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〇一.優芍薬(病的/オフィス/恥じらい)
恥じらいなんて、とっくの昔に捨てている間柄である。それでもその白くて細い身体を再び目の当たりにしていた俺は、朝の空気に溶けてしまいそうだった感嘆の息をグッと飲み込んだ。
歩さんと寝るのはもうしばらくぶりで、どうしてこんな事になってしまったのか今でもわからないのだけれど、ただ俺は、ここでの生活のおかげで、病的なまでに細かったこの人の体格だとか面立ちだとかが、ようやく血色を帯びた健康的な成人男子のそれに近づいて来たのに、ここでこの人を一人にして大丈夫なのだろうか?という不安が胸をよぎっていた。
「歩さん……」
泣きたくなるくらい、好きだった。
あなたの方から俺を捨て置いてくれたら、諦めきれる思いだったのに。
歩さんの細くて冷たい身体を抱きしめて、実際俺は少しだけ泣いていた。
多分、この人には気付かれないくらいのほんのささやかな涙だったけれど。
VAZZROCKプロジェクトの解散は、世間ではそれなりにニュースになっていた。演奏家やモデルなど、元いた畑に戻っていく人、芸能界を引退して別の人生を歩み始める人、新しいことを始める人、それぞれがそれぞれの道を歩き始めた時に、「新しい道」を選んだのが、俺と歩さんだった。歩さんは、これまでのモデルという活躍のフィールドを演技畑にも広げて、ドラマや舞台のお仕事を増やしていたし、俺は、事務所が新しく企画したアイドルユニットを一つ、任される事になった。実質上のリーダーである。俺が、リーダー?なんて、最初は驚いたものだったけれど、「直助なら出来るよ」と、一番に背中を押してくれたのが、孝明さんであった。VAZZYのリーダーの孝明さんは、俺が高校生で芸能界デビューをしてから五年間ずっと、父のように母のように、一番お世話になって来た人で、俺が、この業界で一番信頼している人。その人の推挙なのだから、とにかく、頑張らなければいけないのだと思っていた。多分プロジェクトのメンバーの中では誰よりも、俺は感傷に浸っている暇なんて無かったし、新しいメンバーとの顔合わせも済んでいて、四月からはこのマンションで新しい生活をしていく事も決まっていたのだ。……全て、決まっていたのだ、それが。
今日は、孝明さんと一緒に池袋にある事務所オフィスを訪れていた。
リーダーとして初めての、リーダー会議、打ち合わせ、だった。
流石にオフィスを訪れた事はあっても、会議室にまで足を踏み入れる事は殆どなくて、先日の、新ユニットのメンバー顔合わせ以来のその場所に、俺は少なからず緊張していた。俺の隣には孝明さん、その向こう側には翔さんがあのいつもの穏やかな表情の中に苦笑を浮かべていて、お二人とも、ガチガチの俺とは対照的に、会議室の椅子にゆったりと腰掛けていた。
ギィっと、会議室の重たいドアが開いて、向こうから顔を出したのは、俺もよく知る、リーダーズの面々。それから、その更に奥には社長の姿もあった。年末年始の行事で、これまで数回しか顔を合わせた事がなかったその人は、孝明さんによく似た穏やかな笑みを浮かべて、俺たちのちょうど反対側に置かれた、専用の椅子に腰を下ろした。
ぐるりと会場内を見渡していた穏やかな瞳が、ふと、俺のところで止まる。
「大山直助くん?」
「は、はいっ‼︎」
「まずは、リーダーを引き受けてくれてありがとう。僕の可愛い子達をよろしく頼むよ?」
「はい、もちろんです」
そういえば新ユニットの顔合わせにも、この人は顔を出してくれていた。ジュニアの子や、社長が直接声を掛けて来た子達など、俺を含めて総勢六名からなる新しいユニットは、事務所内だけでは無く業界中からも注目を浴びていて、それだけ期待されているのだと、身が引き締まる思いだった。
「新しい事はいつだって楽しみだねぇ、孝明」
「はは、そうですね」
孝明さんと翔さんと、それから社長の、穏やかな笑顔は変わる事はない。
けれど、この会議が終わったら、もう今後、お二人がリーダー会議に顔を出す事は無いのだ。VAZZROCKプロジェクトは解散して、それぞれが、新しい道を歩んでいく事は、ずっと前から決まっていた事だったから。翔さんがヴァイオリニストの道一本に戻っていく事も知っていたし、孝明さんが一年間、芸能界から離れるという事も、俺は早々にこの人から聞かされていた。二人とも、それはもう穏やかな顔をしていた、この場所に未練なんて微塵もない、そんな顔。
俺はごくりと息を飲み込んで、真正面を見据える。
「……じゃあ、みんな揃った事だし始めようか?」
ぎゅっと閉じた瞼の裏側に、あの人の儚げな笑顔が浮かんでいた。
一一四.花明(火のないところ/口実/撫でる)
そのマンションは、代官山よりも中目黒の駅に程近い、ファミリー向けの中層階タイプのマンションだった。中も広々とした2LDKで、最初は「こんな広い家に一人で住むの?」と驚いたものだったけれど、すぐに状況を悟った。業者によって部屋に運び込まれる二人分の荷物と、歩くんの足元で幸せそうに「ニャァ」と鳴く、二匹の猫を見つけて。十二階建のマンションの十一階から見える景色は、あの寮のベランダからの景色によく似ていて、吹き込んでくる春の風が気持ち良いと思っていた。歩くんは、景色が気に入ってこのマンションを選んだのだと言う。
ちょうど舞台が開いて暇だったから、「俺、手伝うよ」って言って、がっくんも巻き込んで、歩くんの新居にお邪魔して、お引越しを手伝っていた。大きな荷物、例えばベッドとかソファは引越し業者の人が運び入れてくれたから、俺たちは小物の整理をする。
VAZZROCKプロジェクトの解散によって、俺は寮に残る事にしたし、がっくんは一人暮らしをするのだと、俺たちはそれぞれ、三月上旬には引越しを済ませていた。最後まで残っていたのが歩くんだったのが意外だったんだけど、聞けば、土壇場になって住む家を変えたとの話で、慎重派な歩くんにしては珍しい事もあるもんだ、と、その時は思っていたのだ。
リビングルームにはキャットタワーと猫関連のお世話グッズを入れて、植物もいくつかあの寮から持ってきているみたいだった。意外な事に二つある寝室は、狭い方が歩くんの部屋なんだって。六畳くらいのその部屋にシングルサイズのベッドと、本当に少ない歩くんの私物を入れて、もう一つの大きな主寝室には、新しく買ったのだと言うキングサイズのベッドだけが置かれていた。そこまで、状況を見守っていた俺たちだったけれど、未だに半信半疑だったのだ。本当に、この家にあの子と住むの?って。プロジェクトの解散で、ナオくんが、新しいアイドルグループのリーダーに就任した事も知っていたから。二人分の食器の荷解きをしながら、俺はよっぽど怪訝そうな顔をしていたのだろう、テーブルの反対側に座った歩くんが俺を見つめて、小さな笑みをこぼして言った。
「休憩にしようか?お茶でも淹れよう」
「歩ー、これこっちでいいのか?」
「岳も、少し休憩しよう」
「?…………うん?」
大方片付いたキッチンで紅茶を淹れて、マグカップを三つのせたトレーを持って、歩くんがやって来る。真新しいダイニングテーブルに俺とがっくんが並んで座って、歩くんも反対側に腰掛けた。
「……猫がきっかけの、ルームシェアなんだ」
歩くんが、ナオくんとお付き合いをしている、という噂が流れたのは、VAZZROCKプロジェクトも二年目の、その年のライブが終わった冬も近い季節だったと思う。もちろん噂、と言えど火のないところに煙は立たないとはよく言ったもので、その年のライブで共にMCを務めた二人は、デュエット曲の発売も控えていて、一緒にいる所を頻繁に見かけるようになっていた。その頃から次第に、歩くんが笑顔でいる所をよく見るようになっていたから、俺は、(あぁ、良い変化だな)って、素直にそう思っていたのだ。二人がその関係を周りに打ち明ける事は無かったけれど、一緒にいて笑顔になれる相手なのだったら、それはこの上ない幸せだと俺は思っていたから。けれども気付いたら、二人が別れていた事を知った。これも、付き合い始めてから一年経つか経たないかのタイミングだった。歩くんは変わらず笑顔だったし、ナオくんも、普段はあんなに表情豊かなのにこういうことは隠すのが上手いんだなと感心していた。元々、別のユニットだったし、仕事の分野も異なる二人だったから、別れてしまえば、一緒にいる事は殆ど無くなった。たまに、コミュニケーションルームで猫と戯れているのを見かけるくらいで。だからそれから、プロジェクト解散までの残りの期間は、何事もなく日々が過ぎ去って行くのだと、俺はそう思っていた。
「……ルームシェア?」
だから、歩くんがこの広いマンションを借りて来た時には何事だと思ったのだ。猫のため、と言うのも、ルームシェアと言うのも、俺には口実にしか聞こえなかった。歩くんが、ナオくんを繋ぎ止めるための。ナオくんが、それを断れないのにも、俺は薄々気付いていた。主寝室の巨大なベッドが良い例だ、あんなもの買っておいて、「ルームシェア」だなんて平然と言ってのける歩くんは大物だなと、多分がっくんすらも思っていないような感想を抱いていた。淹れて貰った紅茶を一口啜って、何食わぬ顔をしている歩くんの表情を伺う。
「そう、ルームシェア」
歩くんの繊細な手が、膝に乗って来たグレーの猫の背中を撫でる。ロックは気持ち良さそうにニャーと鳴いて、その様子を眺めていたバズの方も甘えるような素振りを見せていたから、俺の膝に乗せてやる事にした。猫は二匹とも、幸せそうな顔をしていた。それから、歩くんも。
一四.色漆(おそろい/一途/ダーリン)
俺には最初から、あの寮に残る選択肢しか無かったのだ。
それを引き止めたのが、ずっと恋焦がれていた華奢な腕だった。
プロジェクトの解散を機に、VAZZROCKのメンバーはそれぞれのステージへと巣立っていった。俺たちが住んでいた寮も、新しい入居者のために引き払わなければいけなくて、メンバー達は階を引っ越したり、違う寮に移り住んだり、一人暮らしを始める人もいて、けれども新しく出来たユニットのリーダーとなった俺は、事務所の気遣いで、今の部屋にそのまま住み続けて良いと言われていた。四月になったら、新メンバーが同じフロアに引っ越して来る、という流れだ。当然、合理的な配慮だと思ったし、俺も、なんの疑問も無くそれを受け入れていた。ユニットのリーダーとして、メンバーと共同生活をしていく大切さは、孝明さんの背中を見ていて、学んでいた。だから、寮を出て一人暮らしをする予定だと言っていた歩さんとは、これでもう本格的にお別れなのだと思っていたのだ。五年という長い年月の中で、俺たちが付き合っていたのはたったの一年きりの事だ。一方的に別れを告げられて、離れてからも、俺は一途にこの人を思い続けていたけれど、でももう、それも全部おしまい。俺たちが歩んできた五年間も、全部、おしまいだと思っていた。
それですっぱり、全てを諦めようと思っていたのだ。それなのに。
コミュニケーションルームで雑談をしていた俺たちの腕の中で、猫がニャァと一つ鳴いたのだ。
俺たちがここに住み始めた頃に、公園で拾ってきた二匹の猫だった。名前を「バズ」と「ロック」と名付けたのも俺たちで、主だった世話も俺と歩さんの二人で行っていたから、ここを離れる時は、ごく自然な流れで、俺と歩さんが一匹ずつ引き受けるものだとばかり思っていた。
だから、「ペット可の新居を探している」と世間話で切り出した歩さんの腕の中で、寄り添っていた二匹が、あまりにも離れがたい様子を見せるものだから、俺は苦笑してしまった。
歩さんも困った顔をしていた。
『……一緒に住まないか?』
『……え?』
何を言い出しているのかと思った、この人は、何を。けれども歩さんの顔は至極真剣だった。
馬鹿げていると思った、俺にはここに残るという選択肢しか無くて、だからその俺が、二匹引き受けますよって、言えば、解決する話で。でもそれを口にしなかったのは、少なからず俺の方に、この人に対する未練があったからだ。一緒に暮らそうと言い出した歩さんの言葉に、俺は二つ返事で乗っかった。もう少しだけ、この人の側に居たいと思ってしまった。
俺は、歩さんに腕を引かれて。そうしてその晩、俺たちは二年振りくらいに同じベッドで眠った。
引っ越すまでのひと月、それから、ここに越してからもずっと、俺たちは間に空いた二年間を埋め合わせるように貪欲にお互いを求め合った。最初は触れただけで折れてしまいそうなほど不安定な人だと思っていたのに、歩さんはVAZZROCKでの五年間ですっかり変わってしまった。出会った頃の危うい程の美しさは、だいぶ、健康的な顔色の裏側に潜んでしまっていたけれど。……けど、歩さんの本質的な美しさは変わる事はない。ずっと手に入れたかったものが手に入ったのだ。それが嬉しくて、俺はこうして、真新しいベッドの中で、この細い身体を抱く。
「……歩さん?」
「…………すぅ、」
もう、何度目なのかわからない行為の後、抱きつぶされてすやすやと眠る、その、穏やかな寝顔にそっとキスを落として、下着だけを身につけて寝室を後にする。
キッチンの明かりを灯して、歩さんが買ったコーヒーメーカーで、歩さんが選んだ豆でコーヒーを落とす。おそろいで買ったマグカップは水色とオレンジのもので、その片方、オレンジの方を取り出して、俺はコーヒーが落ちるのを待ちぼうけしていた。
今俺はリーダーとして寮で生活する傍ら、休日はこの人の元を訪れる生活をしている。
事務所にも、メンバーにも、古い仲間たちにも打ち明ける事のない秘密の関係だった。
──グンナイ、マイダーリン。良い夢を、
なんて。甘ったるい歌詞が頭を埋め尽くしてしまっているくらいには、俺はこの人に溺れていた。
誰も間違ってるなんて言わないから、これで良いのだと思っていた。
〇八.光焦(見惚れる/ダメな私/火傷)
俺が一人暮らしを決意したのは、とりあえず自立したかった、という思いが強かったからだ。だからユニットを離れてソロでやって行くと決めた時に、寮を出て一人暮らしをする事も決めていた。三十を目前にして、何も出来ないままの自分ではダメだと思ったのだ。一人暮らしに先立って、これまでのダメな私生活を改善せねばと思っていた。まず、岳に料理を教わった。それまでは生活して行くのに必要最低限、レンジやトースターを使ったり、米を炊いたり、その程度しかしてこなかったし、VAZZROCK内でも『包丁を持たせたらダメな人ランキング』二位という不名誉を与えられたりしたものだけれど、元より、手先はそんなに不器用な方では無く、ただ単にやる気が無かっただけで、寮を出る頃には、魚を焼けるようになったし、簡単な煮物だったら作れるようにもなった。卵料理のバリエーションも教えてもらって、ある程度の料理スキルを身につける事が出来た。包丁で手を切る事も無ければ、火傷をする事もなく、料理の方は順調であった。掃除は元々好きな方で、洗濯だって、数年前に買ったドラム式のものを使っていて不便は無かったから、これであとはもう、生活していくには充分だと思っていた。
一人で生きて行くと思っていたのに。
それが二人と二匹になるとは思ってもいなかったのである。今となっては、だけれど。
みんなと一緒にいた頃の俺は、何も出来ない甘ったれだったと思う。寮に住んでいれば三食食堂で美味しいご飯が出てくるし、料理好きな仲間が手料理を振る舞ってくれて、バランスの良い食生活を送っていた。洗濯物はクリーニングに出せば綺麗な状態で返ってくるし、掃除だって頼めば業者が来てくれるのだ。至れり尽せりだった。俺は学生の頃からずっとここのタレント寮に住んでいたから、本当に自分で家事を行う余地が無かったのだ。一人暮らしを始めて、可能な限りは自炊をする様に心がけてはいるものの、忙しかったら外食をしてしまったり、洗濯をする前に力尽きたりする事も多々合って、その度に理想と現実の差異に頭を抱えていた。
直助が料理を覚え始めたのは、俺がきっかけだったと言う。
「歩さんに美味しいもの食べさせたくて。勉強中です!」
そんな事をサラリと言ってのける、出会った頃よりもだいぶ大人びてしまった横顔に見惚れる。
聞けば、孝明さんだったり二葉だったり、時にはフロアの違うSolidSの里津花やリーダー仲間の昂輝に教えを乞いに行って、レパートリーを増やしているのだと。新しいユニットのメンバーにも振る舞っているんですよ、と誇らしげに話すその姿は、もう立派なリーダーのそれだった。俺は元々少食な方で、偏食な自覚はあったけれども、直助が作る日本食は美味しくて箸が進んだ。
美味しくて、涙が出て来そうだった。歳を重ねると、涙もろくなってしまっていけない。
味噌汁を飲みながらずずっと鼻水を啜って瞳を潤ませている俺に、直助は苦笑していた。
「……歩さん?泣かないでください。あなたを笑顔にしたくて、作ったやつなんで」
「そうは言っても……、美味しい、ありがとう……」
「無理せずやっていきましょう、今度は一緒にご飯作りましょ」
箸を置いて、ぽたぽたと泣き出した俺の頭をぎゅっと抱き寄せてくれて、よしよしと撫でてくれる手のひらが温かかい。いつの間に、こんなに大きくなったのだ、俺は、みんなから離れて自立をしてもまだ、一人きりでは生きていけないような甘ったれなままなのに。
〇四.絢撫子(腫れぼったい/女子力/解いて)
初夏の事である。俺は、仕事が早く終わった日には、孝明さんの家を訪ねるようになっていた。
孝明さんはVAZZROCKプロジェクトが解散した後、十七年間続けてきた芸能活動に一旦区切りを付けるために、活動の休止を宣言した。しかもびっくりな事に、長い休暇で暇だったからと言い訳を並べて、翔さんとの同居生活を始めていた。俺が初めて二人の新居である都内某所の超高級マンションを訪れた時には、そのあまりのセレブさに言葉を失ったものである。
「今日は何を作りたいの?」
俺がこの人の元を訪ねるようになったのは、ともすれば誰の手も届かないような所に行ってしまいそうな孝明さんの、その安否確認もあるんだけど。スーパーの袋を高そうなダイニングテーブルの上に置いて、カバンの中から取り出したレシピ本、付箋の沢山貼られたその本をぱらぱら捲る。
「今日はハンバーグ!俺も大好きなんです!」
「知ってる、いっつも目を輝かせてたもんな」
「お豆腐を使ったハンバーグにチャレンジしてみたいんですけど……」
「いいよ、見せてごらん」
俺は週に一回ほど、この人の元に、料理を習いに来ていた。もちろん、歩さんのためである。
お豆腐のハンバーグだったら歩さんも食べやすいんじゃないかって、スーパーの袋にはひき肉の他に絹ごし豆腐も一丁入っていた。肉好きの俺が、豆腐入りのハンバーグをこの人にねだった事なんて今までにない。そんな違和感はこれまでにもきっと沢山あって、孝明さんは、俺の新生活にも薄々気付いてそうだったんだけれど、特に追求してくる事は無かったから、俺もそれに甘んじる事にしていた。最悪、今更バレたらバレたで隠すような関係でも無いと思っていたのだ、この、孝明さんと翔さんの共同生活を間近で見ていて。同居というにはあまりにも甘すぎる空気が、この家には流れている。そういう空気って、意外と分かりやすいものなんだなと思いながらも、俺は、何でもないように微笑む孝明さんを見上げていた。
孝明さんは、この世界中の女性が恋をしてしまうそうな程の男前な外見をしていながら、内実はめちゃくちゃ女子力が高い。女子力っていうか、ママ力?優しくて温かくて、まだ高校生だった頃、『ご飯が美味しい=母親』の認識でいた俺は、この人の母性みたいな所にすっかり甘えていた。
「じゃー、直助。お米研いで」
「はーい!」
きつく玉結びをされたスーパーの袋を解いて、中から食材を出した孝明さんは、それらを広々としたアイランド型のキッチンに並べて行って、黒シャツの腕を捲る。
いつも早起きの歩さんではあるけれど、「そういう事」をした翌日は、お寝坊さんな事が多い。
前にお付き合いをしていた時は、そういう日は揃って昼間まで寝ていたんだけど、最近では俺が朝食を作ってあげるようになっていた。「せっかくの休みなのだから……」と、歩さんは言ってくれたけれど、せっかくの休みなんだから、歩さんに美味しい朝ご飯を食べてほしいなぁというのが俺の本音で。だから、朝食を作ってると歩さんがのそのそ起きてきてくれるから、朝からわざと、ウィンナーやベーコンの焼ける匂いを漂わせている。歩さんは眠くて腫れぼったい瞳をこしこし擦って、コーヒーメーカーに豆をセットする。これだけはどんなに眠くても欠かせない朝のルーティンらしくて、その様子を見守って、キッチンのカウンターに出来立ての朝食を並べて行くのだ。
「今日はベーコンが安かったので洋食です!良いですか?」
「なんでも構わない、ちゃんと食べる」
「ふふ、良かった」
実家を出て、毎日ご飯を作ってくれていた母のありがたみを知ったけど、寮で暮らすようになって、俺やみんなのために料理を振る舞ってくれるお兄さんたちは、母親じゃないのに凄いなぁと思っていたのだ。あの人たちは「趣味だ」なんて言っていたけれど、今なら俺にだって分かる。
料理は、食べてくれる人がいるからこそ、楽しい。
大好きな人が「美味しい」って言ってくれるだけで、次は何を作ろうかなって原動力になる。
一五.橙結(知らぬが仏/あの子/約束)
モデル一本でやって行く事に限界を感じ始めたのは、VAZZROCKプロジェクトに籍を置いていた二十代半ばの事だ。まだ若い、学生の頃は、スタイルを褒められ、顔面を褒められ、若い男性向けのファッション誌だったり、女性向けのビジュアル仕事も多かったのだけれど、高校生で止まってしまったこの身長が、今後モデルを続けていく上でネックになっていた。その頃から少しずつ、興味を持っていた演技の勉強を始め、ユニットを抜けてソロとして活動して行くと決めた時に、そういう、芝居の仕事も増やして行くようになった。映画やドラマに出る事もあれば、昔の仲間の縁で舞台に呼ばれる事もあって、特に舞台は生物なので、自分の想像以上に体力を使うと知った俺は、この歳になって初めてジム通いを始めた。ユニットを抜けてある程度時間が出来たので、今は、とりあえず週二回。まずは基礎体力を付けて、ある程度慣れてきたら筋トレもしてみたいなと思っていた。
そんな事を直助に話していたら「無理しないでくださいよ?」なんて、すごーく心配そうな顔をされて、指切りまでして無理をしないように約束されてしまったのだけれど。
役者であるルカとは、ROCK DOWNを抜けた後も、今度は「舞台」という新しいフィールドで一緒に仕事をする機会が増えた。最初は、ルカの紹介でいくつか端役をもらって舞台に挑戦していたのだけれど、今では知り合いも増えて、今度の夏に、ルカとダブルキャストでの舞台主演が決まっていた。中規模のハコではあったけれど、俺としては初めての主役で、いつも以上に気合が入っていたのだ。その、レッスンと、ルカに付き合ってもらって自主練も終えた、帰り道。ルカに「久しぶりに飲みに行こーよ」と誘われて、洒落た個室居酒屋を訪れていた。
「一人暮らしはどう?しんどくない?」
「えっ?」
ルカはあの代官山の寮を抜けて、また別の所にあるツキプロのタレント寮に移り住んでいた。別の寮とはいえタレント寮は食事もクリーニングも付いているので、「俺は殆ど前と変わらないよ〜」なんて、ルカは言っていたけれど。俺の方はそういえば、あの引っ越しの日以来、ルカを自宅に招いた事は無かったなと、ふと思い出したのだ。
「遊びに来ても良いんだぞ?」
「えーだって」
ルカはジョッキに注がれたサワーを飲みながら俺の横顔を伺う。
酒に強いルカとはいえ、ペースが早かったし、ほのかに染まった頬は多分ちょっと酔っ払っている。クスクス笑って、楽しそうに飲んでいるなら何よりと思っていたのだけれど。
「あの子は良いの?」
そんなルカの言葉に、ギクリ、と分かりやすく反応した俺は、ホッケを崩していた手を止めた。
ルカには、というか、メンバーには、直助との事は話した事は無かったつもりだ。もちろん、ばれてしまえばその時はその時だと思っていたけれど、公には出来ない関係なのは事実で、第一、俺はともかく、アイドルとして活躍している直助の重荷になってしまわないかと、そっちの方が気掛かりだったのだ。ルカは親しい友人だ。俺が困るような事はしないと信じてはいるが。
「ルカ、この事は……」
「言うわけないじゃん。人の色恋沙汰は知らぬが仏ってね〜」
ルカは俺のほぐしたホッケに箸を伸ばして、「美味しー」と微笑んでいた。
俺はちゃんと、この男を信じている。信じているからこそ、ルカとの友情も大切だからこそ、人様に打ち明けられない直助との関係が、なんだか後ろめたく思えてしまっていた。
「……」
「ごめんって、そんな深刻な顔しないで?」
不確かな、関係なのは事実なのだから。
一度付き合って別れてしまった過去があって、今、あの男と付き合っているのかと尋ねられても、俺は自信を持ってうんとは頷けないでいる。だって、そういう段階を全部すっ飛ばして、一緒に生活を始めてしまっていたのだから。我ながら、呆れた話ではあるが。
さっき頼んだ梅酒のお湯割りがもうぬるい、ぬるい梅酒をごくごくと煽る。
今日はなんだか悪酔いしそうだった。

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