こ、告白?!そんな、いえ、滅相も無い!!」
瑠璃川先輩は美しい所作で前髪をかき分けて、宝石みたいな大きな瞳に私のことを映してくれる。
涙の名残か、目尻を赤く染めて、困ったような表情がまた可愛い。
年上の男の人に使う形容詞では無いことは分かってるけど、本当に「可愛い」という言葉が似合う人だ。もしくは、「美しい」「綺麗」とか。
先輩は女子はもちろん、その愛らしい容貌から男子生徒にもモテるから、告白なんかもされ慣れてるのだろう。私も、その大勢の内の1人だと思われているようだった。
「とんでもないです!私はただ、瑠璃川先輩が好きで、あっ、別に変な意味ではなくて!」
「……それが、告白じゃないの?」
「あのっ、違うんです。先輩のこと、綺麗だなってずっと見てて、学園祭のプリンセス役も、とっても素敵でした。」
憧れ、というのもなんだかおこがましい。
じゃあ、この、先輩を目の前にして高鳴る思いは何なのだろうかと、自分に問いかけて、結局一つの答えに行き着く。
「告白、では無いんですけど、好きです。先輩のファンみたいなものです」
「あんた面白いね。……それで俺は、ファンのあんたに何をすればいいの?サイン?握手?」
クスクスと可愛らしい笑みをこぼして、私の目の前で手のひらをヒラヒラと振ってみせる。
そういえば先輩は、劇団で活動しているのだった。そういった方面でのファンも大勢いるんだろうな。
「サインも、握手も、先輩から貰えるのなら何でも欲しいです!」
「いいよ。特別ね。」
「あぁあ、でも、紙も何も無いです……」
そういえば、自分は授業を抜けて、保健室に行く途中だった事を思い出す。
当然ながら手ぶらで、先輩の荷物も見当たらない。ここは学校だと言うのにペンも紙も無いってのはなんだか不思議な感じだ。
残念だ、と思うと同時に、もう一つの欲しいものを思いついて、あ、と声を上げる。
「あ……あの、じゃあ、卒業式に第2ボタン、予約しちゃダメですか?」
それこそおこがましいお願いだろう、と自制するも、けれど万が一でも瑠璃川先輩の気が向いてくれたなら。一介のファンでしかない自分にも、ボタンくらいならチャンスがあるんじゃ無いかって。
先輩は予想通り目を丸くして驚いていて、そうして小さくプッと吹き出した。
「ごめん、これは先約があるから無理。他のボタンならあげれるけど、予約は受けてないかな」
「先約」という言葉に、パッと、大輪の百合が咲いたような笑顔。
見覚えのある笑顔だった。夏の暑いある日、体育の授業のあと、汗を拭って駆け寄ってくる爽やかで格好いい先輩と、それ見つめる、愛しいものを慈しむような、美しい笑顔。少女漫画のワンシーンみたいで素敵だなって思った。あ、先輩、恋、してるのかなって。
聞かなければいいのに、心の中の好奇心が疼いて、口にしてしまう。
「……それって、向坂先輩ですか?」
我ながら、意地の悪い聞き方だと思った。
「好きな人、いるんですか?」でも、「彼女いるんですか?」でも無く。名指し。
一瞬表情を曇らせて、でもごく自然な流れで、言葉を紡ぐ。
「あのウワサ、信じてんの?」
「ウワサは信じてません、でも、私は、瑠璃川先輩を見てたからわかります。先輩が、第2ボタンをあげるなら誰なのかなって。」
「そっ、か。」
私の真っ直ぐな視線からそっと目をそらして、赤い頬を隠すようにぽつりと小さく呟いた。
それから口を噤んでしまった先輩に気まずくなって、私は慌てて言葉を探す。
「あの、すみません、忘れてください!」
「…………」
「お邪魔してすみませんでした!ボタンは当日、頑張ります!」
「そんなに俺、モテないから。頑張んなくても大丈夫だと思うよ?」
「そんなことないです!無くなったら悲しいんで頑張ります」
「・・ありがと。・・紙とペン、持ってきたらサインもしてあげるけど」
からかうように、笑ってそう言う先輩に少し安堵して、「はい!」と、大きく頷いた。
先輩は椅子に座りなおして、あ、と、去り際の私に思いついたように声をかける。
「あ、これ、独り言なんだけど。来週、金曜、12日。入試の結果発表の日で、椋が登校するって言ってたなー。今年はチョコレート貰えないなって残念がってたかも」
来週の金曜日。カレンダーを脳内に思い浮かべて、気づく。
今年のバレンタインは日曜日だった。それに、3年生はほとんどがこの時期登校していないから、今年のバレンタインは静かになるなって思っていたんだけど。きっとこの話を1年2年に流したら、女子生徒は喜び勇んでチョコレートを用意するだろう。瑠璃川先輩は?って聞こうとして、でも多分、向坂先輩が登校するなら一緒なんだろうなって勝手に思う事にした。
「貴重な情報、ありがとうございます。あげたかった子、みんな喜ぶと思います」
「ひとりごと、だからね」
にっこり笑って、先輩の教室を後にする。
先輩はばいばい、と手を振って、私の事を見送ってくれた。
瑠璃川先輩、本当に素敵な人だ。幸せな時間だったけど、何故か切なくて泣きそうになって。それから思い出したように頭は熱っぽくて、早くベッドに倒れこみたい一心で、保健室を目指した。
***
ピピピピッ、ピピピピッ
静かな部屋に電子音が鳴り響く。
ロフトベッドのハシゴから見慣れた顔が覗き込んで、口元をマスクで覆い、そこだけが露出している紫色の瞳が、気遣う表情を浮かべていた。
「38度5分。……下がんないね」
「……うーん。でも、そんなにしんどくないから大丈夫だよ」
先週学校に登校してから数日後、俺は珍しく熱を出して寝込んでいた。
先週の金曜日に、大学入試の椋を送り出して、落ち着かなかったから気まぐれで学校に行ってみた。帰ってきてからも別に平気で、夕方ごろ帰宅した椋を出迎えて、夕飯の時に「手応えあったよ」って言ってた椋の言葉に安堵して、その日は椋が早く寝てしまったから俺も早めに就寝した。ぐっすり眠れたと思ったのだが、土曜の朝、起き抜けの身体のだるさと熱っぽさに、体温を測ってみたらまさかの38度越え。自己申告ののち、監督に連れられて土曜日でもやってる病院にかかったところ、まさかまさかのインフルエンザの診断がくだった。そこから安静にするように言い渡されて早5日。食欲はある、インフルエンザ特有の身体の痛みも無く、ただ、38度台の熱がダラダラと続いていた。
「うつると悪いから、こんなにちょくちょく来てくれなくてもいいのに。」
「僕、予防接種してるから平気だよ」
「俺も一緒に打ったけどかかったじゃん……罹る時は罹るんだよ」
昨年の暮れに、連れ立って病院に行った事を思い出す。受験生だから打っておきなさいって言うお母さんの言葉を忠実に守る椋に付き合う形で、俺もついでに打ってきたのに。
罹る時は罹る。ついて無いなって、はーっと大きなため息を吐いてしまう。
「でも、軽く済んでるみたいだから、やっぱり注射、効いてるのかもね」
「効いてんのかな。……うつったらごめんね」
「気にしないでよ。僕も、試験は終わったし、後は結果を待つだけだから」
俺が寝込んで数日、椋は率先して世話を焼いてくれている。
公演に向けての稽古が始まった春組や、社会人組が平日で寮を空けている中、僕らは暇で良かったねと、ご飯を運んだり、寝ている間に冷えぴたを張り替えたり、退屈でしょ?って漫画を貸してくれたり、俺が起きている時には話し相手にもなってくれた。
「幸くん、今まで休まないで沢山頑張ってきたから、疲れが溜まってたのかもね」
冷えぴたを貼ったおでこをよしよしと撫でられて、柔らかな微笑みを向けられる。
そんなに手放しで甘やかさないでほしい。椋には絶対にうつしたくないのに、1人になると心細いから、側にいてほしいって口走りそうになる。
そう言えば、寮に入ってから体調を崩して寝込んだのは4年間で初めてだった。
もちろん大所帯だから風邪ひいたりする人がいない訳では無いけど、衣装作りと稽古、学校生活に追われて、忙しさで気を張っていたから、風邪をひいてる暇なんて無かったのだ。
でもそれは、俺自身がやりたいと望んだ事であって、誰に強制されたわけではない。
だから全然、負担なんかじゃ無かったのに。
「あぁぁ、大丈夫?幸くん、気持ち悪い?」
「……ち、違う。ごめん」
ポロポロと、情けなさと心細さに涙が零れて、それを見た椋は焦って俺の背中をさする。
カンパニーを抜ける事を決断したのも俺自身だ。
けれど、本当にそれは今のタイミングで合っていたのだろうかって、今でもまだ考えてしまう。
潰れかかった弱小劇団を立て直して4年、ようやく軌道に乗ってきたところだ。各組の定期公演も、手が空いている団員による地方公演も、毎回人気でチケットの売れ行きも調子が良いと聞く。
これからって時に、衣装係の自分が抜けるのは無責任なんじゃないかって。
誰に言われた訳でも無い。ここにはそんな事言う人間なんていないって分かってる、俺が勝手に思っているだけだ。だから、俺が居なくなった穴を埋めてくれる、衣装係の引き継ぎも必要だった。後任を探している途中で、夏組も、追加メンバーを入れるって。
そんなの嫌だった。ここが俺の居場所だ、他の誰にも渡したくなんか無い。
我儘だってわかってるから、誰にも言わないけど。
揺らいでいた、確実に。
「椋、俺は……」
身を起こして、困惑する椋の手を引いて、ベッドへと招き入れる。
縋りつくように両腕を掴んだけれど、ここ数日ずっと寝ていたから、うまく力が入らなかった。
「……幸くん?」
ずっと外の世界に出たかった。学校に居場所が無くて、家も退屈で。
こんな閉塞的な空間、息がつまるから、自由になりたかった。
だから海外で、もっと服作りについて学んでこようって思った。それまでの俺は、ただ、好きな服を作っていられればそれで良かったんだけど、それから先のビジョンが明確になったのは、劇団に入って、人の優しさと芝居の楽しさに触れたからだ。
成長したい、もっともっと。ここの人たちや、舞台を観てくれる全ての人を、幸せにするために。
戻ってくるつもりだった。何年掛かったとしても。
引いてはそれが、将来的にMANKAIカンパニーのためになるんじゃないかって思っていた。
けれど戻ってきたその時には、もう俺の居場所はないかもしれないって考えると、急に自分の選択が怖くなる。
「本当は、もっとずっとここに居たい」
声が掠れて上手に出なかった。でも多分、椋には届いたと思う。
何も言わずに抱きしめてくれて、優しく背中をさすってくれたから。
***
満開寮のお庭は、暖かい季節になると決まって綺麗な花が咲いていた。
今は真冬のオフシーズンだから、花壇を彩る花は咲いてなくて寂しい様相だったけど、それでもこの人がお世話を怠らないから、春になったらまた、鮮やかな景色が見れるんだろうなって思う。
幸くんの部屋から出ると、中庭で水やりをしている紬さんを見つけた。
藍色の柔らかな髪の毛が風に吹かれて揺れていた。
今日は朝から肌寒かったけど、そんな日でも水やりは必要なんだって、ぼんやり考えながら庭を眺めていると、作業着姿の紬さんが僕に気づいて顔を上げる。
「…………椋くん?」
「紬さん、寒くないんですか?」
「身体動かしてるから平気だよ。……幸ちゃんの具合はどう?」
「まだ熱下がらなくて……今やっと眠った所です」
ホースの水を止めて、優しい笑顔で僕に向き直ってくれる。
「あの、そっち、行っても良いですか?」
ぱんぱんと手のひらの土を払って、紬さんは「いいよ」って僕を手招いてくれた。
春になったら密さんが猫さんと一緒にお昼寝をしているベンチも、このシーズンは活躍の機会が無くて可哀想だった。腰を下ろすとひんやりしていて、厚着していて良かったなって思う。
軍手を外した紬さんが隣に座って、僕の言葉を待つように、穏やかな顔で自らが手入れをした花壇を眺めていた。
「……僕、紬さんの作る花壇が好きで、いつもこの時期になると、早く春が来ないかな、早く花が咲かないかなって、楽しみにしてるんです」
秋頃に一緒に植えた、チューリップやフリージアの苗は、寒いこの時期にも、しっかりと根を張って生き生きと育っていた。まだ時期的に蕾にもなっていないけど、春休みが終わって、大学生になる頃には、赤白黄色の鮮やかな花が開くはずだった。
「でも、今年は違って。……本当、自分でもこんな醜い心、嫌なんですけど、春なんか来なければ良いって思っていて」
「……椋くん、」
「学校の梅の木も、庭の桜の木も、咲かなきゃいいなって、思ってて……」
毎日見ている校庭の梅の木は、もう蕾がついていて、そろそろ咲きそうな様子だった。
梅が咲いたら高校を卒業して、桜が咲いたら大学生になって、紬さんの花壇が満開になる頃に、幸くんはここを出る。そして花壇を彩る花がヒマワリやダリアになる頃には、もう日本に居ないはず。
ここに居たいって泣く彼に、居ていいんだよって言うのは優しさにはならない。
僕は幸くんの作る衣装が大好きだったから、彼の才能はもっと広い世界で認められるべきだってずっと思っていた。その為にはずっとここにいちゃいけない事も理解していた。
僕には、引き止めることも、でも背中を押すことも出来なくて。じゃあ、君のために出来ることって実は何もないんじゃないかって、絶望的な気分になる。
「ねえ紬さん、自分の半身みたいに大切な人と別れても、人って普通に生きていけるものなんでしょうか?」
半身みたいに大切な人。
この人が幼馴染と距離を置いていた期間の話は、風の噂で聞いただけだったし、ましてやその間の本人の心境など、僕に計り知れるものではない。聞いたところでどうにかなるという訳ではない事も分かりきっていたが、それでも、誰かに救いを求めてしまうのであった。
「俺は、……」
驚いた様子で僕の顔を見つめる紬さんの目をじっと見返して、言葉を探す彼を待つ
「俺と丞の場合は、俺自身が望んで離れたから、椋くんとはちょっと事情が違うとは思うけど……人の心は意外と強いから、半身が居なくなって、残された自分がばらばらに壊れて傷ついても、時間をかけてゆっくりと元に戻っていくんだと思う。」
紬さんの纏う空気は穏やかで優しい。
紡ぐ言葉も、僕の心に優しく届くように、気を遣ってくれている。
「……寂しいんです。みんなが快く見送ってる中で、僕1人だけ、行かないでって、こっそり思ってる。そんなこと思っちゃいけないって、わかってるんですけど」
「……そっか。」
行かないでって言うのが僕の本音だ。海外になんか行かないで、ずっとここにいてって。
きっと口に出すことは無い、心の奥底に閉じ込めておかなければいけない本音。
大好きな幸くんが外の世界で頑張ってこれるように、僕は笑顔で、見送らなきゃいけない。
「椋くんは優しいね。……きっと君の半身も、君から離れるのが辛いだろうな」
そんなことはない。僕は醜い心を隠した、悪い子なのだから。
優しいのは、紬さんの方だ。こんな寒空の下、文句ひとつ言わずに、僕の話を聞いていてくれる。
「身を裂かれるほどの別れか…………」
紬さんはなにかを思い出すように、まだなにも咲いていない、寂しい花壇を眺めていた。
「椋くんが大人になっていく上で、大切な人との別れは必ず訪れる。重要なのはそれをどう消化するかで、不貞腐れて駄目になってしまうかもしれないし、或いは糧にして、今よりもっと大きく成長していけるかもしれない」
ぽんぽんと頭を撫でてくれる、やっぱり紬さんは優しい。
いつの間にか彼を追い越してしまった背丈の分だけ、僕は成長出来ているのか、疑問だった。
「……案外幸ちゃんに、直接言ってみたら?「行かないで」が嫌なら、「僕のところに戻ってきて」とかでもいいと思うし」
「戻って、きて?」
「そう。またね、って意味。喧嘩別れするわけじゃないんだから、君が帰る場所になればいい」
未来の希望を感じさせる紬さんの言葉は、僕の心にすーっと入り込んでいった。
「それでも1人になって、寂しくなったらまた花を見においで。どんなに願おうと、春はやって来るし、花は咲くからね」
そう、優しさの中に厳しさを含んで、静かに彼は言う。
まだ肌寒い寮の中庭は、けれどもいたるところに春の訪れを感じさせる物が沢山あった。
青々と育つ花の苗、蕾を付けた桜の木、日の当たる場所では野良猫が暖をとっている。
こうやって、僕がどれだけ願おうとも、冬は終わりを告げて、やがて春がやって来る。
この花壇に花が咲き誇るその頃、僕は笑って「またね」って言えるのかな。
***
陽だまりの中にいる夢を見た。
俺はなぜか真っ白い子猫になっていて、隣には同じサイズ感のグレーのシマシマ模様の猫がぴったりと寄り添って眠っていた。暖かい、凄く、心がぽかぽかと満たされた気持ちになる。
一人で居ることには慣れちゃった筈だったのになぁって、猫の俺はぼんやり思う。
ご飯を食べるのも、遊ぶのも寝るのも、ずっと一人だった。物心ついた時からそれが当たり前だったから、別に構わないって思ってたんだけどな。
グレーの子猫が俺の手を引いて、「一緒にご飯食べよ」って言ってくれたのはいつの事だっけ。
でも最初は、小さなその手を跳ね除けていた。
俺になんて構ってたら、アンタまで後ろ指指されるからやめなって。
けれど、穏やかな雰囲気とは裏腹に意外と頑固者なその子猫は、跳ね除けた筈の手をもう一度とってくれた。そんなことないよ、大丈夫だよって言ってくれた。
そこからはずっと一緒だった。何をするにも一緒で、俺はすっかり、一人より二人の方がいいと思うようになってしまっていた。
可愛かったグレーの子猫は、次第に凛とした佇まいの美しい成猫へと成長していく。
シマシマ模様は変わらない。穏やかな、紫色の瞳も。
──椋の隣は陽だまりだった。
二人で一緒に大きくなってきたから、一人で生きていく術を俺は忘れてしまっていた。
俺は本当は物凄く怖がりだから、また一人になるのが怖かった。もっと一緒に居たかったのに。
眼が覚めるとそれまでの身体のだるさはふっと消えていて、汗をかいたのか身体はベタベタだった。
枕元の目覚まし時計を見ると昼過ぎで、丸一日近く寝ていたことに驚いた。そう言えばすごくお腹が空いていたし、汗で気持ち悪いから、こんな時間だけどシャワーくらい浴びれないだろうかと思いを巡らせる。
LIMEの通知が何件か入っていた。
監督や団員のグループトークを開くと、未読の先頭に、見慣れたアイコン画像が目に入る。
【椋:大学、合格してました!】
友人に撮ってもらったのであろう、照れくさそうにピースをして笑う制服姿の椋の写メの下には、団員からの祝いのメッセージがずらりと続いていた。時間は2時間前くらいで、ちゃんと学校に行ってた事と、椋なら心配なかったけど、合格していたことに安堵する。
【幸:おめでとう。一緒にいけなくてごめんね】
ぴぽん、と、送信と同時に何件かの既読がついた。それを確認して、ズルズルとベッドを出る。
監督に相談して、シャワー浴びさせてもらって、ちょっと遅いけどご飯も食べさせてもらおう。
「幸くん!熱はどう?」
昼過ぎの談話室を覗くと、監督と何人かの団員がお茶を飲んでいるところで、誰かの姿があった事にホッと胸をなでおろす。キッチンには綴がいて、俺の登場に気付くとこちらを振り返ってくれた。
「幸、昼飯食うか?昼の残りの焼うどんがあるし、食欲無かったらおかゆでもいいよ」
「ありがと。焼うどん、食べれる。」
席に着くと監督の手が額に伸びてきて、温かな感触が頭を包む。
「もうすっかり下がったみたいね。もー、本当に心配したのよ」
「ごめんなさい……誰にもうつってない?」
「そんな心配してたの?大丈夫よ、誰にもうつってないから。」
ことり、と焼うどんの皿を置かれると、辺りを食欲を促す香りが立ち込め、お腹がぐぅと鳴った気がした。もう一度綴にお礼を言って、箸に手を伸ばす。
「でもインフルは本当にすぐうつるからなー。うちも弟が一人もらってきたらあっという間に兄弟全員に広がるから大変だったな」
「2月に入ってもまだ流行ってるんだね。年末とかはニュースでも騒ぎになってたけど」
みんなの話し声をBGMに、うどんをすする。久しぶりにしっかりとした味付けのものを食べたせいか、すごく美味しく感じた。
「そうだ。LIMEみた?椋くん、合格したって」
「うん。椋だから心配してなかったけど、よかった」
「夜はお祝いパーティしようって話してたの。今、臣くんと太一くんが買い出しに出てくれてて、ごちそういっぱい作るから、幸くんも体調良かったら参加してね」
そういうと、監督はちらりと壁の時計を見て、料理の準備へと取り掛かっていった。
お皿のうどんはあっという間に無くなって、まだ小腹が空いていたけど、夜がごちそうならこれくらいがちょうど良いのかもしれない。14時過ぎ、シャワーでも浴びて、椋の帰りを待とうか。
昼下がりの談話室は穏やかな空気が流れていた。
この部屋だけは暖房がしっかり効いていて、日向を探してやってくる猫みたいに、密がソファに丸まって寝ていて、隣では誉が本を読んでいる。俺も誉を挟んで密の逆隣に座ってうとうとと微睡んでいると、紬がホットココアを入れてくれた。マシュマロが浮いていたから多分密のついでにだろうけど、小腹が空いていたからありがたく頂く。
白いマシュマロが溶けてトロトロのココアはやたら甘ったるかった。
外が暗くなるにつれて団員たちが続々と帰宅してきて、買い物袋を抱えた臣と太一が戻ってきた頃には、談話室もキッチンも人で溢れかえっていた。
雑音が心地よい。あんなに寝たのにまだ眠たくて、重たい瞳が落ちかけていた時、玄関の扉が開く音と賑やかな話し声が聴こえて、落ちかけていた意識がぱっと覚めた。
「ただいま帰りましたー!」
「ただいま~」
顔を向けると、両手いっぱいに紙袋を持った椋と、一緒に帰宅したらしい十座が、疲労困憊って顔で佇んでいた。よく見ると十座も似たような紙袋を持っている。
「……今年もすごいね。」
「もー。幸くんでしょ?僕が登校する日みんなにばらしたの」
やれやれってテーブルの上に大量の紙袋を乗せて、肩を回しながら椋が言う。
言った。確かに。今日はバレンタイン前の最後の平日で、椋は入試の結果発表を聞きに登校するって言ってたよって、熱を出す前に名も知らぬ後輩女子にタレ込んだ記憶を思い出していた。
バレンタインは毎年の恒例行事で、「ボクなんて全然モテません」「バレンタインに告白なんて少女漫画みたいで素敵です~」って結構本気で言ってる椋に、こうやって目に見える形で自分がどれだけの好意を向けられているのか自覚してもらいたくて、敢えて矢面に立たせている。
……俺の恋心が歪んでいる自覚は、十二分にある。
「全部本命?」
「そんなわけないじゃん!告白付きの本気っぽいのは申し訳ないから丁重にお断りして、残ったのは全部義理チョコだと思うけど……」
え、これ全部義理チョコ?義理って言葉の意味が分からなくなるが、きっとファンクラブの女の子とか、そういう類なんだろう。確かに袋の中のチョコは、殆どが市販のチョコだった。……まぁどれもこれも、高校生が自分で買うには絶対に高価な、本気度の高い義理チョコだと思うけど。
「嬉しいんだけど結局持ちきれなくて、どうしようか困ってたら十ちゃんからLIMEもらったから助けてもらっちゃった。本当ありがとう、一緒にチョコ食べようね!」
「……いいのか?!」
「うん、さっきちらっと見たけど、結構有名なブランドのチョコとかもいっぱいあったよ!」
きっと好きなブランドのチョコでもあったのだろう。十座の目が輝いていた。
椋はたくさんの紙袋の中から、その中のひとつを俺に差し出す。
「これ、幸くんの分。みんな残念がってたよ。なんで一緒じゃないんですか~って。」
「……おれ、そんなに食えない……」
「大丈夫だよ、幸くんの好みをみんな理解してるから女の子って凄いよね。中身、殆どファンシーな雑貨ばっかりだったよ」
なるほど。椋に比べたら数は全然少ないけど、それでも思いのこもった沢山のプレゼント達は、俺が好きな可愛らしい雑貨品が多く、ペアカップとか、チョコレートのついた金のスプーンとか、テディベアとか、そのどれもこれもにピンクやレースのリボンが掛けられていた。
思わず「可愛い」って呟いた俺に、椋も顔を綻ばせる。
「幸くんにプレゼントくれた子に、その顔見せてあげたいな」
「やだよ。そんな恥ずかしいこと出来ない」
にこにこ笑う顔をじっと睨みつけて膨れていると、キッチンの方からいい香りが漂ってくる。
そう言えば、椋の合格祝いのパーティをするんだった。プレゼントを部屋に置いて、まだ病み上がりのパジャマ姿だったから、せめてもう少しマシな私服に着替えてこようと思いついて席を立つ。
去り際に、向かいの席で黙々とチョコレートの仕分けを続ける椋に声をかける。
「…………合格おめでと」
「へ?あ、ありがとう。……待って、僕も部屋に戻る!」
椋は少し驚いて、それから一拍おいて俺の後に続く。
パタパタと、スリッパの軽い足音が後ろからついてきて、振り返ると椋がいつもの顔でへらりと笑っっていた。
「幸くんが元気になってよかった!」
***
仰げば尊し、我が師の恩
教えの庭にも 早幾年
フローラの高等部の卒業式は、毎年3月の第1週の土曜日に講堂を貸し切って、全校生徒出席のもとで厳かに行われる。その日は土曜日とは言え午前中で学校が終わるし、在校生は授業も無いから普通は気楽なもんなんだけど、例えば憧れの先輩が卒業しちゃうって子は朝からみんな落ち着かなくて、放課後に始まるお見送りの儀式までそわそわと過ごしていた。
私も、あの日までは多分傍観者の一人に過ぎなかったんだけど。
『──紙とペン、持ってきたらサインもしてあげるけど』
そう言って笑った瑠璃川先輩がとても綺麗だったから、ちゃんと、新品の真っ白な色紙を用意した。先輩、ちゃんと覚えていてくれてるかな。覚えてくれていたらそれだけで充分なんだけど、ボタンも貰えたらもっと嬉しいなって思う。
外はまだ寒かったけど、講堂は適温に暖められていて、卒業生合唱の仰げば尊しが聴き心地良くて眠くなってしまいそうだ。先輩達はどんな気持ちでこれを歌ってるんだろうなって眠たい頭で考えながら、曲の終わりを待つ。
うちの学校は生徒数が多いから、一人一人に卒業証書を授与しないらしく、先程、成績優秀者の中から決められた代表者が、一人で学園長から卒業証書を受け取っていた。時間短縮には良いシステムだけど、好きな先輩の最後のかっこいい姿を見れないのは残念だと思う。学園長挨拶も、生徒会の送辞も答辞も儀式に則った例文を読むだけの退屈なものだ。唯一、在校生の出番は全校生徒による校歌斉唱くらいなもので、それ以外は、眠気に負けることなく、重たい瞼をこじ開けて、卒業生の後頭部を眺めることくらいしか、する事がない。
早くおわんないかな、退屈。って思うと同時に、これが終わっちゃったら本当に先輩とはお別れなんだって、しみじみと寂しい気持ちが押し寄せてきた。
***
最後のホームルームが終わろうとしていた。うちのクラスの担任だったのは校内では人気の女教師で、涙まじりの最後の挨拶に、もらい泣きしている女子が結構いた。
感慨深い、が、周りがわんわん泣いていると意外と冷静になれるもんなんだなって、机の上に置かれた卒業証書を眺めて思う。
中学は本当に、最初の2年間は消し去ってしまいたいくらいの最悪な思い出ばかりだったけど、高校の3年間はそれなりに楽しかった。俺もだいぶ大人になって、クラスメートともそれなりに仲良くやってきたと思う。特に最後の一年、ここのクラスは、ハブられることもなく、かと言って過剰に構われる訳でもなく、程よい距離感で付き合ってくれるいい奴らばかりで良かった。
「──みんな!卒業しても、自分の道をまっすぐ進んでください!」
教室が拍手に包まれる。女子の泣き声と、教卓に泣き崩れる担任と、それを支えに入るのがクラスでも手のかかるタイプの男子生徒だったりして。主演女優賞は先生、助演男優のあいつ、結構いいやつだったよなって思い返して、俺も拍手を贈る。中々、舞台映えしそうなホームルームだった。
「4組、盛り上がってたね」
「まーね。先生の挨拶、良かったよ」
「結構ドライだね……」
ホームルームの後は、教室でみんなで別れを惜しんだり、卒業アルバムに寄せ書きをしたり、一緒に写真撮ったりで、中々解放されなくて。でもそれも、友達という存在がいるからこそだ。
俺のスマホにもクラスメートと撮った写真が何枚か入ってて、それまで、学校ではこんな経験無かったから心がくすぐったくなる。
「椋とも一緒に撮っていい?最後の制服記念」
「いいけど……結構ボロボロだけどいい?」
「……俺が来るまでに何があったの」
ホームルームの後は昇降口で待ち合わせして帰ろうと約束をしていた椋は、既にブレザーのボタンもカフスボタンも、ネクタイも学年証も根こそぎ持っていかれた後で、もみくちゃにされたのか髪もぼさぼさで、喧嘩でもしてきたみたいにボロボロだった。
人気だとは思っていたが、これは俺の予想を遥かに超えていた。つーか女子怖い。
けど椋は、何事もなかったかのようにいつものふんわりとした笑顔を浮かべていて、白い紙袋を俺に見せてくれる。バレンタインに比べて控えめの紙袋の中には、可愛い封筒に入れられたお手紙と、綺麗にラッピングされた一輪ブーケが沢山入っていた。
「なんか、こういうのってすっごく嬉しいよね。やっぱりお手紙を貰うのが1番嬉しいなって言ったら、みんながお手紙くれたんだ。だからボタンとかも断りきれなくて……」
きっとこの沢山のお手紙と花束をくれたのはファンクラブの後輩達だろう。すごい、ちゃんと統制取れてるんだなって感心して、それでもやっぱり優しい椋には呆れてしまう。
せっかくだから写真を撮るなら「卒業式」の看板の前で撮ろう!って言う椋に促されて手を引かれると、背後から俺を呼ぶ声がかかる。
「瑠璃川先輩!!」
「えっ?」
「すみません、来ちゃいました。少しお時間いいですか?」
振り返るとそこには、いつぞやの授業中の教室で遭遇した後輩女子が居て。そう言えば卒業式においでって約束したっけなって思い出して、ちらりと椋を覗き込む。行ってきてもいい?って。
「行ってきなよ、僕ここで待ってるね」
「ありがと!」
椋の笑顔に見送られ、人気の多い校門前ではなく、少し外れた校舎脇のスペースにやってくる。
この子、前に話した時は告白とかじゃないって言ってたけど、連れてこられた場所は、客観的に見ると割と少女漫画の告白シーンみたいなシチュエーションだ。
「すいません、2人一緒のところをお邪魔しちゃって」
「別にいいよ。ほら、やっぱまだボタン残ってるから。どれにする?カフスにする?」
「瑠璃川先輩は畏れ多くて、みんなが近づけないだけだと思います……」
「そんな事ないって。ほら、どれにすんの?」
あわあわと手を振る後輩ちゃんに、手持ちのソーイングセットからハサミを取り出して促す。畏れ多いって何だ。これでもだいぶ、この3年で親しみやすくなったはずだぞ。
けれども遠くの方からこちらをちらちらと伺う人影が多いように感じるのは、近寄れないとか、そういった理由があるからなんだろうか。椋みたいなもみくちゃのぼさぼさだけは避けたいなぁと思って、思わず身構える。
「じゃあせっかくなので、第1ボタン、いいですか?」
控えめな後輩ちゃんの言い方にうん、と頷いて、ちょきん、と糸を切って丁寧に外し、小さな手に手渡す。後輩ちゃんはそれをぎゅっと大事そうに握りしめて、そっと胸ポケットにしまい込んだ。
「サインもしとく?」
「あはは、是非お願いします!」
そう言ってこれに、と、手渡されたのは真っ白な新品の色紙。
サラサラと、これまで何度も書いてきた、書き慣れたサインに猫のマークを書き入れる。そういえば、劇団を離れたらもうサインなんてする機会無くなっちゃうんだよなあって、当たり前の事を思う。中3で初めて、劇団の広報用に自分のサインを書いた時、「なんか急に芸能人になったみたいだね」って椋と二人で笑っていたのを思い出した。
「……はい、どーぞ」
「ありがとうございます!」
やばい、急に色々な思いが押し寄せてきた。
卒業式もホームルームも全然平気だったのに、急に寂しさに襲われた気分だ。
けれど後輩の前で泣き出す訳にも行かなくて、気付かれないように涙を堪える。
「あの、それで。これ、受け取っていただけませんか?」
後輩ちゃんがずっと持っていた茶色の紙袋から出てきたのは小さな花束で、淡いピンク色のスイートピーを包み込む、真っ白なかすみ草が綺麗。
小ぶりで、でもおしゃれでセンスのいい可愛い花束に、思わず顔が緩んでしまう。
「……可愛い。ありがとう。」
「わ、私の方こそ、沢山ありがとうございます。ご卒業おめでとうございます!」
顔を真っ赤にして、深々とお辞儀をして去っていく後輩ちゃんを見送る。そうして、俺は少しだけ考えて、出していたハサミでこっそりと第2ボタンもちょきんと切り落とした。
流石に椋みたいにあそこまでボロボロになるとは思っていないけど、誰にあげるんですかとか、また突っ込まれたら面倒だから隠しておこうって。
先約があるから、って言ったけど、ただ、他の誰かに渡すのが嫌だってだけだ。
なんとも女々しい考えで、俺まで少女漫画脳に影響されてしまっているのかもしれない。
椋の第2ボタンは誰にあげたのかな、それがどんな子だったとしても、なんか面白く無いなってイライラして、冷たいボタンをポケットの中で握りしめた。
帰ろう。早く寮に帰ろう。醜い独占欲でいっぱいになる前に2人きりになりたい。
さっき別れた椋の姿をキョロキョロと探していると、再び背後から「瑠璃川先輩、」と、甲高い声で呼び止められる。声の方を見ると、真っ赤な顔に涙を浮かべた女子生徒が数名、男子も混ざっている。これは……?と少し考えて、先ほどの後輩ちゃんの言葉が蘇ってくる。
──先輩は畏れ多くて、みんな近づけないだけだと思います
つまり、あの子をきっかけに、これまで俺を守っていた防波堤が崩れたという事か。
劇団で応援してくれるファンは、役柄のせいもあるんだけど、男の人の方が多かったりする。学校でも、この前の学園祭の劇でお姫様役をやってから、男子に呼び出される機会が増えた。当然ながら俺としては不本意だったんだけど、「貴重な男性ファン層だから大事にしろ」って、あの銭ゲバヤクザから言い聞かされているから、ファンサを怠った事はない。
でもこうしてみると、おれ、意外と女の子にもモテるらしい。
***
通い慣れた通学路は、もう夕焼け色に染まっていた。結局ボタンはあの後輩ちゃんにあげた一個だけで、みんな、自分の気持ちを伝えられればそれで満足だって言う子が多くて、お花を貰ったり、ずっと応援してますって言葉を貰ったり、結構感動したし、嬉しかった。
なんだかんだで俺が後輩への対応に追われている間も、椋は校門前で記念撮影会状態になっていて解放してもらえなかったらしく、俺が戻ってくるまで待っていてくれた。最後の校門前の看板の所でのツーショットも、後輩の女の子が泣きながら撮影してくれた。
両手に溢れるくらいの花束、それから色紙、数え切れないほどの思い出を胸に、もう最後になるであろう椋との下校のひと時を噛みしめる。
「幸くんが来てくれて本当に助かったよー。このまま夜まで帰れないんじゃ無いかって思ったもん」
「流石にあのままだったら先生に怒られるでしょ」
花束が多過ぎて抱えきれず、ちょっと椋に手伝ってもらっていた。俺がもらう花束はいつも、劇団の宣材写真の影響か、百合の花が多い。帰ったら紬に手伝って貰って、花瓶に活けよう。百合は流石に難しいけど、ピンクの薔薇やかすみ草は、ドライフラワーにしても可愛いんじゃないか。
色々考えを巡らせていると、少し後ろを歩いていた椋が足を止めて、「幸くん」って、静かに俺の名前を呼ぶ。誰もいない住宅街、夕暮れ、むせ返るような百合の匂い。
遠くの方では車の音が聞こえる。
振り返って見た椋が、にっこりと懐かしい笑顔を浮かべていて、あの頃みたいな藤色のセーラー服を着ているように見えた。
「楽しかったね」
何が?とは聞き返さなくてもわかってる。毎日一緒に帰った帰り道も、中庭で食べたお昼ご飯も、放課後の図書館も椋がいた教室も、学園祭も体育祭も、全部、楽しかったから。
もうこのボタンの取れた制服に袖を通す事も無ければ、あの学び舎に生徒として足を踏み入れる事も出来ない。この道をこうやって2人で歩く事も無いのだろう。
先ほど後輩達の前では堪えていた涙が、椋の前だと塞きとめるものが何もないかのようにぽろぽろと零れ落ちてくる。やだなぁ。ここの所ずっと、泣いてばかりいる気がする。それは多分、椋と一緒にいる時間が今までよりも増えたからで、大事な思い出がこうやって積み重なっていく分、貯めきれなくなってこぼれ落ちてくるのが涙なのかなって思った。
「ごめん、泣くつもり、なかったんだけど、」
両手は溢れんばかりの花束で塞がって、零れる涙が、拭いきれずにポタポタと鮮やかな花を濡らす。
目の前が滲んでいて、前がよく見えなくて、涙を拭う代わりに、ぎゅうっと目を閉じた。
瞬間、唇に冷たい感触。
けれどそれは甘いキスでは無いようで、固い感触に思わず瞳を開くと、小さな丸いプラスチックが、唇に押し付けられていた。
「……これあげるから、泣かないで」
「え……?」
まあるい、藤色。
それが制服のボタンだと気付いたのは、唇から離れていってからだった。
「何これ」
「第2ボタン」
「嘘だ、だって、みんなに持ってかれてたじゃん」
「幸くんにあげる予定で、死守しました」
嘘だ嘘だ。あんなに女の子に囲まれて、もみくちゃにされて、第2ボタンなんて、真っ先に貰われてしまっても不思議じゃないじゃん。なんでまだ残ってんの。
「だってこういう物は、好きな子にあげるもんでしょ?……あれ?も、もしかしていらなかった?」
当たり前みたいに椋が言って、でも俺の表情を伺って急に自信が無くなったのか、最後の方は小さな声になっていたけど。
好きな子の、第2ボタンを貰う。好きな子に、あげる。そんなの少女漫画の王道だ。あの椋が踏襲しないわけがないじゃないか。数時間前にちょっとだけ心に生まれた、醜い独占欲が急に馬鹿らしくなって、俺は涙の残る顔で笑う。
「そんなの、欲しいに決まってんじゃん……」
けれども俺の両手は花で塞がっていて、今受け取るにはこれを地べたに置かなければいけない。
「どうしよう、持ちきれない」
「あはは、じゃあポケットに入れとくね」
困っていると椋が、俺の制服のポケットにそっとボタンを入れてくれる。あ、でも待てよ。今そこには、俺がさっき制服からちょん切った、自分の第2ボタンも入っているはず・・
「どっちがどっちだか分かんなくなっちゃった」
「え?何が?」
まぁいい。俺が二つまとめて持っていても、問題ないだろう。
寮に帰って、二つを可愛いリボンで結んで飾っておこう。ピンクがいいかな、水色がいいかなって考えながら、花束を抱え直して椋の隣を歩き始める。
思い出は沢山もらった。
溢れて、溢れて、零れ落ちた分まで全部、掬い取って大切に箱の中にしまっておきたい。
***
春なんて来なければいいって、どんなに願ったとしても、春はやってくるし花は咲く。
あの日あの人がこの場所で言った言葉は正しかったなって、夜空をバックに満開に咲く桜を見上げて、さっき開けたばかりのペットボトルのジュースをごくりと口に含む。
今日は満開寮のお花見だった。中庭に咲く桜の木の下に料理やお酒を持ち寄って、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。社会人組はもちろん、仕事で中々集まれない天馬くんやカズくんも来てくれて、久しぶりに全員集合することが出来て、みんな楽しそうだ。
いつもだったら、その賑やかな輪の中に入っていく事が多いんだけど、今日はなんとなくそんな気分になれなくて、ちょっと離れたところのベンチに座る。
「……ちゃんと食べてる?」
「紬さん」
一人でちびちびとジュースを飲んでいた僕の頭上から、そう、聞き慣れた声がして、皿に盛られた料理を手渡される。紬さんは着ていたコートの前を合わせて、寒いねって呟いた。
「まだ春には早いかなって思ってたんだけど、綺麗に咲いたね」
「……そう、ですね」
「…………戻ってきてって、言えた?」
いつの日かにこの人に、ここで言われた言葉を思い出す。
──またね、って意味。喧嘩別れするわけじゃないんだから、君が帰る場所になればいい──
けれどそんな大それた事、今の僕には言えるわけもなくて、
「まだ、です……僕みたいなちっぽけな男が、幸くんの帰る場所になんてなれない。ううん、帰ってきてなんて言えない、彼には、後ろなんか振り向かないで前だけ向いてて欲しい。……僕、なんか、いなくても、」
ひと息でそう言い切った僕を、驚いた様子でまん丸な目で見つめて、紬さんは続ける言葉を失う。
「椋くん、」
しゅわしゅわと音の鳴るピンク色の炭酸飲料から唇を離して俯いた僕の手を、紬さんの手がぎゅっと包み込む。寒いと言った言葉通りに冷えたその手は、けれど、線の細いこの人には不釣り合いなくらいに、大きくてあったかい、大人の手のひらだった。
「どんなに強い子でも、帰る場所が無いと、誰も頑張れないよ」
「え?」
「君だって、走り続ける事は出来なかったでしょう?」
当たり前のようにそんな事を言う、紬さんの笑顔越しに、みんなの賑やかな声が聞こえた。
びゅうと冷たい風が吹いて、夜桜が空を舞う。
痛いくらいの優しさに包まれて、桜の舞い散る季節、春。

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