長時間のフライトには慣れていた、筈だった。
時差ボケみたいにぼんやりした頭で、さっきから邦楽のヒットチャートを流すタクシーのラジオの音に耳を傾けていた。アイドルとしてデビューしてからはこっちの活動は控えていたのだが、どうしてもと古くから懇意にしているクライアントからの依頼で断りきれなかった久しぶりの海外公演を終えて、半月ぶりの日本。となりの座席に並んで置かれたバイオリンのケースを指先で撫でて、ふっと、目を閉じると、耳へと流れ込むように、世界で一番愛しい声が聴こえる。
半月ぶりに、会える。
演奏会やコンクールで世界中を飛び回って、止まり木を持たない鳥のような生活には慣れてしまっていたつもりだったから、たった2週間会えなかっただけで、誰かに対してこんなにも強く焦がれる思いをする羽目になるなんて思わなかった。甘い恋とは程遠いけど、激情に近いくらいの強い想いで会いたいと願うその人は、きっと、何事も無ければあの「家」で、僕の帰りを待ってくれている。
でもまぁ、帰宅後真っ先に会いに行けるような関係でもなければ、お互いに顔を見た瞬間に抱き合うような、そんな可愛らしい性格をしているわけでもなく。
結局は共有ルームへと直行して、トランクいっぱいに詰め込んだお土産を配るところから始まりそうだけど。ユニットリーダー。母のような、父のような、そんなポジションにいて、それが心地いいと感じられるようになってしまった今、自分の欲望よりもリーダーとしての理性的な部分の方が優っていた。家族みたいなみんなに会いたい。それもまた、止まり木を持たなかった僕が新しく知った、穏やかな方の感情だった。
ーー・・
理性が勝ったと、思っていたつもりだったんだけどな。
「おかえり、翔」
「なんで」
片手で重たいスーツケースを引いて、反対側の手でバイオリンケースを肩にかけて、その上先程のタクシーで渡された領収書を握りしめていた。明らかに両手がふさがっていて、しまった、玄関のオートロックキーを押す指が足りないぞなんて思っていたりして。エントランスでむむむと唸っていた僕の目の前で、サーーっと自動ドアがあいた。ちょうどよかった、入れてもらおう。誰かな?って顔を上げた僕は、目の前に現れた人物に言葉を失う羽目になる。
「おつかれのところ悪いんだけどさ、ちょーっと、付き合ってくれる?」
つかみどころのないふんわりとした口調だったけれど、有無を言わせないような柔らかな圧力を込めて、甘いたれ目がとろりと微笑みのかたちになる。指先で弄ぶようにくるくる回されている黒の物体はどうやら車のキーのようで、それを視界の端で認めて、僕は、堪えきれずに笑みが漏れ出すのを感じていた。
「ふっ・・ふふ・・あはは、いいよ。どこに連れてってくれるの?」
「ドライブ。行き先は、どこへでも。」
ごく自然な動作でスーツケースを奪われて、半分くらいは身軽になった僕の腕を引いて耳元で囁く。
「ごめんね、俺なんかよりも先にみんなに会いたかったかもしれないけど。」
どきりと、胸の奥が騒めいて。
「・・きみが、こんなにも情熱的だとは思わなかった」
「えー?」
外はもう真っ暗になっていて、でもまだ、深夜にはちょっと遠い時間帯。
半月ぶりに見た横顔は、以前となんら変わりのないようにも見えるし、もしかしたら少し、痩せた?なんて。目が合うだけで柄にもなくドキドキと心臓の音が止まらなくて、ニコニコと微笑む笑顔の水面下で、こんな、まだ人の往来があるかもしれない時間帯に君に抱きつきたくなってしまう衝動を必死に堪えている。
「孝明、」
もしかしたら寮ではみんなが僕の帰りを待っていて、岳や悠人なんかはご飯を作っていてくれてるかもしれない。ルカが、お土産楽しみにしてるねって言ってた、玲司も、歩も。すっかり身体に馴染んでしまった家族の顔が次々に頭に浮かんできて、その遠くの方でうっすらと、罪悪感みたいなものも生まれていた。けど、でも、僕の本音は。
ぎゅうっと、黒いシャツの裾を握って、ありったけの勇気を出す。
「攫って、孝明」
「・・仰せのままに」
その夜、ぼくは黒のセダンに攫われた。
***
海に連れて行って、と言い出したのは、僕の方だった。
特に理由があったわけではないんだけど、昨日まで滞在してた場所が海の近くで綺麗だったから、なんとなく、日本の海が見たくなっただけ。等間隔に置かれた街灯のオレンジ色の光が足早に通り過ぎる、夜のハイウェイは思いのほか空いていて、そういえば今日は平日だったなって思い出す。
車の運転は性格を表すっていうけど孝明の運転はそれが如実に出ていて、慎重なのか大胆なのかよくわからないトリッキーなハンドルさばきは、タクシーやマネージャーの運転に慣らされていた僕にとっては中々に新鮮だった。法定速度ギリギリで高速を飛ばす黒塗りのセダンは、結構、まぁ、悪どい。でも素直に楽しかった。孝明と一緒にいると楽しい。スリルでいっぱいの絶叫マシンみたいな男だと、運転席で鼻歌を歌いながらハンドルを握る、いたずらっこみたいな子供じみた表情の横顔を見上げて思う。
「免許持ってたんだね」
「ん?・・あぁ、普段はそんな乗らないんだけどね。翔は?」
「ハタチになりたてくらいの時に南仏に長期で住んでた事があって・・その頃に移動に必要だって言われて国際免許取ったんだけどそれきりかな。東京の道は怖くて中々ね・・」
「へぇ、すごいな。じゃああっちでずっと運転してたんだ?」
「ふふ。運転してたって言っても、結構な田舎道だからね。こっちとはわけが違うよ」
トリッキー、とはいえ手慣れた様子の孝明の運転は、こういうものだと思って慣れてしまえば意外と心地がいい。スピードは早いけど、急ブレーキを踏むわけでも無茶な運転をするわけでも無い、危険そうに見えて、危ない橋は絶対に渡らないのだろうなって、安全圏から抜け出そうとしないこの男の性格にやきもきする事も無いわけでは無い、のだけれど。
出来るだけ、軽い言い方になるようにしたつもりだった。
雑談の一つみたいに何気なく、甘えをそっと潜ませて。
「会いたかったよ、君に。この半月ずっと。」
軽快だった鼻歌が止んで、少しの沈黙が車内を包む。
ちょっと重たかったかなって、曖昧な笑みを浮かべると、真っ直ぐ前を見据えて車を走らせる孝明もまた、同じような表情を浮かべていた。僕は孝明のこの横顔がたまらなく好きで、ライバルで、戦友で、そういったビジネス上のパートナーとしてなら隣にいるのを許されていたから、だったらじゃあって、僕はこの顔をこの位置で眺めていたくて、パートナーに甘んじようと決めたのだ。
「・・俺もだよ、翔」
真っ直ぐに愛情を向けるには、どこまでも都合の悪い関係性ではあった。
だから、こんな風に助手席に誰かを乗せることがあったのだろうかって、思いはすれど尋ねる事はしない。僕は孝明のそういう存在じゃないし、それを望んでいるわけでもない。
それでも、アームレストをかつかつと叩く指先すらも恋しくて、触れようと、絡めようと彷徨った右手を、運転中だからと堪えて大人しく膝の上に戻す。
「ーーやっぱり大人しく寮で迎えて、部屋に連れ込むべきだった、」
「・・ーーっ、」
運転中、高速道路、目に痛いくらいのオレンジ色。
前を見据える瞳の光は変わらないまま、孝明の左手が、僕の右手を捕まえる。
ーーそんなことできないくせに、って言いかけた僕の指先に、彼の指先がキスするみたいに触れて、続けようとした言葉は力尽くで黙らせられた。
「まぁでも、外に連れ出して良かったかな。」
「っ・・どうして?」
舌を絡めるみたいに指先がぬるりと絡まって、乾いた指の一本一本を撫で上げられる。
くすぐったい、それからいやらしい指の動きに目線を逸らして窓の外に目を向けると、カチカチとウィンカーを出して、車は高速を降りようとしているところだった。
窓ガラスに映った濃い色の瞳と、一瞬、視線がかち合う。どう猛な獣みたいに飢えた視線に捉えられて、言葉が出てこなかった。
「歯止めが効かなくなりそうだから」
僕はいっそ、そうなってほしいとすら願っているんだけどなぁ。
ーー・・
まだ9月だと言うのに、シーズンの終わった海は、嘘みたいに静かで風が冷たい。
人気のないパーキングに車を駐めて、甘い空気から逃げ出すように助手席から降りると、想像以上の寒さでぶるりと身体が震える。海水浴場が近いせいか、砂けの多い地面に革靴を履いた足元を取られて、よろけそうになった僕は孝明に手を引かれて姿勢を立て直した。
「あ、りがとう?」
「俺も革靴だったわ。こりゃ失敗だったな」
足元を指差して子供みたいに笑って、孝明はそのまま、僕の手を引いたまま、歩き出す。
半歩先を歩く男が口ずさむのは車の中で聴いた軽快な鼻歌の続きで、聴いたことのない、でもどこか懐かしいようなメロディが、僕の世界中で一番好きな音となって、静かな海に響き渡っていた。
砂浜の上を、足を取られながら、まるで恋人みたいに指を絡めあわせて歩いて、そういえば、こんな風に外で手を繋いで歩くのなんて初めてなんじゃないかって思ったら、急に気恥ずかしくなって顔を赤らめたりして。でも、顔が赤くても、手を繋いでも、誰にも気付かれる事はない。
だって今は夜で真っ暗で、ここには君と僕しかいないのだから。
砂浜のど真ん中で足を止めて、繋いだ手のひらをぎゅうと握り直すと、熱を持った頬とおんなじくらい、絡めた手が熱い。驚きで振り返った孝明の手を引いて、少し高い位置にある彼のことを見上げてそっと瞼を伏せると、直後、こつんと額を小突かれる感触と共に、柔らかな声が耳朶に響いた。
「しょーお、・・外はだーめ。」
煮え切らない、優柔不断な態度はいつものことで、目を閉じて見えないけど、きっとあのいつもの困ったような顔で笑ってるんだろうなって事くらい容易に想像出来る。どうせ誰も見てないのにって、手を引いて距離を縮めて、ぽすりと音を立てて肩口へと額を埋めると、孝明の香水の香りが鼻先をくすぐって、思わず、彼に抱かれる時のことを思い出して泣きそうになる。
「ーーもどかしいな、こんなにも、僕の全部できみに触れたいなって思うのに」
触れたい。キスしたい。
でも出来るなら、唇だけじゃなくて、もっといろんなところに触れてほしい。
焦がれるように目を開くと、先程車の窓ガラス越しに僕を捉えていた一対の獣の瞳がそこにあって、僕は顎をすくい取られて、性急に、唇が重ねられる。絡みつくように侵入してきた舌を受け入れて、息つく暇もないくらいにキスを繰り返していく合間に瞳を覗き込まれて、そっと離れた隙間から、吐息みたいな小さな囁きが、唇を震わせる。
「・・それはちょっと、殺し文句かな?」
「ダメって言われると、余計に欲しくなるんだよね」
「おまえは意外と、頑固だからなぁ・・」
「否定はしなっ・・ーーっは・・ぁ、」
頭がビリビリと痺れるみたいな、呼吸さえも奪われるくらいのキスの中で、ぼくは、あぁ出来るならばこんな関係がずっと続けられればいいとすら思っていた。優柔不断なのは僕も同じで、世の中から批判されるっていうリスクを背負ってまで関係を明かすような事はきっとしないんだけど、だからこそ、自由な恋愛が出来ない立場の僕たちは、内緒の逢瀬を繰り返すスリルを、もしかしたら楽しんでいる部分があるのかもしれない。
長いような短いような時間をかけて唇だけを触れ合わせるゲーム。
誰にも気付かれないように。
「ーー残念、タイムリミットだ。」
「・・えー?」
「日付が変わる前に、みんなに翔を返してやらないと」
気分が乗ってきたところを遮るようにそんな事を言われて、けれどそれすらも楽しいと思える自分がいる。最後にちゅっと孝明の唇を奪って、微笑みを浮かべながら、そっとその腕を引いた。
「・・帰ろっか?みんなが待ってる。」
帰り道、道すがら、ぎゅっとその腕に抱きついたら、孝明が面食らった顔で見下ろして来たけど僕の知ったこっちゃない。腕くらい組んでもいいじゃないか。
だってここは夜の海で、今ここには君と僕しかいないのだから。
.

コメントを残す