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「……別にわざわざ、急いで帰ってこなくても良かったんだよ?」
「死ぬ気で長期ロケこなしてきて、飛んで帰って来た恋人に対してそれを言うの?」
「…もう、吹っ切れているよ。だから一人でも大丈夫だったのに」
「あーもう、俺が、心配だったの!わかって?」
ひと月の予定だった海外ロケは、当初の予定より大幅に巻いて、1週間の猶予を残して予定していた分を撮り終えていた。元々気候の変わりやすい地域だったので雨で撮影出来ない日を考慮に入れた上での余裕のあるスケジューリングだったため、晴天続きだったのが功を奏したのだと監督が嬉しそうに話していたのを思い出す。「眞宮くんは晴れ男だねぇ」という言葉には「よく言われます」とだけ返しておいて、残りの1週間は観光して行ってもいいし、休暇にしてもいい、好きに使って、と言われた俺は、迷う事なくそのまま帰国のためのチケットを取りに空港へと向かったのだった。
単純に、先に日本に、あの寮に帰っているであろう翔が心配だったからだ。
それで、急いで帰ってきてみればこの言い草だ。大きなスーツケースを伴って帰国した俺を見つけて開口一番にこいつがなんて言ったと思う?「なんでいるの?」だぞ?流石に傷つく、ビジネスクラスが空いていなくて、無理やりエコノミーの硬い椅子で帰ってきたっていうのに。
「嘘だよ、冗談。……おかえり、孝明」
「………お前はどこまでが冗談でどこからが本音なのか本当にわからないよ」
暖かな身体を抱きしめてひと心地ついた俺に、翔は一層深いため息をはいて億劫そうに告げた。
「せっかくだけど、今日は部屋に帰ってくれるかな」
「……………は、それも冗談?」
唖然とした俺の声は、やや強引な口付けによって塞がれてしまう。
出発前のような、塞ぎ込んでいる様子は確かに無くて、本人が言っているように何かをきっかけにして吹っ切れたのであろう事は容易に想像できたんだけれど。周りの人間や他のメンバーには絶対に見せないような不機嫌な様子を押し隠そうともせず、翔は、キスの合間に、ひとりごとみたいにポツリと呟く。
「イギリスでやったコンサートの、放送が、今夜あって」
「……ん?」
「………今回の仕事、追悼コンサートだったんだ。あの人の。…だから」
追悼コンサート、という言葉を心の中で反芻して、意味を飲み込む。だから渡英前に、あれほどの不安定な精神状態になっていて、帰ってきてからもずっとピリピリしているのか。
翔はそのまま、鼻が触れそうな距離でぎゅうっと目を閉じて、それから先は少しだけ言いにくそうに、続ける。
「だから………その、」
「だから俺に、居なくなれって?」
「……そうは言ってないよ、孝明、おねがい、」
「無ー理っ。それ聞いちゃったら、もう帰れないよ。…絶対に一人にさせないからな」
抱きしめて、宥め賺すように目尻にキスをすると、観念したのかそうじゃ無いのか、なんとも言えない顔をした翔が顔を伏せて肩口に埋もれる。これは、ううん。どうしたものか。
「なー、夕飯なに食いたい?」
「…………………………なべ」
ご機嫌を取るような俺の問いにはちゃっかりと顔を上げて、丸い瞳がねだるようにこちらを上目で覗き込んでくる。全く、ゲンキンなやつだ。こいつも、俺も。
ーー
翔の部屋のソファは座り心地がいい。海外帰りの時差ボケと、程よく暖められた室温もあって、座っているだけで寝落ちしそうになるけれど、もうすぐ番組が始まるのだから目を覚まさなければいけない。ローテーブルにはもう殆ど中身の無くなったもつ鍋と数本の空のビール缶が転がっていて、それらをもたもたと片付けながら、翔が振り返る。
「眠いなら、寝ててもいいよ」
「……お前はなんとしてでも一人で見たいんだな…」
「わかってるなら一人にしてくれてもいいじゃないか」
普段、温厚で穏やかな気性の翔の、じとりと責めるような目線はそうそう見られる光景ではなく、よっぽど嫌なんだろうなぁってのはこちらも察しがつくんだけど、今回ばかりは彼の言うことを素直にはいはいと聞いて部屋へ戻るわけにもいかない。だってお前、俺が居なかったら、どうせ一人で泣くんだろ?静かに、音も立てずに、誰にも見つからないようにって考えちゃうと、どうしても一人にする気にはなれなかったのだ。
「おいで、翔」
鍋を下げて、空き缶を濯ぎながら、カウンターキッチン越しにこちらをじっと見つめる翔に声を掛けると、無言の返答が返ってきて。それを横目にしゅぽ、っとまだ開けていなかったハイボールの缶を開けて、一口だけ流し込む。
「今日の僕は、ちょっとだけピリピリしてる」
「見りゃわかるって…」
「……もしかしたら、すごく取り乱すかもしれない。そういうのを、君に見られたくない」
「あのさぁ……」
布巾で手を拭いて、自らも冷蔵庫からピンク色のチューハイの缶を取り出してくる。そんなことを言いつつも、大人しく隣に戻ってきてくれるのは、付き合って数年、少しずつ詰めてきた信頼の距離なのかもしれなかった。こいつは、この神さまみたいな笑顔で、世界中の人間を愛しているかのような博愛主義者に見えて、その実誰とも一定の距離を保っている、臆病な野生動物みたいなやつだった。長い年月を掛けて触れることを許した人物にすら、絶対に腹の内までは見せないような。
だからもう、こんな風に不機嫌を表にさらけ出してくれるのは、だいぶ心を許していると思ってもいいくらいなんだけど。縮まらない最後のこの、3人掛けソファの真ん中に空いた、人一人分の距離は、どうしても埋めてやりたい。
「取り乱してもいいよ、泣いてもいい。目でも耳でも、俺が塞いでてやるからさ、」
「……孝明」
「おいで、一緒に見よう」
国営放送はCMがないから、淡々とした絵面の番宣が続く。それらを手持ち無沙汰に眺めていて、ようやく壁のアナログ時計の針が11時を指し示す頃、間に空いていた距離感がおずおずと狭められる。壁に備え付けの、やたらとでかいテレビからは重厚なチェロの音色が聴こえて、隣で俺の肩に頬をぴたりとくっ付けた状態の翔が、ごくりと息を飲む音が、やけにはっきりとこちらまで届いた。

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