1
俺の神様は、世界で一番美しくて、世界で一番歌の上手い少年の姿をしていた。
例えばインタビューなんかで初恋の思い出なんかを聞かれたとしたら、対外的には、幼稚園の先生だったりを話題に挙げたりするものなのだが、俺にとっての初恋は、高1の春だった。
誰かの事を想って、焦がれたのは、生まれて初めての経験だった。
「リョウの歌声は天使みたいだな。羽根が生えてるみたいに軽やかで綺麗だ」
夕暮れ時のレッスン室、オレンジ色の光を浴びてそんな事を言う横顔は、珍しく笑顔を含んだ柔らかなもので、隣同士並んで歌を口ずさんでいた俺まで、表情が綻んでしまう。
「そう?俺は、コウの歌の方がよっぽど、キレイだなって思うけど」
「ふふ、お世辞はいいよ」
「俺が、そういう事言うタイプに見える?」
「見えないな、」
コウの動きに合わせて、短い金色の髪の毛が、揺れる。
夕陽に透けてキラキラと輝いている。
コウは、いつも一番最後まで残って自主練をしていくような、努力家だった。
その王子様みたいなクールフェイスの裏側で、血の滲むような努力を重ねている事を知って、彼に対する見方が大分変わった。努力家で、意外と負けず嫌いで、それから、たまにこぼれ落ちる笑顔が可愛い。そんな、みんなが遠巻きにするコウに「一緒に練習してもいい?」って初めて声を掛けたのが俺の連れのケンで、以来、俺とコウとケンの三人でつるむ事が増えたんだった。
今日はたまたま、家の用事かなんかでケンが先に帰ってしまっていた。
新しい課題曲を渡されていたから、帰りがけにケンが悔しそうな顔をして、「抜け駆けするなよ」って言い残して帰っていったのがつい2時間ほど前のこと。子供みたいなケンの言い方に「分かった、気をつけて」って苦笑するコウのシャツの裾を引いて、『抜け駆け』のお誘いをしたのは俺の方だった。
「ねえ、ちょっとだけ、練習してかない?」
「そんな・・ケンが怒らないか?」
「言わなきゃわかんないって。今日の曲、コウの声で歌ってるの聴きたい。」
聞き分けの悪い俺の我儘に、困ったように眉を下げて、コウは頷く。
「じゃあ少しだけ、な?リョウも歌ってくれ、一緒にやろう」
コウは美しい。柔らかそうな髪の毛を耳にかけて、譜面を手に取る。
イマドキの俗っぽい恋の歌も、コウの手にかかれば泣きそうなほどに儚いラブソングに聴こえてしまうから不思議だった。コウの声にはもっと、壮大なメロディーが似合いそうなもんだけどなって、心地よい音に身を委ねて、目を閉じる。俺の耳にはコウの声だけが響いていたから、部屋の外の誰かの声とか、世界中の雑音から切り離された特別な時間の中で、夕陽を浴びて歌うコウは、間違いなく俺の神様だった。
だから、これは、ほんのちょっとのいたずら心。
「・・コウ、」
「え?」
夕暮れ時のレッスン室。その隅っこにしゃがみ込んで、2人だけの特別な時間。
ラブソングを口ずさむコウの、ピンク色の唇にそっと口付ける。
ーーー静かな世界の歌が止んで、後には、呆気にとられた顔のコウと、彼によって突き飛ばされてしりもちをついた俺の、間抜けな姿があった。
俺今、何をした?コウに向かって。コウは友人で、大切な仲間だ。同年代の同業者はみんな競争相手でしかない芸能界において、コウだけは、そういう人間の汚い部分から遠いところにいる、一番綺麗な存在なのだと思っていたのに。
真っ赤な顔で唇を乱暴に拭って、コウは泣きそうな顔で俺を見下ろしていた。
「・・あ、ごめん。・・今度、オーディションがあって・・そこでキスシーンがあったから、つい」
我ながら苦しい言い訳だった。いくら純粋で優しいコウでも、こんな嘘、信じてくれるわけがないって思ったんだけど、コウは、涙で滲んだ切れ長の瞳を優しそうに細めて、微笑んでくれる。
「・・なんだ、そうなのか?」
「そう、ごめん、嫌な思いさせたなら謝る。」
「いや、大丈夫だ。・・俺の方こそ、突き飛ばしたりして悪かった。」
怪我は無いか?って、気遣うように差し伸ばされた手を取って、俺は、何もなかったかのように、いつも通りの表情を取り繕う。感情を誤魔化すことには慣れていた、だから、コウには何も勘付かれていないはずだった。
「もう帰ろう、リョウ。そろそろ暗くなってしまう」
「そうだね」
優しく引かれた手が、温かかった。いつもクールなコウの手が、人並みに温かいことが泣きそうなくらいに嬉しかったんだけど、俺はそれすらもなかった事にして、そっと顔を伏せる。
心臓が、痛い。
恋を自覚した。よりにもよって、神様に恋をしてしまった。
こんな風に誰かに恋い焦がれるのは初めての経験だったから、それがこんなに、痛みを伴うものだなんて知らなかった。微かに触れただけの唇は温かくて柔らかくて、初めてのキスは、涙みたいにしょっぱい味がした。
コウは俺の神様だ、それは、昔も今も変わらない。
ただ、少年の姿をした神様が、美しい大人に成長した今でも。
俺は、拗らせた想いを伝える事が出来ないままで、彼の隣に居続けている。
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2
天気のいい、穏やかな午後だった。
耳元で聴こえる鼻歌は小さく優しいもので、バニラみたいな甘い香の匂いに包まれていた。頭を大きな温かい手のひらで撫でられていて、その心地よさに、覚醒しきっていない意識のままでうっとりと身を委ねる。眠っていたのだろうか、夢を見ていたようだ。まだ芸能界でデビューする前、前の事務所でレッスン生だった頃の、幼い夢だった。と、働かない頭で考える。
乾いた目を擦っていると、頭を撫でる手のひらの持ち主の長い前髪越しに、こちらを見下ろしている優しい色の瞳と、目があった。
「ーー・・リョウくん?起きた?」
「ま、・・もる?」
俺を真上から見下ろす、へらりと、覇気のない顔で笑うその人をまじまじと見つめて、そこでようやく自分が、彼の膝を枕にしてうたた寝をしてしまっていた事に気づく。
「え?あれ・・なんで?衛?」
「なんでって・・リョウくん、曲作りに付き合ってくれるって言ってたから」
そうだ、思い出した。衛が曲作りに煮詰まってるって聞いて、特に予定もなくて暇だったから、気分転換にって、衛の作業部屋に遊びに来ていたところだった。それで寝落ちしてしまったなんて、一体俺はどれだけ眠かったのだろうかと呆れてしまう。重たい体を起こして辺りを見渡すと、なるほど確かにそこいら中に音符の書き込まれた楽譜が散らばっていて、俺が寝ている間にも衛が作曲を続けていた事が伺える。
その中の一枚を手にとってメロディーをくちびるでなぞると、甘くて青い、音が紡がれた。それがなんだか、衛にしては可愛らしい曲調だなって、音符の並ぶ五線譜を眺めて呟く。
「随分と可愛い曲だね」
「それ、今度のリョウくんのソロ曲」
俺の譜面を覗き込んで、そんなことを言う。
頭と頭がくっついてしまいそうな程に近い距離感に鼻がすんと鳴って、衛から甘いバニラの香りがして俺の鼻をくすぐった。
「・・切なくて胸が痛むような愛の歌にしたいな。うーん、それとも、ほろ苦い恋の歌?」
「えー。失恋の歌を俺に歌わせるの?」
「リョウくんそういう、切ないの上手そうじゃない?」
「衛は俺のことなんだと思ってんだよ」
へらへら笑って、俺の手に楽譜を握らせる衛は、本人の知らない所とはいえ、中々の鬼畜だ。
切ないに上手いも下手もあるのか、しかも今の俺に、失恋の歌を書くなんて。
「これはねリョウくん、・・青春時代の恋の歌だよ。初恋は実らないってね」
「初恋?・・甘酸っぱくてキュンキュン〜みたいな気恥ずかしいのは無理だからね」
「うん、だから、とびっきり綺麗な曲にする予定。・・やめとく?」
衛の言葉が呪文みたいに頭に響いていた。
チョコレートを溶かしたような甘い色した瞳が、俺の様子を伺うようにゆるゆると笑っている。
出来る?って、たまに見せる達観した大人みたいな顔して、俺の顔を至近距離で覗き込んでくるのはズルい。ほんっとーにズルい。全部を見透かしている瞳から逃れるようにして、彼の胸に顔を埋めた。バニラの匂いに全身が包まれているみたいだった。
「・・いーよ。切ない愛の歌ね。」
「楽しみにしてるね、」
温かな手のひらで頭を撫でられて、そして、リョウくんの歌声が好きだと、そんな意味合いの言葉を付け加えられる。穏やかな午後の陽気は気持ちが良くて、あれだけ熟睡したと言うのに、衛の声を聞きながら、まだ眠れそうな気がした。
ーー衛の隣は居心地がいい、良くも、悪くも。
「そういえば、ケンとコウはどこ行ったの?」
どんな歌詞が付くのだろうと、五線譜とにらめっこをしながら、うとうとと微睡んでいると、遠のきそうな意識の中で、そういえばあの2人はどこへ行ったんだろうって思い出す。今日は久しぶりに全員が揃ったオフで、せっかくだからと、コウが腕によりをかけて夜ご飯を作るのだと朝から張り切っていたはず。部屋にいるのか、それとも出かけてしまった?俺を腕の中に抱いて作曲を続ける衛の顔を見上げてそう問いかけると、彼はその穏やかな笑みのままで、答えをくれる。
「夕飯の買い出し、だって。」
なんて事無いみたいに言った衛の言葉に、「ふーん」と返した俺の呟きが思ったよりも冷たくて、俺が一番驚いた。別に俺も行きたかったわけではない、置いていかれた事に、子供みたいに駄々を捏ねるつもりもない。
けど。
神様を独り占めしていた、あの夕暮れ時のレッスン室。
帰りがけにケンが言った、「抜け駆けするなよ」という、何気ない言葉。
その時は、新しい課題の事だとばかり思っていたんだけど、「抜け駆けするなよ」の言葉に二重の意味が込められていることを、4年という月日をかけて知った俺は、今、途方も無い絶望感に駆られている。
4年間ずっと、コウの隣で、コウの事ばかり見ていた。
だから他の誰も気付かなくても、俺だけは。あいつの気持ちの変化に、気付いてしまっていた。
初恋は実らないものらしい。
だからと言ってすっきり諦められるほど、幼い恋でも無かったから、この恋は厄介なのだった。
「ん、まーーい!!やっぱりコウの作るハンバーグが一番美味い!最高!」
真正面に座るケンが、血色の良いほっぺたをパンパンに膨らませて、出来立てのハンバーグを頬張っている。いくらなんでも詰め込み過ぎだろう、リスかよ、って、呆れたように笑った俺に、ケンは幸せいっぱい、とでも言いたげな満面の笑みで返してきた。
ケンは可愛い。仕草も、コロコロ変わる表情も。それでいて裏表がなく、誰に対しても分け隔てない男前な性格をしていたから、昔から男女問わず、友情も恋愛も問わず、モテた。人によく好かれる男だった。俺もそのうちの一人で、他者と深い関わり合いを持ってこなかった俺の懐に、一番最初に踏み込んできたのがケンだった。 面と向かって言うことは無いけれど、ケンは多分、俺の一番の友人なんだと思う。
「そうか、よかった。ケンが手伝ってくれて本当に助かったよ、ありがとう」
「このハンバーグのためなら!手でも足でもいくらでも使ってよ!」
ケンは基本的に、誰にでも優しい。
だから、博愛主義のケンのトクベツは、中々わかりにくい。俺が知る限り、こんなにモテるのにこれまで特定の恋人を作ったことは無かったから、なんとなく、ケンが「みんなのことが好き」っていうのは、「誰にも興味がない」って事なのかなって、思っていたんだけど。
誰にも興味がないわけでは無かった。人知れず、たった一人の、トクベツがいたってだけ。
あの日俺に向かって言ってた「抜け駆けするなよ」という言葉は、出会ってから今までの長い月日の中で唯一、博愛主義のケンが見せた、「独占欲」ってやつだった。もちろんそれに、ケン自身が気付いていたかどうかはわからないんだけど。
そして、こちらもまた。
箸を動かして、会話に参加しているふりをして、俺の隣でケンの事を見つめて控えめに笑ってる、コウの横顔をちらりと盗み見する。コウはコウで、感情が表情に出にくいから、喜怒哀楽も、好き嫌いも、わかりにくいっちゃわかりにくいんだけど。久しぶりのオフに、二人で買い出しに行って、帰ってきてからも並んでキッチンに立って、作ってたのがケンの好物のハンバーグだって。それでこんな風に幸せそうな顔して笑っちゃうの?って、俺だけが思ってる。
「ほんとだあ!コウくん天才!世界一!」
「ありがとう、衛。・・リョウはどうだ?口に合わなかったか?」
呑気そうな衛に対しても、口数の少ない俺に対しても、コウの態度は何も変わらない。
俺を気遣って不安そうにそう問いかけるコウに、肉汁が滲み出る美味しいハンバーグを、ひとかけら口に放って、味を堪能する。にっこりといつも通りに、笑えたはずだった。
「ううん、美味しいよ」
初恋はきっと、実らないからこそ、永遠に美しい。
恋の延長線上で身体の関係を伴ってしまったら、一気に現実的で汚いものになってしまうから、実らない方がいいんだよと、諭すように衛が言った。
「セックスは汚いものなんだ」
「俺らのこれは、汚い関係なの?」
「汚いよ。・・綺麗なリョウくんを、汚してる」
眠れない夜は、乱れたベッドをゆりかごみたいにして、衛の作った歌を子守唄代わりにして眠るのが通例になってしまっていた。衛の甘ったるい香りが、中毒性の高い薬物みたいに、俺の神経を蝕んでいく。セックスは汚いものだと言いながらも、俺を抱く衛は、いつだって優しくて、甘い。さっきまでピアノを弾いていた繊細な手で俺の身体をなぞって、恋人でもない俺に、美しい愛の言葉を囁く。衛の紡ぐ言葉は、彼の作る歌のように繊細で、壮大で、綺麗なものが多いんだけど、そんな言葉を口にして、まるで一つの物語を奏でるみたいに、夜毎、俺のことを抱くのだった。
けれども熱を持ったその瞳は、俺では無い別の誰かを写しているようにぼんやりと視点が定まらないのだから、大人って嘘つきで、ズルイ生き物だなって思う。
別に衛の中に、誰がいてもいい。俺のこと、誰かに重ねていたとしても、別に。
嘘つきでずるいのは、俺だって同じだ。
「眩い光の中に君がいて、例えばそれが幻想だったとしても、触れたいなって思う」
「歌詞?」
「そうだよ。幻想でしか、触れられない存在。」
ゆるゆると閉じた瞳の裏に、まだ幼かった頃の君の姿が写って、俺の名前を呼ぶ。
リョウ、って。少し低い、澄んだ声が、光の中に溶けて行く。
「まもる、キスして」
ぱちりと目を開いたら、困ったように眉尻を下げて笑う衛の顔があった。キスしてって言う雑なお願い事にもはいはいと律儀に頷いて、そのまま、唇が触れ合う。セックスの余韻を残したぬるい温度の口付けは、いつもみたいな甘いバニラの香りがして、心地よい。
ゆるく空いた唇を舌でなぞって、歯列をなぞって。
次第に深くなるキスの中で苦笑を零しながら、からかいを含んだ調子で、衛が言う。
「・・リョウくん、積極的・・」
「う、るさい」
舌を絡め合う熱に浮かされて、誘うように衛の細い腰に跨ると、熱を含んだ瞳で俺を見上げる視線とかち合った。初恋のあの人を想う歌を紡ぎながら、他の男と寝る俺も、よっぽど、
「ねえ、もういっかい、シたい。」
衛の言っている事も分かる気がする。
俺はきっと、コウの事は汚せない。
ーー・・
カランコロンとミルクティーをかき混ぜる手は、いつの間にかに大人の男の手になってしまっていて、そんな大きな手としっかりした指先をぼんやりと眺めながら、その手でコウの事を抱いたりするのかなって、真昼間からいかがわしい想像を働かせてしまったりして。ランチタイムのお洒落なカフェのテラス席で、俺は人知れず罪悪感を抱いていた。
・・いや、逆?
幼さの残る大きな瞳で、俺を見つめて楽しそうにお喋りを繰り広げるケンは、どこからどう見ても可愛い生き物だ。もしかしたらケンが下なのかもしれない。
「もー、聞いてんの?リョウ!!」
「は?え?何が」
よっぽどのうわの空だったのであろう、ゴロゴロ苺の乗っかったタルトをフォークでつつきながらぼーっとしていた俺を急かすように、ケンは少し音量を上げて、名前を呼ぶ。
「だから!リョウ最近、益々綺麗になったよね。恋でもしてるの?って聞いたの!」
「・・・は?」
恋、だと?
ケンの裏表がなくて、さっぱりしていて、空気を読んでいないようで読みまくって気を使いまくってる性格は、俺も気に入っていた。
だから今日のこれも、俺の中の変化の何かに気付いての問いなのだろうとは、思うんだけど。
でも、お前がそれを言うのは、俺があまりにも惨めすぎるんじゃないか。
ケンは生クリームがたっぷり乗ったガトーショコラを頼んでいた。柔らかいチョコレートがフォークに刺さって、形のいい唇の中に運ばれていくのを見送る。
「・・恋ならしている、」
ずっと、たった一人に、報われない恋をしてきた。
4年間、もうすぐ5年目に突入する。お前らの事、見ていたよ。2人の間の空気、距離感、視線のやりとり一つとっても、その恋は穏やかで、優しいものだって分かるくらいには、俺は、誰よりも2人の近くにいたんだ。
「え!カマかけただけだったのにマジだった?誰?」
「うっさい、ケンには絶対に教えない」
「えー?いいじゃんいいじゃん、リョウのけち」
絶対、教えてやんないけどな。
ぷーっと膨れるケンのガトーショコラを指差して、俺はにやりと笑う。
「それ、美味しそう。一口ちょーだい?」
「え?ガトーショコラ?いいよ!!」
一口でいいのに、結構大きなかたまりのケーキをフォークに刺して、たっぷりのクリームをつけて、極上の笑顔で俺に「アーン」と差し出すケンは、正に理想的なカレシそのものだった。
ケンは誰にでも優しい。ケーキくらいなら、こんなに簡単にくれるんだけどな。おんなじノリで、お前が大事にしてる、あの子を頂戴?なんて言ったら、この可愛い顔がどんな風に歪むのかな。
ーーそんな恐ろしい事、俺には出来そうもない。
口の中に広がる意外とビターな味が、生クリームの甘さで緩和されていった。
もぐもぐと咀嚼しながら、俺はふと思い出して、一枚の紙を取り出す。
「嘘だよ。恋なんかしてない。・・今度の俺のソロ曲が、壮大な愛の歌で、疑似恋愛みたいな状態だけど」
「うわ、楽譜?見ていいの?」
「ケンだけ、特別。」
びっしりと書き込みのある五線譜の片隅には、恋を連想するキーワードが書き連ねてあった。
その一つ一つを目で追っかけるケンの顔は、キラキラ輝いている。
「ケンは、恋から、何を連想する?」
ーーどんな恋をしているの?って、探りを入れるつもりで聞いた俺に、うーんと両手を組んで唸りながら、真剣に考え込んでくれる。やっぱり、ケンはいいやつだ。
「恋・・かぁ。うーん、優しい、キラキラ、可愛い、綺麗、真っ白な花、・・むずかし」
「あっはは、ケンは作詞、向かないかもね」
「もー、うるさいよ」
俺の笑いにはそんな文句で返して、最後のガトーショコラのカケラを口に放る。
ガトーショコラを飲み込む最後の一瞬、ケンは少しだけ声を潜めて、俺に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、内緒の話、と呟いた。
「・・・そういやコウ、ソロ曲で作詞手伝ってるって言ってた。どんな曲なんだろ」
ーー・・
「これ・・タイトル?プリムラ・・?」
「仮、ね」
「春の始まりを告げる、小さくて可愛い花だ。」
「さすがリョウくん。正解です」
差し出された用紙を受け取って、その一番上に記されたタイトルを読み上げる。
歌詞はほぼほぼ仕上がっていた。夕食も終えて、みんな揃ってるダイニングで話を切り出した衛に、興味深そうに、コウとケンが覗き込んでくる。
「あー!この前言ってたやつ、出来たの?」
「リョウの曲を作ってるのか?」
二人の視線を一気に受けて、ジロジロ見るなって牽制した俺を、衛はテーブルの向こう側で微笑ましげに見守っていた。
「リョウくんの曲のテーマが『花』。コウくんには『光』、ケンくんには『星』をイメージして曲を作ってる。みんなが歌ってくれるの、楽しみだな〜」
プリムラは、まだ肌寒い冬の空の下で咲く、甘く可憐な花。それを思い浮かべながら、心の中で衛が書いた歌詞を読み上げた。
俺が、これを、一人で歌うの?このすごく可愛いメロディの、この曲を?
ーーーこの拗らせた初恋の想いをたっぷり詰め込んだ、この曲を?
美しい文字の羅列の裏に、叶わなかった恋の軌跡が描かれている。そんな・・これは・・・、俺のコウへの想いそのものだ。衛に気付かれているとは思えないけど、でも、切なくて美しい愛の歌を書きたいと言っていた数日前の衛の言葉を思い出して、血の気が引いていくのを感じる。
「衛の作る曲にはいつも驚かされるからな、すごいな、俺も楽しみだ」
「コウのはもうできてるんだろ?いいなあ、俺も作詞してみよっかな」
「大丈夫か?ケンが作詞したらきらきら星になってしまう」
「ひどっ!さらっとひどい事言うのやめて〜」
「?・・きらきら星は名曲だぞ?」
噛み合っているようで噛み合っていない、そんな微笑ましいやり取りの中で、ケンはコウの腕を取って、わざとらしく泣いてるふりをする。もちろんそんなものはいつものおふざけだってわかってるんだけど、そんなケンの頭を撫でてよしよしと微笑むコウの横顔がものすごく優しくて、俺は、胸の奥底を鉛で撃ち抜かれたみたいに鈍い痛みに襲われた。胸が痛い、吐きそうなくらいに。
2人の間に入り込める言葉が見つからなくて、口を噤んでいると、俺を見つめる、一対のチョコレート色の瞳と目が合った。テーブルの向こう側の衛は、取り留めもない曖昧な表情を浮かべていて、俺の沈黙を取り繕うように、やんわりと口を開く。
「よーーし!いいアレンジ閃いたからちょっとこもるね!!」
「わっ、いきなりでかい声出すなよ〜びっくりするじゃん」
「ははっ、ごめんケンくん。・・ちょっと手直ししたいからリョウくんも付き合って?」
言葉尻は疑問形だけど、俺に拒否権は無いみたいな口ぶりだった。
テーブルの上の楽譜と歌詞が書かれた紙をひとまとめにして、俺の腕を少しばかり強引に引くと、衛はそれ以降は無言のままでダイニングを後にする。振り返ると、あっけにとられた表情のコウとケンが残されていて、申し訳なかった。
腕を引かれて連れて行かれるのは、どうやら、作業部屋の方では無くて衛の部屋のようだった。
「ちょっと、」
「・・」
「腕、いたい、」
部屋の中に引っ張り込まれて、静かな空間に俺の声だけが響く。
「おい、まも・・」
ガチャリと鍵を掛けられて、そのまま、視界が暗に変わった。
抱きしめられている事に気づいたのは、側にいるといつも感じる衛の甘い匂いに包まれたからだった。おい、なんでこの状況でお前が俺のこと抱きしめるんだよ、ここはそういう場面じゃ無い。だっておまえは、俺のそういう存在じゃ無い、のに。
「リョウくんは、態度に出しすぎ。」
「な、・・んで」
「そんな今にも泣き出しそうな顔してたら、あの二人がびっくりするよ」
腕の中に抱かれて、幼子を宥めるように撫でられて。
別に、泣くようなところじゃないし、涙も出てこなかったけど、それよりもまず、全てを察しているかのような衛の様子だ。
「おまえ、知ってて・・」
「・・なにが?」
「俺の気持ち、全部知ってて、この歌書いただろ」
「・・・そうだって言ったら、どうするの?」
少し高い位置にある顔を見上げると、やっぱりいつもみたいに穏やかそうな笑顔を浮かべた衛の顔があって、愕然とした。
だって、何にも知らないような顔、してたじゃないか。俺の気持ちも、あいつらの関係も。
それを全て知ってなお、俺のことを抱いて、コウへの愛の歌を俺に歌わせるなんて。
「・・どういうつもりだよ」
じろり、と睨みつけた視線をゆるい笑顔でかわして、衛は俺の腕を取る。
「どうもこうもないよ。ただ、リョウくんが可哀想だなって思っただけ」
「はぁ?!ケンカ売ってんの?」
「違うよ、俺は・・」
優しく握られた手首にそっとキスをされて、俺の手のひらはそのまま、衛の柔らかな頬へと運ばれる。ひんやりと冷えた手には頬の暖かさが心地よくて、熱を与えられる感覚に身を委ねていると、指先に、冷たい雫が触れた。
馬鹿、なんで、
「俺はただ、リョウくんに、そんな顔させたくなかった」
「・・だからって、なんでおまえが泣くんだよ」
だって衛が泣くから、濡れた目尻に口付けて、唇で涙の雫をすくう。
拭っても拭っても涙は止まらなくて、俺まで泣きそうだったけど、堪えた。
「俺は君と同じだから」
衛の言葉の、意味、とは。
考える前に強引に腕を引かれて、ベッドに引き倒された。掴まれていた手首が赤い、息つく暇もなく唇をふさがれて、舌を割入れられる。くちゅくちゅと舌が絡み合う水音と感触に、酸素が足りなくて頭がぼーっとしていたんだけど、無理矢理上衣の前を肌蹴られて、俺の素肌を這う大きな手のひらが異様に冷たくて、意識が引き戻される感覚にぞわりと背中に鳥肌が立った。
いつも優しく、こわれものを扱うように俺を抱いてくれる衛は、それでもどこか上の空だったように思うんだけど、今のこの、後ろを慣らす余裕もないくらいに、乱暴に俺を抱く衛の瞳が、真っ直ぐに俺を見ていることが震えるくらいに嬉しくて、痛みを逃すために顔を埋めたシーツの中で気付かれないように泣いた。
「俺もリョウくんと一緒。・・彼のことは、どうしても汚せなかった」
何度目かの行為の中で、なんともなしに衛が言ったのを、俺は聞き逃していなかった。
衛がコウの事を大切にしているのはずっとわかってた、けど、その想いの形がどんなのかまでは考えた事は無くて。2人で曲を作っているのだとケンが言っていた。きっとそれは優しくて儚い、壮大なメロディなんだろうなって思って、俺はそんな、歌という衛が作り上げた世界で、互いを高め合う2人のことが堪らなく愛おしくなってしまう。
同じなんかじゃないよ、衛。おまえのコウへの想いは、一片の濁りのない純粋なものだってわかる。俺の初恋は綺麗なものではない、もっとずっと醜くて、汚くて。
「ーーー同じなんかじゃない、」
コウの事もケンの事も大切なのに、2人の仲が壊れちゃえばいいのにと思ってしまう自分が一番汚くて、大嫌いだった。そして俺に、そんな度胸が無かった事に、今ひどく安堵している。
目がさめるともう明け方で、外は薄暗いながらも太陽が昇りかけていた。何度果てたのかもう最後の方はよくわからなくて、一晩中やり続けて多分お互いに寝落ちしたらしい。ぐちゃぐちゃのベッドの中で身体を起こすと、全身が痛い、お尻も。それからなんとも言えない不快感を感じて、そういえばこいつ、ゴムを使ってなかったなって今更ながら冷静になった。いつもだったら寝落ちしてしまった朝は目覚めたら綺麗な姿に戻っていたから、俺が寝ている間に衛が綺麗にしてくれてたんだなってまじまじと思って、隣で呑気な顔で眠る衛のことをど突きたくなった衝動を堪えた。重たい体を引きずって起き上がる。身体はベタベタだった。シャワーを浴びて、部屋に戻ろう。
「・・リョウくん、起きた・・?」
もぞもぞとベッドを抜け出した俺の気配に気付いたらしい、衛の声に振り返る。
重たそうに開いた目は赤く染まっていて、布団から覗く白い素肌も併せてそれがものすごく性的なものに見えて、昨晩の一連の出来事を思い出してそっと顔を逸らした。
「衛、どうしよう」
「んーー?」
テーブルの上の楽譜を一瞥して、ポツリと呟くように言った俺に、衛の寝ぼけた声が続く。
「俺にはあんな綺麗な曲、歌えそうにない」
「え?・・・・ちょっ、待って、リョウくん!!」
脱ぎ捨てられた下着とシャツを取って、バスルームへと向かう。勝手知ったる衛の部屋だ、どこに何があるかなんて、すっかり把握している。棚の中にあるのは先日自分が置いてったバスタオルで、洗濯されてしまい込まれたらしく、取り出して顔をうずめると衛の匂いがして、また、涙が出そうになった。つらい、あいつの存在が、俺の中にだいぶ染み付いてしまっている。
「リョウ、おはよう。」
衛の部屋を出て、ミネラルウォーターを取りに立ち寄った共用ルームで、朝食の支度をしているコウに遭遇した。可愛い緑色のエプロンをして、新妻みたいだなっていうおじさんみたいな感想はすんでの所で飲み込んだ。フライパンからは美味しそうなウィンナーのいい香りがしている。
一晩中やりまくっての寝起きで、シャワーを浴びて髪の毛も乾かしていない、声も若干掠れている、やましい事だらけの俺に、朝一番にこのコウの笑顔を見るのは眩しすぎた。
「お、はよ、」
「早いな、まだ7時前だぞ?」
「ちょっと目が覚めちゃって、」
「そうか。・・ミルクでいいか?」
ミネラルウォーターを取りに来ただけで、二度寝をするつもりだった。が。コウの笑顔に否とは言えず、透明なコップに注がれた白い液体を断りきれずに受け取る。乾いた喉に牛乳を流し込むと、喉に絡みつくみたいに不快だったけど、支度を終えて向かい側の椅子に座ったコウの笑顔で、それは帳消しにされた。
ーー俺も君と一緒。
昨夜衛が言った言葉の意味を一晩中かけてようやく理解した俺は、改めてコウの顔をじっと見つめてみる。コウは格好良くて綺麗で、それから優しい。感情表現には乏しい所があるけど、それでも、花が咲いたように笑った顔は可愛い。たまらなく、好きだなって思う、けど。
俺はきっと、コウの事は汚せない。それは俺自身が汚れてしまった今でも変わらない事実で、だからきっと、俺とコウの距離感は、今のこの状態が正解なのかもしれなかった。
叶うならずっとコウの隣に、居られればいいなって思ってる。
だから、俺の中のコウはずっと綺麗で気高いままでいてほしい。
「ちょっと、まだ話は終わってない!俺はリョウくんのためにこの曲を作ったんだから、リョウくん以外にはこれを歌える人はいないと思ってる、」
降り注ぐ朝日とコウのキラキラした笑顔の爽やかな朝の空気に浸っていたのに、バタバタと慌ただしく共用ルームのダイニングに駆け込んできた衛の姿に、俺もコウもぎょっと反応した。かろうじてシャワーは浴びてきたらしいが髪の毛はびしょ濡れで、適当に着てきたのでろう、緩いシャツから覗く首元と腕に、赤い鬱血の跡を散らしていた。俺が付けたキスマークだって気付いた時には時すでに遅しで、真っ青になって振り返ると、俺とは対照的に顔面を耳まで真っ赤に染めたコウの姿があった。
「・・リョウ、衛。俺はメンバーの色恋沙汰にどうこう言うつもりは無いが、ええと、」
「コウくん、ごめん、これには深いわけがあって!!」
「コウ、誤解だ!衛はコウに汚いもん見せんな!消えろ!」
「消えろって・・えぇぇひどい・・」
ゆでダコみたいになったコウが、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「衛、リョウを泣かせるような事があったら、俺はお前を許さないからな」
「待って、コウ、ほんとに違うから」
キリッとした顔で娘を嫁に出すお父さんみたいなことを言っちゃうコウはかっこよかったけど、色々誤解だ。俺らは付き合っても居ないし、俺は嫁に行くわけでもない。そして昨日ピーピー泣いていたのは衛の方だ。誤解を解きたかったんだけど言い訳を重ねたら更に墓穴を掘りそうで、俺は途方に暮れた。それから、恥じらいを含みながらも、必死に状況を受け止めようとするコウの健気さにも泣きそうになった。
後から騒ぎを聞きつけて珍しく早起きしてきたケンに、俺と衛がボロクソに怒られたのは言うまでも無い。
.
3
俺が「花」、コウは「光」、ケンは「星」。じゃあ衛はなんなの?って、ベッドの中で聞いた俺に、衛はゆるりと微笑んで一言、囁くように告げた。「愛だよ、リョウくん」って。
「おまえの愛は壮大なんだろうな」
「そんな事ないよ、ちっぽけな愛だよ」
ひと月前にリリースされたコウのソロ曲を聴いた俺は、楽曲の端から端まで、衛のコウに対する想いみたいなものが詰め込まれているのを感じた。あれが壮大な愛じゃなかったら、お前の想いはなんなんだよって思う。神様みたいなコウが奏でる光の調べは、切なくも優しい。
今月はケン、来月は俺の曲がリリース予定で、最後を飾るのが、2ヶ月後の衛のソロ曲だった。だからもうとっくに曲は仕上がっている筈だったけど、衛のやつは誰にも内緒で収録を終えてしまったらしく、その内容は同じグループの俺やケン、コウにすら知らされていなかった。中身が気にならない、と言ったら嘘になるけど、まあそれは、リリースまでの楽しみにとっておく事にしよう。
ところで問題だった俺のソロ曲、だが。
「・・結構原曲にアレンジ加えてるんだね」
先日事務所からサンプルを受け取ってきたものを、二人で並んで、耳を傾ける。
楽譜で手渡された時に見たメロディラインは可愛らしい雰囲気だったけど、音になると幻想的な効果が加えられていて、しっかりと衛らしい曲調が守られていた。
「ほんと、歌えないって言い出した時はどうしようかと思ったよ・・」
「・・与えられた仕事はきっちりこなすよ」
あの時は感情的になってしまったけど、衛が作ってくれた曲を、俺が無下にするわけが無い。
俺にしては珍しくレコーディングでは上手くいかなくて相当手こずったんだけど、それでも、完成された曲を聴いてみると、やっぱり俺だけの特別な曲が愛しく思えてくるのだからゲンキンなものだ。
「Free Linerは、造語?」
サビの一節だ。衛の作る曲の世界観では、よく造語や独特な言い回しが使われる事が多い。このフレーズもわざわざ辞書を引いたんだけどそんな言葉は無くて、どういった意味合いなのかなってずっと気になっていた。
「・・Primulaの言葉遊びだよ。・・リョウくんが、ふわふわと自由に何処へでも飛んでいけますようにって意味も込めてるけど」
深い意味は無いよと歌うように軽い調子で言って、衛は俺のおでこに口付ける。
ぎゅうと抱き締められるとバニラの香の甘い匂いが鼻先をくすぐって、俺はゆったりと瞳を閉じた。
「飛んでっちゃってもいいよ、俺には、繋ぎとめておく理由は無いから」
よく言うよ、こんなに強く抱きしめておいて。
衛の隣は居心地がいい。その事実を、認めざるを得ないって、今なら思える。
汚い身体も、汚い心も全て曝け出してしまっているから、自分を偽る事なく素でいられるというのはすごく楽だった。それに、この甘い匂いが身体に染み付いて、俺が衛の生活の一部になるくらいの頃には、きっと、俺はこいつから離れられなくなってしまうであろう事は目に見えていた。
「どこにも行かないよ、俺がいなくなったら、どうせ衛はまた泣くんだろ?」
腕の中から見上げた衛の顔は、俺の強がりみたいな言葉にも変わらずににこにこと笑っていて、その笑顔はやっぱり締まりがなくて、なんだか気が抜けてしまう。
作曲、という間接的な愛情表現では、あんなに壮大なスケールのものを作れるのに、触れたり触れられたりの直接的なところは下手くそなんだよなって、まぁそれも俺も人の事は言えないんだけど、愛していると上手に言えない衛は、やっぱり愛し方も愛され方も苦手なのだろう。
「衛の行き場を無くしたちっぽけな愛くらい、受け止めてやるよ」
「リョウくん、おっとこ前・・!」
初恋は実らない。から、美しい思い出のままでとっておくのが一番いい。
ハタチの誕生日を目前にして、少しばかり大人になった俺は、居心地のいい腕の中に抱かれてそんなことを考えていた。
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4
暑い暑い夏の盛りだった。普段だったらこんな時間にわざわざ外に出る事なんて無いのに、仕事が予想外に早く終わって、思いがけず自由な時間を与えられていた。服を見ようか、それともここからだったら事務所が近いからそっちに行く?この時間だったら誰かしらいるかもしれない。色々考えを巡らせていると、雑踏を行き交う人波の中で、ビルの壁面に大きく飾られた広告写真を見つけて、俺は思わず「あ、」と声を上げた。そうだ、確かここの若い女性向けのファッションビルとうちの事務所がコラボをしていて、月替わりでここに新曲の告知を出させてもらっているのだ。
変装用のサングラス越しに見える男の横顔に数ヶ月前のやり取りを思い出して、やっぱり一度事務所に寄ろうと思いつく。今日が衛のソロ曲の発売日だった、事務所に行けばサンプルが届いているはず。
「あ、」
「あ、リョウくん、もう上がり?」
CDを受け取って、誰かいるなら遅めのランチに誘おうかなって思っていたんだけど。
打ち合わせをしている衛と遭遇したのは、想定外であった。
「ちょうど良かった。もうすぐ終わるから、一緒に帰ろう?」
もうすぐ夕方だというのに外はまだ蒸し暑くて、じんわりと汗の滲む額が不快だった。寮までの距離を散歩しようって言い出したのは衛の方で、促されるままに並んで隣を歩く。
人気の少ない住宅街、車通りも殆ど無かったけど、衛の足取りはあまりにものんびりとしていて、爺さんみたいに歩く男だなって思った。このままのスピードで歩いていたら、寮に着くのは日が暮れてしまうんじゃないかってくらいに。思えば俺が知ってる衛の事なんてほんの一握りで、こうやって2人きりで隣で歩いた事も、今まではそんなに無かったのかもしれない。
衛に気付かれないように事務所で貰ってきた例のCDは手持ちのカバンの中にしまってある。これはあとでこっそり一人で聴こう。「愛」をイメージして作った楽曲。衛がどんな風にコウの事を愛しているのか、実に興味深かった。
それは、コウを巡る恋のライバルとしてはもちろんだけど
衛の愛に触れてみたいっていう、俺自身の好奇心もあったりして。
てくてくと斜め前を歩いて、ふと、思い出したように振り返る。
「ねえ、誰の曲が一番大変だった?」
半年前、まだ楽曲を作っている最中に、衛は曲作りに煮詰まっていると頭を抱えていて、そこまで頭を抱えてるのは珍しいなって、俺も気にかけていたんだけど。仕上がった曲はどれもこれも衛らしい完成度の高いものばかりで、大変だったことなど微塵も感じさせないくらいだったから、どの曲が一番大変だったのかなって、実は密かに興味があった。
「一番はねえ、やっぱケンくんかな。世界観が迷子になりそうだった」
「へー、意外。ケンらしい曲に仕上がってんなって思ったけど」
だからだよ、と、意味ありげに笑った顔が印象的だ。
そういやここも恋のライバルだから、そういう意味合いでのやりにくさなのかもしれない。
「・・実は、リョウくんの曲が一番最初に出来上がったんだ」
「は?スランプだって言って、俺のこと呼ばなかった?」
「他のみんなの曲がスランプだったんだから嘘じゃ無いよ」
屁理屈みたいなことを言って、衛は照れくさそうに頬をかく。
「リョウくんの事を考えてたら、パーーっと曲が降ってきたんだ。それがあんまりにも可愛い曲で、俺が一番びっくりした」
「か、可愛いって・・はぁ?・・俺のこと考えてたって、なんなの。」
恥ずかしいことを平気で言う衛に、こっちまで恥ずかしくなって、誰もいない住宅街に俺の声だけが静かに響いて、消えて行く。
「・・・衛にとっての俺って、一体なんなの?」
俺らの仲がコウとケンにばれて数ヶ月、具体的な関係性は2人には曖昧にぼかされたまま、一緒に寝るのはやめられずに、今までズルズルと続いてしまっていた。衛の事が好きなのか?と聞かれたら、俺は絶対に好きでもないやつとセックスなんて出来ない性格だから、多分好きなのだろうと思うけど、それが純粋な恋だの愛だのと言われたら、そういう甘い関係では無いのだと言いきれる。
俺にとっての衛は、セックスできるくらいにはまあまあ好きで、大切な存在。
じゃあ衛は?衛にとっての俺って、なに?
詰め寄るように距離を詰めていくと、少し高い位置にある顔が、困ったように笑ってる。
「その事について、数ヶ月考えて・・結論が出たんだけど・・」
衛の後ろの太陽がオレンジ色に染まっていた。
ランチじゃなくて夕飯の時間になってしまったなって、昼ご飯を食べ損ねた事に今更気付く。
「もうこの歳になると、愛だの恋だのに振り回されるのに、疲れちゃうから、ゆっくりと愛を育むような、穏やかな恋愛をしたいと思っていて・・」
こいつの言い回しはほんとうに抽象的でじれったい。歌でならきっと、この男は上手に愛を伝えられるのに、言葉にすると途端に不器用になるのだからおかしなものだった。
「だから、あのね?・・・俺は君と、穏やかな恋がしたいです」
「は、・・・は?」
2人の間の時が止まってしまったかのような静けさの中で、衛の声が頭にガンガンと反響してるみたいだった。チョコレート色の蕩けそうなほどに甘ったるい瞳は、今はもう真っ直ぐに俺のことだけを見てる。ゆったりとした動作で手のひらを取られてくいと引かれ、キラキラした晩夏の夕暮れに影が差す。甘い匂いと生暖かい感触で、そっと唇が触れたのだと理解した。
おい、ここは住宅街のど真ん中だぞ。
「ねえリョウくん、オトナの恋をしませんか?」
愛だの恋だのは煩わしいって思っていたはずなのに、俺はもう、こいつの瞳に振り回されている。
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