[麒麟]
よき王であったと、思う。
民に愛され、天に背くこともない、良き王だった。それは間違いない。けれどいつから道を外れてしまっていたんだろう。俺にはもう、わからないけど。重たい体を冷たい床に横たえていると、部屋の扉が重そうな音を立ててゆっくりと開くのが視界の端に認められた。
「翼」
俺の一番好きな音で、この名前を呼ぶのはたった一人しかいない。
それから、もう何年も見たことのなかったような穏やかな笑みで、俺の背をゆったりと撫でる大きな手。
「翼、すまない……お前には、長いことつらい思いをさせた」
それは、あんたが付けてくれた無二の名前だった。蓬莱で育ったこの胎果の王は、俺にあちらの世界で自由に、大空を羽ばたく鳥の美しさを語って、その名を付けてくれた。麒麟にその名前?って、最初は文句も言ったけど、なんだかんだであんたが付けてくれたこの名前が、俺は、大好きで、それで…
ここ何十年も、もうずっと、あんたは俺に笑いかけてくれることも無くて、いつだってしんどそうな顔をして、戦場へ向かう後ろ姿しか見てこなかった。帰ってきても血の匂いを全身に纏っていたから近づくことも叶わなくて、俺はただ、その苦渋に満ちた横顔を遠くから見ている事しか出来なかったんだけど。傾いた国がもう一度立て直すことはなくて、ただいたずらに争いと民の死を重ねて行くばかりの王を、天はついに見放した。その災厄は全て、俺が一身に引き受けるという形で。
「……もういいよ、志季。もういいんだ、もう人を殺さなくてもいいし、アンタがつらい思いをする事もない」
「翼、」
良き王として導く事が出来なかったのは麒麟である俺の責任だ、だから、俺は俺と俺の王の死をもって、天へと償わなければならない。ゆったりと首にかかる冷たい手のひらに頬を添わせて、そっと、瞳を閉じる。暗になった視界に、あんたの低い声が静かに響いた。
「お前は残るんだ、翼」
「……………え?」
「残って、新しい王を選ばなければいけない」
「は?………嘘だろ?嫌だよ、アンタまで俺を置いていくの?」
「翼、すまなかったな。お前が言うような、良き王に俺はなれなかったんだ」
最後にそうやって、アンタは笑ったけど。ほんとうに笑うのへったくそだよな。もっとまともな顔しろよ。そりゃあもうずっと、俺はひとりぼっちの麒麟だったけど、それでも最初の頃は楽しかったじゃん。二人で国を良くするって張り切って、夜な夜な家臣たちと酒盛りをして。城中の人間を集めて飲み比べをして、それでもあんたが一番酒に強かったのを覚えている。王様、すげーなってみんなで笑ってたのに、酔っ払って騒いでいるみんなの中でただ一人、素面で仏頂面で、それでも盃を傾けるあんたがおかしくておかしくて仕方なかったのだ。思い出の中に出てくるのは、もう、側にはいない人たちばかりだったけどな。本当に良い王様だったよ。融通はきかないし、仕事ばかりに熱心で他のことには気が回せなくて、放っておいたらぶっ倒れるんじゃないかって俺はいつだって心配していたけど、あんたは俺にとってただ一人の、一番大切な存在だった。
だから俺は、もう一度こうやって、その大きな手で撫でてほしいなって、ずっと思っていたんだ。
背中を撫でる手は、冷たいのに温かかった。不思議なもんだ。
「志季、……いやだ!俺も連れて行って、嫌だよ、やだ!!」
「……この国を頼む」
「やだ、いやだいやだ、止めて、志季!行かないで!!!嫌だ!!!!」
そう、俺の叫びはあんたには届かなくて、ズシリと重たい扉が、無情にも閉まる。
部屋を去りゆく志季の横顔は、いつも戦場へ赴くような重たいものでは無くて、ただただ、穏やかな表情をしていた。
王が死んだら、麒麟である俺はまた新しい王を選ぶまでだ。自分が死ぬことは無くて、全身にまとわりついていたこの穢れや病気も、すっかりなかったことになる。楽になれる。それを知っているから、志季は自ら、自分一人が死ぬ道を選んだのだ。
そして穢れを嫌う麒麟が、自らの手で命を絶つ事は叶わなくて、ただ、俺は、この暗い部屋でアンタの死を待ち続けなければいけない。
そして、死んだら、そのあとは──

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