36度5分 - 5/5

***

一三.月霞(四畳半/揺らぐ/トワイライト)

夕暮れ時の空の下を、二人で並んで歩いていた。片手には買い物袋を一つずつぶら下げて、中には今日のお夕飯の材料が入っている。最近、めっきり寒くなったから鍋が食べたいって歩さんが言ったから、魚介類をたっぷり買ってきて、今日のメニューは寄せ鍋。白菜も安かったし野菜もいっぱい買ってきたから、歩さんが鍋を煮ている横で何を作ろうかなって思ってた。
「直助」
半歩後ろからそう、呼び止められて振り返る。
逆光で歩さんの姿が揺らぐ。
「直助、まって」
歩さんはスーパーの袋を腕に引っ掛けて、スマホを取り出していた。それを俺に向けて翳して、パシャパシャと数枚、写真を撮る。歩さんがバズとロック以外の写真を撮っているのは珍しいと思いながら、俺は今撮った写真を見せてもらった。
どこまでも広がる、トワイライトオレンジは、歩さんが好きな色のひとつだ。前に、あのマンションのベランダで夜明け前の空を見上げていた歩さんが、朝焼けの色が好きなのだと言っていた事があった。だから多分、夕焼けのオレンジも好きなのだろう。明るかった空が、徐々にオレンジ色に染まるその時間は、俺も好き。深いオレンジ色の世界にぽつんと写る、俺。
「わぁ……、綺麗!」
「綺麗に撮れたな、待ち受けにしようか」
「え〜、恥ずかしいからやめてください」
「ふふ……、実は、ホーム画面がお前とバズの写真だったりする」
「えっ⁈いつの間に⁈」
本当にいつの間に。見せてもらったスマホの画面は、昼寝をしている俺とバズの写真で。恥ずかしかったけど、なんだか嬉しくて、俺は、「変えてください」なんて言えなかった。
だって、あなたがふとした瞬間にスマホを開く度に、俺の写真が写ってるんでしょう?
その度に、俺の事を思い出して貰えるのが嬉しくて、胸がむず痒かった。

この広いマンションのリビングには、四畳半の和室があった。
夏になると畳の上でバズとロックが昼寝をしているし、冬になるとコタツが登場するその小さなスペース。コタツを買ってきたのは歩さんだ。普段は完全に猫用と化している小さなコタツ。その上にカセットコンロと出来立ての鍋を置いて、準備は万端。歩さんが作ってくれた鍋と、俺が作った副菜と、それからスーパーで買ってきたのはアルコール度数低めの缶チューハイ。俺も歩さんも、お酒はそんなに強くはないから、二人でいる時はあまり飲まないのだけれど、今日は特別です!って言って俺がラムネサワーをカゴに入れたら、歩さんも梅酒を選んだ。カシュって音を立てて栓を開けて、乾杯。暖かい部屋で暖かいコタツに入って、ちびちびとお酒を飲む。鍋をつつきながら。
「あぁ、幸せだなぁ」って俺が笑ったら、歩さんも「そうだな」って綺麗に微笑む。

窓の外を見上げたらぽっかり浮かんだ月が綺麗。
この幸せがずっと続けば良いのになって俺は願っている。

一〇七.惚紅(脇役/色盛り/理不尽)

年末に入って、また直助が忙しい時期になっていた。アイドルは、年末年始になるとバラエティ番組への出演が一気に増える。直助も、先日発売された新曲のプロモーションを兼ねて、様々なバラエティ番組に出演しているのを目にしていた。俺の方も某局の新春恒例の時代劇への出演が決まっていて、全然脇役なんだけど、それでも小さい頃から見ていた時代劇は役者としての一つの憧れで、だからそこに出演出来るのが楽しみだったのだ。その、収録もあって、すれ違いの日々が続いていた。年末。先生も走るほどに忙しいから師走と言うらしいが、その師走の事。
人気アイドルのスキャンダルが、年末のゴテゴテした装丁の週刊誌の表紙を飾っていた。
『超人気アイドル、年上女優と深夜の密会』
仕事帰りのコンビニで、その、雑誌を見つけてしまったのは本当に偶然だったのだ。俺はなんとなしにそれを手に取ってパラパラと捲り、見出しに書かれていた『超人気アイドル』が、自分もよく知ったあいつである事にそこでようやく気付いた。
「あっ」
見慣れた黒いキャップと、服装と。隣に寄り添っているのは小柄な女性で、こちらも、俺も知っている有名な若手女優だった。深夜の繁華街を二人で並んで歩いている写真、二人が新宿の個室居酒屋に連れ立って入って行った事、それから二人は夜の街に消えて行って……、という内容が書かれてあった。こんなものは写真の撮り方と記事の書き方でどうにでもなる事は俺にも分かっている。……分かっているのだけれど面白くない気分は、どこにぶつけるべきなのだろうか。直助に当たるのは理不尽だ。もちろん間違っている。しかも、と俺の心は追い討ちを掛けられたようにずうんと重くなる。直助は、二十三歳の男。色盛りである、良い男なのだ、優しいし、気遣いが出来るし、顔だって、女によく好かれる顔をしている、あいつは。だから本当に、こんな風に女性にだってよくモテる。良い男だった、俺には勿体無いくらいの。
……そこまで考えて俺は虚しくなって雑誌を置いた。
いつの間に撮られたのだろう、ここ最近、ライブの前くらいからはずっと忙しそうにしていたのに。

悶々とした思いを抱えていた俺を呼び出したのは孝明さんだった。この人は一年間の芸能活動の休業をしていて、今は翔の家で専業主夫の真似事をしているらしい。暇だから歩も遊びにおいでよなんて誘われていたんだけど、結局のところタイミングを逃して、今日までそのお誘いに乗っかる事は出来なかったのだ。その、孝明さんに呼び出されて訪れた喫茶店。この人は、誰に見られるわけでもない時でも、常にちゃんとしてる人だなぁと感心してしまう。長期間の休業とはいえ、顔つきも、オーラも、少しも弛んだところなんて見せない。常に誰かに見られている事を意識しているのだろう、キラキラの、美しい眞宮孝明がそこにいた。
「……どうしたんですか?急に」
「んー?……歩が落ち込んでないか心配だったの」
「そ、そんな事ありません……、今は元気にやってますよ?」
「えー、じゃあ、急に呼び出したりして迷惑だったかな」
「そんなことは‼︎」
俺が身を乗り出した拍子に、ガタン、と大きく机が揺れて、卓上のコーヒーの水面が揺らいでいた。
孝明さんが取り出したのは、先日俺がコンビニで見かけた、あの、週刊誌だった。
「……俺これ見てすぐに、心配になって事務所行っちゃってさ。社長に『休業中の人が何してんの?』って笑われてね。色々教えて貰って来たんだけどさぁ」
孝明さんは、内心では心臓の鼓動が早まっている俺とは対照的に、ゆったりとした動作でコーヒーを啜っていた。
「相手の女の子の、売名じゃないかって。社長が言うには」
「……へ?」
「よくある話なのよ。若手の女優さんで、映画の主演も控えてて、何か話題作りが出来ないかってところに、こういう週刊誌に載っかるのがちょうど良くてね」
「……は?……じゃあ、直助は……」
「ドラマの打ち上げだったらしいよ。もちろん他のスタッフさんもいて。まぁ、酒に弱いあいつが女の子誘って飲みに行くってのもおかしな話だと思ったけどね」
分かっては、いたのだ。頭では充分に理解していたつもりだった。
直助がこんな形で女性に手を出せるとは思ってなくて、だからこれはでっち上げで。俺は最後まで信じてやるべきだったのに。孝明さんの話を聞いて、胸の中にあったつっかえが取れて、「はぁー」っと、自分でも思った以上の深ーいため息が出て、孝明さんが苦笑していた。
「……俺は正直、最初は直助の選択が心配だったんだ。自分の事は棚にあげてね?だって二重生活みたいなもんだろ?アイドルの大変さは身をもって知ってたし、続かないんじゃないかって」
孝明さんの指先が、コーヒーカップの取手をなぞる。
俺は言葉を続けられなくて、無言でその仕草を見守っていた。
「でも自分から料理覚えて、仕事も増えてって、あんなに立派にライブもこなして。そういうの見せつけられちゃったらさー、何も言えないじゃん」
「そう……、ですね、直助はほんとうに凄い」
「だから歩は、」
顔を、上げる。美しい男の美しいアメジストの瞳と視線がぱちりとあって、綺麗だなって思う。
「歩は、あいつの側に居てやって?少なくとも、直助がもういいって言い出すまでは」
「……それは……、はい、」
この人はどこまで知っているのだろう、ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。
過去に俺が直助と付き合っていた事は知ってる?それで、一度捨てた事も。以前は周りにひた隠しにしていたせいもあって話題にも上がらなかったのだけれど、聡いこの人ならもしかしたら勘付いていたのかもしれなくて。VAZZROCKプロジェクトが解散しても尚、直助に対してはとことん過保護なこの人を見て、そういうのを、考えてしまう。
「孝明さん、あの、」
「なぁに?」
冷めきったコーヒーを飲み込んだ俺が、思うのは。
「この後、もしお時間がありましたら飲みに行きませんか?」
「うんうん、良いよ〜………………って、えっ⁈歩からのお誘い⁈」
驚くのは無理もない、ほとんど酒が飲めない、下戸に近いレベルの俺がこんな事を言い出すとは思わなかったのだろう。だからこうして昼間に喫茶店に呼び出されたのだ、じゃなかったら酒好きなこの人だったら、飲み屋に呼び出されて酒でも飲みながらさっきの話をしていたはず。でも俺は、今日この日がいい機会だと思っていたのだ。この人から、色んな事を聞き出す、良いチャンス。
だから驚きで目を丸くしている孝明さんに、畳み掛けるように続ける。
「酔いたい気分なんです」
「え〜?いろんな方面に怒られない?大丈夫?これ」

〇六.宵紅(膝枕/カーテンコール/泥酔)

孝明さんからお呼びが掛かったのは深夜〇時の事である。
仕事がてっぺんを超えてしまったけれど、明日は久しぶりのオフだから歩さんのところに行こうかなって、終電に間に合うか時刻表を開いた瞬間であった。メッセージではなく、着信。珍しいな、一体どうしたのだろうと出てみたら、聞き慣れた孝明さんの声はどこかテンションが高くて、後ろの方からガヤガヤした声が聞こえたからすぐに飲み屋にいるのだと察した。
『あ、良かった、出た〜!歩が泥酔しちゃってさ〜、お迎えに来れる?』
「…………………………は?」
思わずそんな間の抜けた声を上げてしまったのは、孝明さんの様子と歩さんの存在、それから「泥酔」というワードが繋がらなかったからだ。だから「今、なんと?」と聞き返した俺にはやっぱりハイテンションな様子でカラカラと笑って、孝明さんは続ける。
『だから、歩の事お迎えに来てって。今渋谷なんだけど』
迎えに来い、とは、二人で飲んでいるのだろうか?えっでも何で?
そんな疑問符を浮かべながら俺は、駅へと向かっていた足を繁華街の方へ向けた。

孝明さんが指定してきたのは、駅から少し距離のある場所にある、お洒落な雰囲気の居酒屋さんだった。入り口に居た店員さんに「眞宮」の名前を告げると個室に案内されたわけだが、引き戸になっている戸を開けて、その向こう側に広がっている光景に俺は唖然とした。
「お〜‼︎直助!久しぶり、おつかれさん」
「孝明さん?えぇ?なんで」
「う……、ううん……」
「歩さん⁈」
個室の中は四人用のテーブルが置かれた座敷になっていたのだが、そこに居たのは、にこやかに手を振る孝明さんと、そのお膝で膝枕をされてすやすやと眠る歩さんで。俺は、呼び出された理由も、この状況も理解する事が出来なくて入り口に立ち尽くしてしまっていた。
「何で二人が……」
混乱している俺は、とりあえず、と、ガラガラ戸を閉めて、靴を脱いで座敷へと上がる。
「歩に飲みに誘われちゃってさ〜、いやーでもほんと弱いね、この子」
「た、孝明さんが飲ませたんですか⁈」
「いやいや、酔いたいって飲んだのは歩の方。雑誌、見たって言ってたよ?」
「あ、……あぁ〜……」
孝明さんが言っている「雑誌」の事は、俺もすぐに察した。最近発売された週刊誌に、俺のスキャンダルが掲載されていたのだ。当然、そんなものは事実無根で、俺は事務所の社長室に呼び出されて事情を聞かれたんだけど、その飲み会の席には懇意にさせてもらっている番組プロデューサーも一緒だった事と、社長とそのプロデューサーさんが仲良しだった事ですぐに無実が証明されて、「向こうの事務所にはきつくお灸を据えておかないとね」と笑顔で言ってのけるこの人に、逆に向こうの女優さんの関係者の身を案じていたのである。歩さんとはゆっくり話をしようと思っていたのだが、お互いに仕事が忙しくて今の今まで先延ばしにしてしまっていた。
その事で、この、他人には到底無頓着そうなこの人が、こんな風に酔っ払うなんて。
「俺がしんどい思いさせちゃったのかな……」
孝明さんは苦笑して、それからそっと歩さんの頭を撫でていた。
「直助、ちょっとだけ、話そうか。タクシー代は俺が出すから」
「そんな、とんでもないです、孝明さんと飲めるだけでも嬉しいのに」
「お前はさー……ほんっとに……。あっ、歩渡しとく?」
「?……、いえ、気持ち良さそうに寝てるので、孝明さんさえ負担じゃなければ」
「そう、」と言って、孝明さんは手酌で熱燗を注ぐ。歩さんは結局、座布団を枕に変えて、自分が着てたコートを掛けて貰って、今は傍らで爆睡している。時間が真夜中だったから、あと、俺まで酔うわけにはいかなくて、俺はオレンジジュースを注文した。そんな俺を見て「やっぱり直助は直助だなぁ」って、孝明さんは昔を懐かしむように笑う。その笑顔がまた、懐かしくて、苦しい。胸が締め付けられる心地になる。そう、俺は、この人にとってはいつまでも子供のままなのだ、と。
届けられたオレンジジュースを一口飲んで、そこでようやくひと息吐いた。
「……ライブも良かったよ。カーテンコールのお前の挨拶、俺泣いちゃって」
「あはは。優馬に聞きました、孝明さんが一番泣いてたって」
「立派になったよなぁ……、本当に、一人で、立派になっちゃって……」
いくつ歳を重ねても、この人の方こそ、何一つ変わる事はないのではないか。出会った頃からずっと老ける事のない整った容貌見つめて、孝明さんと出会った頃、芸能界でデビューをして、VAZZROCKにいた五年間の事、それからその巣を巣立って、新しいステージに足を踏み入れた日の事を、全部、思い出していた。社長が作った、新ユニットのリーダーに俺を推挙してくれたのは孝明さんだったと聞いていた。他の誰でもなくて、どうして俺が?とずっと思っていたのだけれど。
今更だったけど「どうしてですか?」って尋ねたら、孝明さんは日本酒を飲みながら言った。
「……どうしてかな?」
「……えぇ?」
「お前にはまだまだアイドルを続けて欲しかったのかなぁ」
そう言って、孝明さんは遠くを見つめていた。それは多分、俺が思っているよりもずっとずっと遠い過去の話で、この人がまだ十代だった頃、国民的アイドルだった頃の孝明さんは、俺は断片的にしか知らないけれど、きっとその頃を思い出しているのだろう、遠くを見ていた孝明さんがふっと一つ笑って、真っ直ぐに俺を見つめる。
「直助を見てたらさ、俺も戻りたくなったよ、あの場所に」
それは俺への、最高の賞賛の言葉だった。

「孝明さんはずっと、俺にとってのリーダーですよ」
「……直助、ばか、おまえ……それをここで……」
未だに夢見心地の歩さんの腕を抱えて、タクシーに乗り込んだ俺は、お見送りをしてくれる孝明さんにそんな事を言った。孝明さんは俺を見つめて、驚いたような表情を浮かべて、それからふっと泣きそうな顔をした。けれどもすぐにタクシーが発車してしまったから、俺があの人の泣き顔を見る事は無かった。
それで良いのだ、孝明さんはいつまでも、俺の中で「強いリーダー像」そのものだったから。

一〇六.蒼渚(停電/君の癖/エンディング)

その冬は寒波のせいで、全国的に電力供給が低下している、とかで、ニュースになっているのを耳にしていた。その時は「ふぅん」と耳を傾けていただけだったのだが、その日、今シーズン一番の冷え込みだと言われていたその日、エアコンを付けて床暖房を付けて、リビングのテレビで映画を観ていて、おまけに浴室乾燥機を回してて、その中でコーヒーマシンのスイッチを入れた、瞬間であった。
ばちん!とブレーカーの落ちた音がして、家中が真っ暗になる。それまで起動していたエアコンは静かに停止して、部屋は真っ暗、停電?という言葉が頭をよぎる。
懐中電灯が寝室にあったはずなのだが、そういえば、とスマホを手にしていたのを思い出して、これのライトを点けて明かりを灯す。それでようやく視界が開けて来て、俺はほっとひと息ついた。ブレーカーが、落ちたのだ。電気を使い過ぎていて。だから、家のどこかにある主電源を元に戻せば電気は復旧するはずだった。確かこの家の分電盤は玄関のシューズボックスの中にあって……、とそこまで考えて、俺はスマホのライトで足元を照らして玄関へ向かった。
「……あった。これだ」
ブレーカーが落ちている、これをあげれば元に戻るはず。
カチリ、とスイッチを元に戻して、廊下とその先のリビングの電気が灯ったのを確認すると、俺はようやく胸を撫で下ろした。いい歳した男が、暗いところが苦手というのは些か恥ずかしいのだが、お化け屋敷とかホラー映画とか、俺はその類いが苦手である。直助もそうだったから映画を観るにしてもテーマパークに行ってもそういうチョイスは避けてくれて、普段は忘れがちだが、停電も、あの怖がりがいない時で助かったな、と思っていた。直助は俺以上のビビリで、VAZZROCKにいた頃、俺と直助と悠人の『ビビリ三強』で番組で連れて行かれたホラースポットでは可哀想なくらいに絶叫していた。(同行者で一番の怖がりである悠人は気を失って倒れた)俺は仕事だからと気を張って二人を引き摺って帰って来たのだが、ロケが終わった直後に気張っていた気持ちが一気に緩んだのか熱を出してしまい、看病を請け負ってくれた翔に苦笑された。「君の癖かもしれないけど、全部を背負い込まないようにね」って。そんなつもりは無かったのだけれど、翔の言葉には、思い当たるところがあって反省したものだ。翔は俺たちROCK DOWNのリーダーで、優しく穏やかで、肝が据わった男で、俺も信頼していた。学年的には同い年だったけれど、翔は俺にとってはいつだって兄のような存在だったのだ。あいつにもしばらく会っていないなぁと、ふと、あの柔らかな笑顔が懐かしくなる。

リビングに戻ると電気が復旧していて、俺はテレビを付け直す。コーヒーメーカーがまずかったのかなって、エアコンを消せば大丈夫だろうか?豆と水を入れた状態のコーヒーメーカーのスイッチを再度入れて、豆が挽かれる音と匂いに、ほっとした心地だった。電気も元に戻って良かった、今夜は、直助が来てくれる予定で、夕飯も俺が作ろうかなと材料を買ってきたところだったから。うちはオール電化で、電気が付かなければ料理も出来ないのだ。映画ももうすぐ終わりそうだし、コーヒーを飲んでひと息ついたら、今日はカレーを作ろうと思っていた。俺が作ったカレーライス、これも、直助の好物の一つだった。「歩さんが作ってくれたものならなんでも好きです!」って言う、あの可愛らしい子犬は、世間のイメージ通りの子供舌で、ハンバーグとかオムライスとか、そういう、わかりやすいメニューが大好きなのだ。
ピーっと、コーヒーメーカーが音を鳴らして、それから、さっきまで見ていた映画はもうエンディングを迎えていた。流れていくエンドロールを見送って俺は、水色のマグカップにコーヒーを入れてリビングへと戻る。もう一本見ている時間は無いから、夕方のニュースでも見ようかな、直助が来るのは七時過ぎ、カレーだったら三十分もあれば出来上がるから、先に米を炊いておこう。
ソファに深く座り込んで、熱々のコーヒーを一口、ゴクリと飲み込んで目を閉じる。
直助、早く来ないかな、早く会いたい。そんな風に思ってしまう、自分に驚いていた。

一三六.恋編(甘え上手/指先/命尽きるまで)

直助との、奇妙な半同棲生活も、一年を迎えようとしていた。
厳冬、と言われた冬も二月の下旬にもなれば春のように暖かい日が続いて、こんな日は、直助が外に飛び出したくなる、と言っていた。実際、バズとロックの散歩を追いかけているようだったし、俺も暇な時にはその犬一匹と猫二匹の散歩に付き合うようになっていた。
直助曰く、猫たちの散歩コースは結構お決まりで、狭い裏道を通って人気の無い神社を訪れたりとか、近所なのに俺も見つけた事のないような小さな公園を訪れたりとか、そういう、ちょっとした冒険みたいで楽しい。人通りの無い裏道なんかは、コートのポケットから出した指先と指先とが触れ合って、「手を繋いでも良いですか?」なんて、この甘え上手がおねだりをするから、俺もうんと頷く。こんな春のような陽気なのに、俺の手は冷たくて、反対に直助の手は温かかった。だからその温もりが心地良くて、俺はついつい、この可愛い年下の彼氏を甘やかしてしまう。
「そういえばね、孝明さんが春から芸能界復帰するんですって」
「へぇ、予定通りなんだな。結局、翔と住んでるマンションには遊びに行けなかったな」
「それも延長、らしいですよ?とりあえず、契約の終わる来年まで」
「そうなのか⁈」
それには、俺も驚いて声を上げる。翔はともかく、孝明さんは寮に戻るか一人暮らしでも始めそうなものだと思っていたのだが。あの二人、意外と仲良しだよなぁと、その時はまだ事情の知らなかった俺は、元リーダーズ二人の選択に、結構驚いていたのである。
「優馬もね、力試しに今年の司法試験にチャレンジしてみようかなって」
「すごいな。あいつなら、受かってしまいそうだが」
「すっごく、努力してるんですよね。そんなに簡単な試験じゃ無いって俺でもわかるけど」
「みんな頑張ってるからな」
俺たちは手を繋いだまま、バズとロックの後を追いかける。世間話は止まる事が無くて、その流れに乗せて、直助は、なんでも無いようにぽつり、と続けた。
「……俺たちは、どうしましょうね?」
「……えっ?」
「もうすぐ、一年経ちますけど。春が来たら、どうしますか?」
直助が立ち止まった拍子に、繋いでいた腕がクイっと引かれる。反射的に俺も足を止めて、同じくらいの高さにあるその瞳をジッと見つめていた。出会った頃からずっと変わらないその輝きは、けれども今ではだいぶ大人びてしまっていた。いつからだろう?子供だとばかり思っていたんだけどな。直助は、俺も知らない間に大人になってしまっていた。俺だってもちろん、それは、お前とずっと一緒に居たいと思っているよ?もちろん、この命尽きるまで、なんていう重たいものでは無いけれど、孝明さんがいつだか言っていた、言葉を、思い出していた。
『歩は、あいつの側に居てやって?少なくとも、直助がもういいって言い出すまでは』
二年前、もう、三年前になるのか。あの時は俺から別れを切り出したのだ。別れよう、って。直助も、何も言わなかったけれど、深く傷付いていたのは重々承知していた。別れを切り出した俺の方だって、心臓が締め付けられるように苦しかったから、捨てられたこの子犬は、俺以上に辛い思いをしたのだろうなって、分かってた。だから今度は、俺の方からこの男を手放すつもりは無かったのだ。
「……俺は、来年もまた一緒に居たいと思っている」
だからそう、伝えた俺を、くしゃりと泣きそうに歪んだ顔で、直助が真っ直ぐに見つめていた。
「俺は、来年も再来年も、その先もずっと一緒に居たいって、思ってます」
「直助、」
「でも、俺にはやらなきゃいけない事があって、守らなきゃいけない場所があって、それがいつまで続けられるかわからないけど、俺は、続けたいって思ってて、だから、」
繋いだ左手と、それからポケットに閉まっていた右手まで引っ張り出されて、直助の両手に包み込まれてしまう。本当に、いつのまに大人になってしまったのだ。俺よりも僅かに大きな手が、俺の両手をぎゅっと捕まえていた。
「全部終わったらあなたを迎えに行きます、それまで、俺の隣にいてくれますか?」
それは、プロポーズだろうか?こんな、誰もいない路地裏で?
だから俺はおかしくなって、思わずふふっと吹き出してしまう。
「……俺がおじさんになってしまう、それでも良いのか?」
直助は、力強く頷いていた。

〇七.翡翠光(おやすみ/ただいま/また会えたら)

季節は一巡りをして、もう、外の世界では春を迎えようとしていた。
今日は三月下旬に控えた歩さんへの誕生日プレゼントを探しに渋谷を訪れていて、もしかして、と、優馬に声を掛けたら暇だと言うので、一緒にランチをする事になった。
プロジェクトにいた頃は、俺も優馬もまだ若かったから、二人でランチといえばラーメンとか、そういうガッツリなものが殆どだったんだけど、「落ち着いて話がしたいな」って優馬が言ったから、俺たちは渋谷の喧騒からは少し離れた場所にある、お洒落なカフェに向かった。
「えっ⁈それで、プロポーズしちゃったの?」
「そう……なんだ……、勢い余っちゃって……」
「っていうか、付き合ってたの⁈えっ、いつのまに⁈」
「ごめん、それも、おいおい話さなきゃって、思ってたんだけど……」
優馬には、歩さんとの事を話した事は無かった。今となっては、この大親友が俺を嫌いになったりするわけがないと自信を持って言えるんだけど、三年前のまだ若かった俺は、優馬に軽蔑されるのが怖くて、同性と付き合ってる事、芸能界の先輩と付き合ってる事を言えずにいた。だから、今回の半同棲生活を始めた時にも結局言い出せなくて、いや、まず、頭の良い優馬だったら気付いていると思ったし、知られてしまったらその時はその時だと思っていたけれど、優馬は俺に何も追求してくる事がないまま、今の今になってしまったわけである。
いきなり、「プロポーズをしてしまった」と言う話を切り出した俺に、優馬は飲んでいたアイスティーを置いて、それでも俺にだけ聞こえるくらいの音量で、驚きの声を上げる。
「……優馬に、嫌われたり、心配かけたく無くて、どうしても言い出せなくて……」
「俺がナオの事、嫌いになるわけないでしょう?」
「そう、……なんだよなぁ……、本当にごめん……」
完全に呆れた様子の優馬に、更に申し訳ない気分になって、俺はその場に深ーく頭を下げた。
「……でも、話してくれてありがとう。俺は、応援するよ?ナオの事だもん」
「ゆ、優馬ぁ……」
これだから、俺は俺の親友が大好きなのだ。
今は道が違えてしまったけれども、アイスティーをくるくる回してニコニコと微笑んでいる優馬は、俺たちが出会った頃からずっと変わらない、俺の大好きな優馬のままだった。
ランチを終えたら、優馬とは駅前で別れた。優馬は、五月に大事な試験が控えていて、勉強に集中しているところだから、多分それが終わるまでは俺から誘う事は無いだろうなって思ってた。でも、試験が終わったら、今度は息抜きに旅行にでも行きたいなぁって話もして。五月だったら鎌倉の紫陽花が綺麗なんじゃないかって、優馬が笑う。
「じゃあ、また会えたら詳細話そうか」
「そーだな。連絡くれよな?俺はいつでも大歓迎だから!」
駅の改札口に消える、親友の背中を見送った。
俺はいつでも、優馬の一番の味方だって思っている。

「ただいま」と、誰もいない部屋に電気をつけて、さっきメールボックスから大量に持ち帰ってきた郵便物をダイニングテーブルの上に置く。ダイレクトメールが殆どだったけれど、その中に一通、繊細な装飾の施された封筒を見つけて、俺は首を傾げた。宛名は当然のごとく俺で、差出人があの『天羽玲司』だったからだ。その、充分に見慣れたはずの名前とその隣に綺麗に収まった一人の女性の名前にも。
ハサミで丁寧に封を開けるとそれは、一通の結婚式の招待状であった。
結婚。あの、あらゆる世代の女性に大人気の俳優で、世界の天羽玲司と呼ばれたあの男が。
俺は目を丸くして、式の詳細やら返送用のハガキやらが入った束を呆然と見つめていた。……自分が思っていたよりも、冷静にその状況を受け入れていたのだが、いやでも、あの玲司が?俺たちも三十代に差し掛かる良い年齢だった、だからもちろん結婚して家庭を持つメンバーもいるだろうなとは思っていたけれど、まさか、トップバッターが玲司だなんて思わないだろう。あいつは、あいつのイメージは、いつだって綺麗な女性に囲まれて、色っぽく酒を飲んでいるような男だった。俺の勝手なイメージなのだが。その天羽玲司が、結婚?
俺は先日プロポーズをされたばかりの自分の事はすっかり棚に上げて、その封筒を握りしめてぷるぷると小さく震えていた。多分、先を越された事がちょっと面白く無かっただけだ。
我ながら子供っぽい話である。
「歩さーん!ただいまでーす!」
しばらく呆然としていた俺であったが、玄関先から直助のそんな元気な声が聞こえてハッと我に返った。そうか、今日はオフで、渋谷に買い物に行くのだと楽しそうに話していたのを思い出した。俺は結婚式の招待状をカウンターの上に置いて、その他の不必要なダイレクトメールの類いをまとめてゴミ箱に放った。
「おかえり。買いたいものは買えたか?」
「それなんですけど……えっと……」
春用のコートを着た直助が、リビングダイニングの入り口で気まずそうにぽりぽりと頬をかいていた。「どうしたんだ?」と問うと、直助は言い出しにくそうに続ける。
「歩さんのお誕生日周辺で、どこかオフってあります?」
「当日は……多分休みのはずだが、それが?」
「俺、絶対休み取るんで、その日一緒に出掛けませんか?」
「は……?」
そんな、突然のお誘いに俺が首を傾げていると、直助がクイっと俺の腕を引いた。
「指輪を二人で選びたくて」
「は?」
「お誕生日には、歩さんに指輪を贈らせてください‼︎」
真っ直ぐな瞳に、泣き出しそうになっていた、俺は。
抱きしめられて、思い知る。自分の幸せをすっかり棚に上げていたのだ。

深く、反省をして。古くからの相方の幸せもついでに願ってやろうと心の中で誓った。

「久しぶりに何にもしないで眠りたい」って言い出したのは歩さんで、最初は疲れてるのかな?って心配になったんだけど、どうやらそうでも無いみたいで。俺は歩さんがお風呂に入ってる間に、キッチンのカウンターに無造作に置かれた一通の封筒を見つけた。明らかに結婚式の招待状だとわかるそれと、差出人の名前に思わず「あっ」と声を上げてしまったのだが、俺の声は誰もいないダイニングに消えて行った。
玲司さんが、結婚?
まだ、ワイドショーも週刊誌も知らないようなその大ニュースに、俺も目を丸くした。
きっと同じような封筒が事務所寮の方にも届いているはずで、玲司さんの事だから、大人気スターの結婚は数日中には世間を賑わすであろう事は目に見えていた。だから歩さんがちょっとナーバスだったのか……、と帰宅してから今までのあの人の行動を振り返ってみた俺だけど、けれど、まぁ、正直なところ、ホッとしている自分もいるのに驚いている。いやでも、吹っ切れたつもりだったのだ、あの人の存在は。俺の中ではもう、割り切っていた。
歩さんにとっての玲司さんは「そういうもの」
だから俺は素直に、この人の結婚を祝っている。
「……おめでとうございます、玲司さん」
俺は何事もなかったように封筒をカウンターの上に戻して、湿った髪の毛を雑に拭いながらテレビのスイッチを入れた。夜の賑やかなクイズ番組の声が響いた。
しばらくして、歩さんがお風呂から上がってくると、俺たちは並んで歯磨きをして、並んでベッドに入る。今日は何にもしない日。だからパジャマを着て、広いベッドで手を繋いで眠るだけ。部屋の電気を消して、歩さんは眠る時は真っ暗が好きだから、ベッドサイドの間接照明も落として、寝室を暗闇が包み込む。ひっそりとした、お互いの息遣いだけが聞こえる静かな空間の中で、暗がりで歩さんが俺を見上げて、そっと声を掛けられる。
「……今日は、抱き締めて眠っても良いだろうか?」
これには俺が驚いて、目を丸くして。でもすぐに「良いですよ?」って頷いて。
そうして、戸惑った様子の歩さんがおずおずと手を伸ばして来たから俺は黙ってそれを受け入れる。ぎゅっと、温かい。人の体温に抱き締められると安心する。
「直助、おやすみ」
願わくば、あなたが見る夢が幸せでありますように。
俺はそんな願いを込めて、あなたの背中に手を伸ばす。

「おやすみなさい、歩さん」

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