夢を見た。
真っ暗な夜道を歩いていた。
月明かりも無い夜で、俺は音を頼りに歩いている。どうやら一本道の様で、行先は決まっている様だった。
一本道。前も後ろも見えない暗闇。いつまで歩けばいいのだろう、不思議と疲れは感じないが、変わり映えのしない暗闇に、気持ちがうんざりとしてしまいそうだった。
しばらく歩いていると長い橋に差し掛かる。ぼろぼろで今にも崩れ落ちそうなボロ橋だ。ここしか進めるところは無いのだろうか?辺りを見渡すが他に道は無いようだった。こんなボロ橋、渡って落っこちるのは嫌だ。引き返すか?この当てもない暗闇を?それも嫌だ、怖い。
途方に暮れていると、遠くの方に小さな光が見えた。
「幸!」
ーーー橋の向こう側から、愛しい人の声がする。
目が覚めると目には涙が滲んでいて、夢を見ていたのだけれど、おぼろげにしか思い出せない。
怖い夢だったのだろうか。涙が零れた頬を指先で撫でると、悲しい夢だった気もする。
体を起こしてベッドルームを見渡すと、寝入った時と変わらず、真っ白なベッドの上にひとりぼっち。私物はほとんど実家に送ってしまっていた。と言っても、家具や家電はここに越して来た時に2人で買ったものばかりだったから、私物といえば溢れんばかりの衣類品全般とほんの少しの生活用品。あとは、使い古した大切なミシン。それらを詰め込んでも段ボール数箱に収まってしまって、この広い3LDKのマンションで俺の居た形跡はたったこれだけだったのかって驚いたものだ。
ぼーっとする頭で、どれ位寝ていたのかと枕元に投げ出されていたスマホの画面を確認すると19時を過ぎていて、仮眠のつもりだったのに、半日以上も寝てしまった。
眠い、でもこのあと約束がある。大事な約束が。
手にしていたスマホで、事前に聞いていた飛行機の到着時間を確認すると、『21:30』。到着地が羽田で良かった、うちからなら車を飛ばせば30分で着くはず。支度をしなくては、と、フラフラとベッドから降りると、とりあえずはシャワーでも浴びようと重たい足取りでシャワールームへと向かう。
シャンプーもヘアケアグッズも全部しまってしまった。あと残ってるのは歯ブラシと基礎化粧品くらい。家の中から俺のいた形跡を全部消して、今日ここを発つ予定であった。
シャワーを終えて、ほとんど物の入っていない冷蔵庫から水だけを取り出して口に含む。
リビングに置かれているでかいテレビを付けると、チャンネルも何もいじっていないのに画面から見慣れた恋人の顔が現れて思わず驚いた。テレビ用の作られた笑顔を浮かべてる。番宣だろうか?司会者と複数の出演者がひな壇に並んで、トーク形式で展開していくバラエティ番組の、一番司会者に近いいい席に座ってる。
俺の恋人。映画やドラマに引っ張りだこの人気俳優、皇天馬。
子役の頃から様々な作品に出演してきたが、ハタチを越えてからはその人気はうなぎ登りで、先日30歳の誕生日を迎えてもなお、老若男女問わず安定した知名度と人気を保持していた。
今はイタリアだかフランスだかで来春公開の映画の撮影をしていて、ひと月ほど家を空けている。この番組もきっと録画なのだろう。ひと月の滞在という事で、彼自身の誕生日も、俺の誕生日も時差の関係で変な時間にLIMEでお祝いメッセージを送り合う程度で終わってしまった。帰ってきたらまとめて一緒にお祝いしようと言っていたけど。あっけないけど、付き合って10年以上も経つとこんなものなのかなって思ってしまう。
『ーー天馬くんと付き合う子は大変そうだね〜、結構私生活もこだわり強いでしょ?』
『ーーそんな事ないですよ、私生活は本当にずぼらです。でも俺の世話しなきゃいけないから、そういう面では大変かもですね』
『ーーえーでも天馬くんのお世話したい女の子なんていっぱいいるでしょ〜』
司会者のベテラン男性芸人とゲストの女芸人のやりとりに、他のゲストや客席の観覧者も笑いに包まれる。困ったような笑みを浮かべて、「やめてくださいよ〜」と、年下の女芸人に敬語で返す天馬に、司会者は続けた。
『ーーでも天馬くんももう30だから、そろそろ結婚とか考えるでしょ?真面目な話、結婚するならどんな子がいいの?』
『ーーそうですね、…』
ぷつん、とテレビを消して、出しっ放しにしていた基礎化粧品をダイニングテーブルに広げる。
夜だからメイクは必要ないけどスキンケアだけはしっかりしなくてはと、ボトルたちの中から順番通りに肌に乗せて、優しく押し込むように浸透させる。可愛いの賞味期限はとっくに過ぎてるけど、今はただ衰えていく肌が恐怖で必死に抵抗している途中。女の子達が言う「男は30歳から」って言うの、嘘だと思うし、ハタチなりたての頃は30なんてオッサンだと思ってた自分が、オッサンに片足突っ込んだ年齢になっている事実が信じがたい。
それでも美容に気を使っていれば、半永久的に美しくいられるいい見本が身近に居たから、その人から教わった、毎日の日課になってしまっているスキンケアはやめられない。おかげさまでシミひとつないつやつや輝く頬をひと撫でして、よし、と気合いを入れる。
白のスキニーパンツにベージュのノースリニットを合わせて、足元は黒のショートブーツにしよう。車を運転するからローヒールで。若い頃はほとんどパンツなんて穿かなかったけど、大人になるにつれて許容範囲が広くなってきた。苦い野菜も辛いワサビも食べられるようになったし、デザインが気に入ればパンツも穿くし、意外と自分は黒が似合うと知ってからはファッションに黒を取り入れるようにもなった。タバコは肌に悪いから吸わない、お酒は人並みには飲める、車の運転が好き。
オッサンにはなりたくないけど、オトナは結構楽しい。
部屋に残された僅かな自分のものを小さなトランクに詰めて、飲みかけのミネラルウォーターも手持ちのショルダーバッグに入れる。ちょっと早いけどもう出よう。金曜の夜、道路が混んでいてイライラするのは嫌だし、このまま家にいると決意が揺らいでしまいそうで怖かった。
肌寒いからカーディガンを羽織り、左手にトランク、ショルダーバッグを肩がけにして。玄関脇の全身鏡には、いつもの自分が写っていて、ちゃんと笑えるだろうかとにっと笑顔を浮かべてみたけど不自然な笑顔の男がそこにいるだけであった。
カラカラカラ…
マンションの地下駐車場の仄暗い明かりの中、トランクをひく音と、ヒールの音が反響して静かに響く。この設備の整った高級マンションで、唯一この地下駐車場の自分のスペースがエレベーターから遠いってのが難点だったなと、歩きながら思い返す。高級車ばかりが駐められている区画を二つほど曲がって行くと、2台並んで仲良く置かれている愛車達の姿が見えた。
片方は真っ赤な軽。この地下駐車場に置いてある他の車と比較すると、だいぶ庶民的な値段のコンパクトカーだ。25歳で独立して、フリーランスで仕事を始めてから自分で購入したもので、都内の狭い道でも乗りやすく運転しやすいから、普段使い用にしている。
もう一方は対照的な色の新雪みたいに真っ白なポルシェ。こっちは天馬が母親から譲り受けたものらしく、元々は天馬が乗っていたのだが、あの方向音痴のポンコツにハンドルを握らせて無事に目的地にたどり着いた事が無かったため、紆余曲折を経て今は俺が鍵を預かっている。それ以来、2人で車で出掛けるときは俺が運転手ってのが暗黙の了解になっていた。左ハンドルは運転しにくいけど、やっぱり流れるようなデザインのボディーは美しい。
お迎えはポルシェ。それで羽田まで行ってピックアップして、一度家に送ってあげよう。
そっから軽に乗り換えて自分だけここを後にすればいい。
トランクだけを軽の助手席に乗せ、鍵を閉め、自分はポルシェの運転席に乗り込む。キーを回してエンジンをかけると、Bluetoothが勝手にスマホに接続したらしい、カーステレオからは彼が好きだと言ったアーティストの曲が流れてきたから、慌てて自分のお気に入りだけを集めたプレイリストに切り替える。
別れを切り出すつもりであった。
14年間、ゆうにおれの人生の半分、共に歩いてきた無二の存在に。
恋人であり続ける為には互いに依存しすぎていて、家族になるには世の中の壁が高すぎた。
人生が一本道だとしたら、今はぼろぼろの吊り橋の前で立ち往生しているとこ。向こう側には天馬が待っているけど、渡りきる度胸なんてない、一歩足を踏み出す勇気すらも。おれはそっち側へは行けない。行く資格がない。違う道を探さなきゃいけなかった。
ギアをドライブに入れてアクセルを踏み込むと、車はゆるやかに走り出す。
地下駐車場から外へ出ると、それまでの仄暗いあかりから一転して、都会のビル群の光が華やかな夜が待ち受けていた。時刻は20時過ぎ、今日は花金だ。オフィス街には残業を終えてこれから飲みにでも繰り出すのだろうか?一流企業のサラリーマンやOLたちが足取りも軽く駅へと向かっている。それを横目に、道路をすいすい進む。
2人で居住しているマンションは、天馬の仕事の便を考えて都心の高層マンションを選んだ。某テレビ局の側で、高層ビルや有名企業のオフィスが多くて賑やかな土地だったけど、部屋に入ってしまえば都会の喧騒から離れて静かなもので、あまり気にならなかった。地下駐車場とフロントのセキュリティのおかげで、芸能人でありながらここに住んで一度も、マスコミの餌食になった事もない。近所に唯一ある高級スーパーの物価が引くほど高いのには辟易したものだが。
信号待ちに差し掛かると、車に備え付けのカーナビを操作して羽田空港までのルートを確認する。豊洲から首都高に乗って海沿いを進むルートと、京急本線沿いを進む一般道のルートが表示されていた。どちらも到着時刻は大して変わらないが、海が見たかったから有料道路の方を選ぶ。
じゃあ、このまま夜の銀座をつききって、豊洲に出よう。
若い頃の俺には、将来こうして自分が車を運転しているビジョンなんて無かった。電車の交通網が発達している都内では免許なんて無くても暮らしていけるし、乗るとしても、誰かが運転してくれる車の助手席で可愛く収まっていればいいとすら考えていた。考えを変えたのはやっぱり天馬だった。芸能人ゆえ、道を歩けばファンがひっついてくる、ファンだけならまだいいが、人気俳優のスキャンダルを狙う週刊誌の記者に追い回される危険も考慮して、電車移動はさせられない。彼自身に運転させるのは、先述の通り言わずもがな。だから18で免許を取ってから今まで、おかげさまで絶える事なく車に乗る機会があった。天馬以外を助手席に乗せることは滅多にないけど、それでもたまに遊ぶ事がある椋やあず姉からは「運転上手いね」って褒められたりするから技術も悪くないんだろう。
ステレオから流れるETCのアナウンスを聴きながら、高速道路に入る。夜の首都高を運転するのが好きだった。都会の光を浴びて、左右を檻みたいな遮音壁に囲まれて、好きな音楽を聴きながら車を走らせるのが好き。
首都高はちょっと混んでいたが、金曜にしては車が流れている方だ。スムーズに合流を果たし、流れに乗るべくアクセルを踏み込む。ナビの到着予定時刻がちょっとだけ早まっていた。羽田空港まであと15分、左手に海が見えて、気分が上がってカーステレオの音量も上げていく。
***
夢を見ていた。あいつと出会った頃の夢だった。忘れもしない夏組旗揚げ公演、ふんわりとしたアラビアンな衣装を着て、ヴェールの奥で珍しく機嫌よく笑っている。今よりも幼い、それこそ小さな男の子みたいにあどけない笑顔だった。あいつ、今も美人だけど、若いときはそりゃあもう可愛かった。顔だけは。それでも一目惚れなんて事は一切無くて、第一印象はクソ生意気なガキだった。子どもとしか思えなかった、はず。でも何だかんだ面倒見が良くて、頑固だけど筋が通っていて、油断して笑うと可愛くて、あんな可愛らしい見た目に反して男気溢れるギャップってやつに落ちてしまったんだと思う。
ーーー当機はまもなく着陸体制に入ります。座席の背とテーブルを元の位置にお戻しになり、シートベルトをしっかりとおしめください。ーーー
ハッと目を覚まして辺りを見ると、それまで静寂に包まれていた機内が僅かにざわつき始める。どうやらもうすぐ日本に到着するらしい。時差ボケ予防のために仮眠を取っていたつもりだったが、割と本気で寝てしまっていたようだ。ファーストクラスのシートとは言え寝心地がいいものでは無く、やっぱり家のベッドが恋しいなと思う。バキバキに固まった肩を軽く動かして、周りに習ってシートベルトを装着した。デニムのポケットからスマホを取り出すと、そう言えば向こうの時間のままだったと思い出してスマホの時計を調節する。イタリアとの時差7時間、7時間分遅れていた時間を進める。東京は夜の9時過ぎだ。大人たちは仕事を終えて、まだ遊んでいられる時間。
ロック画面を見るとLIMEが届いていたので、メッセージを確認すると、見慣れた名前。
『幸:早く着いちゃった。駐車場でいいよね?』
可愛い白猫のイラストが添えられていた。
到着ロビーまで出迎えにこないのは幸の優しさだ。どこで誰が見ているか分からないからと、俺以上に気を使ってくれるのがあいつだった。まだガキだった頃は俺の方が年上だし、男の矜持もあって、あいつの事は俺が守ってやらないとと思っていた事もあったが、これまで10年以上も一緒にいて実際に守られていたのは俺の方だった。
三十路の誕生日を迎えた今じゃ笑い話にしかならないが、スキャンダル知らずの清純派俳優であり続けることが出来ているのはあいつの努力と我慢の賜物だ。
日本にいた時は近くにいすぎて気付かなかったが、ひと月離れてみるとどれだけあいつに依存していたのかと実感する。
付き合う前も付き合いだしてからも、大小数えきれない程の喧嘩を繰り広げてきたが、出会ってからの14年、関係が途切れる事は一度も無かった。芝居以外の楽しみを知らず、親しい人なんていない、あらゆる面で世間知らずだった俺に、世界を教えてくれたのは幸だ。
面と向かって言った事は無かったけど、本当に特別で、大切だった。
機内の荷物棚の中、土産袋の一番奥に、あいつへの土産兼誕生日のプレゼントが入っている。中身の金額的には物騒な場所に置いてあるが、かさばるためポケットなどに入れるわけにもいかず、また、直接渡したかったから家に送るわけにもいかなかった。
飛行機が緩やかに降下して行く。
小さな頃はこの耳が詰まる感じが不快で嫌だった。大人になっても慣れないもんは慣れないんだなとぼんやり思いながら、ふかふかのシートへ身を沈めた。
***
♠︎
ひと月ぶりの日本は、夏真っ只中のはずだ。ゲートで手続きを済ませて、未だ空港内にいるから外の様子は分からないが、乾燥したイタリアの夏に慣れてしまった身体には堪えそうだ。
帰国の予定は知らせていたが、空港まで迎えに行きたいと幸からの申し出があったのは数日前の事だった。今までも撮影で家を空けていた時などは、こうやって空港や駅まで迎えに来てくれたりする事があったし、その後のスケジュールが空いていればその足で出掛けたりもしていた。今日もそんな感じだろうか?コロコロと中身の詰まった重いトランクを引いて歩く、帽子は目深に、時間帯的にサングラスは違和感があるが仕方ない。到着の連絡を入れようと、掛け慣れた番号を呼び出した。
トゥルルルル…
『…もしもし』
ワンコール目で繋がる。久しぶりに聞いた声に、思わずこちらの声が明るくなった気がした。
「俺だ。今着いたぞ、どの辺にいる?」
『おかえり。そのまま地上に出ないで、駐車場への連絡通路渡ってこっち来て。迷わないで来れんの?』
「お前…帰国早々失礼なやつだな。心配しなくても大丈夫だって」
『はいはい。駐車場に出たら教えて、そっから口頭で説明する』
くすくすと笑われているのは癪だが、電話の向こうにいる幸の姿を思えば愛しさが込み上げてくるから不思議なものだ。それほどまでにひと月という期間は長かった。
長時間のフライトで身体はしんどかったけれど、足取りは軽い。
♡
到着ロビーから駐車場への連絡通路へは一本道なので、空港内の案内通りに進めばさすがの天馬でもたどり着けるはずだ。電話の通話は続けたまま、幸はバックミラーで自分の姿を確認する。重苦しい顔はしていないだろうか?ちゃんと笑えているだろうか?
ついでに前髪をさっと整えて、もう一度運転席に座り直す。
顔を見れば別れを惜しんで何も言えなくなってしまうんじゃないかという危惧はあった。ひと月ぶりの再会だ。ひと月顔を見ていなかったから、衝動的に別れを告げようとしているのだと言い訳付けて、言葉を飲み込んでしまうんじゃないかって。
でもそうじゃない、ずっと考えていた事だった。それこそ付き合いだした頃からずっと。
天馬は男で、俺だって、こんな格好してるけどれっきとした男。男同士の恋愛に生産性など無くて、もちろんゴールなんて存在しない。俺も彼も子どもなんて産めないし、結婚という契約すら、法律が許してくれない。世間に認められない、「家庭」を持てない、そんな不確かな関係に意味なんてあるのかってずっと思っていた。
だから、俺は勝手にゴールを決めていた。
天馬が30歳になったら、俺は彼を解放する。誕生日はちょっと過ぎちゃったけど。
『駐車場着いたぞ』
天馬の声が耳に響く。
カウントダウンのようだ。
♠︎
『そのまま真正面の列なんだけど、そこからだと大分奥の方だから真っ直ぐ歩いてきて』
車が整然と並ぶ駐車場。幸のナビゲート通りに真っ直ぐ進む。
トランクに入りきらない土産物を肩に掛け直し、コロコロと音が反響する駐車場で荷物を引いて行く。イタリアとフランスに滞在するって言ったら、「おれも行きたい」ってブーたれてたもんな。
だから撮影の合間に出来た1日きりのオフで、無駄に買い物をしてしまった。イタリアは俺自身が好きなブランドが沢山あったし、店を回るたびにこれ幸に似合いそうだ、好きそうだ、って考えてたら気づいたら両手に抱えきれない程の量になってしまっていた。そのノリで買ったのが、土産袋の最奥で控えるライトブラウンの小箱。高級宝石ブランドのロゴ入りのリボンで飾られたその中身は、シンプルなデザインの指輪。値段的には婚約指輪と呼べるような大層なものじゃないが、俺も30を過ぎたし、けじめを付ける意味で買った。指輪を贈るのは初めてだった。
いつどのタイミングで渡すかずっと考えていたが、中々いい案が浮かばない。早速車の中で?そんな事したらテンパった幸が事故でも起こしたらどうする。じゃあ家で、他の土産物を開ける流れでさりげなく忍ばせようか。それじゃああまりにも男らしくないんじゃないか。このままどこかに出かけて、そこで渡す?そんなロマンティックなシチュエーションなんて知らないぞ。
『あ、いた。』
うーんと1人考えていると、耳元で幸が声をあげ、側に止まっていた白い車のライトが一度、カチリと光る。見覚えのある車。数年前に母親から「もう乗らないからあげる」って言われて譲り受けたポルシェ。色々あって幸に預けているが、あいつも俺がいる時しかこれに乗らないようだった。
電話を切って助手席に回ると、運転席側に久し振りに会う恋人の顔。
少し髪が伸びた、あと少し痩せた。これ以上痩せてどうすんだ。真夏なのにほっそりと白い頰には化粧は施されていなかったが、暗がりでもわかるくらいの美人。大きな瞳、整った鼻筋、薄い唇、小さな顎。出会った頃は可愛らしい少女のようだと思っていたが、成長してからは性別も年齢もはっきりしないような、危うい美しさをしていた。
「おかえり。ちゃんとご飯食べてた?」
「あぁ、」
返事をしながら助手席へと乗り込む。
「日焼けしてる。あっちも今は夏だっけ」
また、返事は「あぁ」だけになってしまった。
…様子がおかしい。意図的なのか無意識なのか、目線を合わせてこようとしないのだ。照れている時にこっちを見ない癖があったりするが、今のこれは違う気がする。
「…おまえ、なんか今日元気無いな」
ぴくりと幸が反応して、ようやくこちらに視線を寄越す。
「…そんなことないよ」
具合でも悪いのか、それとも仕事が忙しいのか。いずれにしても調子が良く無いならこの後のデートはお預けという事になる。まあ家に帰ってゆっくり休むのも悪くないかと、気遣うように頰に手を伸ばすと、不自然な程にバッと避けられる。
…これは、
「天馬に話がある」
怒って、いる?
強めの口調でこちらに向き直る幸だったが、あいにく俺には怒らせるような心当たりが無い。
何事だろうかと、返答代わりに首を傾げていると、ぴんと伸びた背中のおかげで同じくらいの目線の高さから、幸は泣きそうな顔で告げた。
「ねえ俺たち、別れよう。」
♡
絞り出した声は天馬に届いただろうか。
シートベルトを締めかけたところで動きを止め、俺の言葉に唖然とした顔を向ける天馬。
出会ってから14年経つが、別れを切り出した事は一度も無かった。もちろん人並みに喧嘩はするし、俺も天馬も気が長い性格では無いので、激しい喧嘩になった場合、手が出る事だってあった。
それでも、別れに至る事は一切無かったのだ。
「…は?どう言う事だよ」
怒っているような口調では無かった。ただ本当に、俺が何を言っているのか理解出来ないとでも言いたげな顔で、吐き出すように言う。
「別に。どうもこうもないよ。あんたも30歳になったし、いい区切りかなって思って」
「言ってる意味がわからない」
「そのままの意味だってば。俺は俺でやりたいことがあるし、天馬も、俺なんかから解放されてもっと別の生き方探したほうがいい」
俺なんかっていう言い方はらしくないって思うけど、伝えたい事は大体合っている。
この先、30歳を過ぎてオッサンになって、それでも恋人であり続けるには、互いに依存しすぎている。周りの同世代の人間たちが結婚して子どもを作って、家庭を持っていく中で、そういった一般的な幸せとはかけ離れた所で歳を重ねていくイメージが出来ない。
俺はまだいい。元々交友関係も少なく、その枠の中に収まる僅かな大切な人たちは、小さな頃から変わり者扱いされてきた俺を理解してくれる人ばかりだったから。ただ天馬は、俳優の皇天馬は、光の中で生きてきた人種だ。本人は役のイメージを固定させたくないと言ってはいるが、彼の演じる役はいつも女の子たちが憧れる王子様のような男ばかりだ。不特定多数の人たちが作り出したそのイメージから、かけ離れてしまう事があってはいけない。人気俳優の熱愛報道の相手が、男であって許されるはずがないのだ。
「俺と別れて、普通に女の子と結婚して、普通の家庭持って、幸せになってよ」
一般人の女でもいい、モデルでも、女優でも。
それが世間の望む、イメージに相応しい女なら。
「でも天馬がパパって呼ばれてんの想像出来ないな。あんた子どもの面倒見れるの?」
くすくすと笑いながら目をそらすと、遠くの方に停まっている車のライトが滲んで見えた。
「幸」と、長い沈黙を挟んで、静かに低い声で名前が呼ばれる。
怒気を含んでいるのは伝わってくる。
ぞくりと背筋に嫌な汗が伝い、空調を効かせ過ぎているのか、車内がとても寒く感じられた。
「冗談で言ってんなら怒るぞ」
「……冗談でこんな事言うわけないでしょ」
睨まれたから睨み返してやると、天馬はその怒りを含んだ瞳のまま、静かに車を降りて運転席側に回ってくる。
「降りろ。運転変われ」
「はぁ?」
今度はこっちが、彼の意図するところがわからず、間の抜けた声を出してしまう。
訝しむ様子で見上げていると、腕を掴まれて座席から引っ張り出された。まだシートベルトを締めていなかったから外に出るのは容易だった。入れ替わるように運転席に収まった天馬を見下ろして、しばらく車外で呆けていたが、兎にも角にもこのままでいるわけにはいかないので、仕方なしに助手席に座る。無言でドアを閉めると、そこでようやく天馬が口を開いた。
「何があったか知らねえが、少しは俺の話も聞け。」
そう告げると、流れるような動作でシートベルトを締めてエンジンをかけ、車を発進させる。そういえば彼の運転で出掛けるのはどれくらいぶりだろうか。頭の中で年月を計算して、サーっと顔が青くなる。
「ねえ、狂って心中する気だったら車止めて。おれ、まだ死にたくない」
「おまえ乗せてんだから安全運転に決まってんだろ」
本人の言うように、天馬は方向音痴だけど運転が下手ってわけではない。だから危なっかしいというわけではないのだけれど、この別れ話の途中にハンドルを握られると何をしでかすか分からない怖さもある。駐車場のスロープを降りると、車は道路へと出た。
「…どうせいつもの、ネガティブなお前が出てきたんだろうけどよ」
夜の環八。車道はライトに照らされていて綺麗だ。花金と言えどこの辺りには空港に用事のある車くらいしか通らないから、車通りはまばらだった。この車だといつも運転席に座ってるから居心地が悪いし、いつもと違って静かな話し方の天馬にも落ち着かない。
「いつからそんな事考えるようになった。俺がひと月も家を空けてたからか?」
「…そういうわけじゃない」
そういうわけでは無かった。ひと月会えないからといって拗ねてしまうくらい素直な性格だったら、こんな面倒臭いことは言い出さないと思う。天馬はいつだって多忙で、劇団に所属していて寮にいた頃は流石に毎日のように顔を合わせていたが、天馬が先に寮を出て、俺が就職のために劇団を卒業してからは、会えない日々の方が多かったくらいだ。だから会えない事には慣れてしまっていたし、大人とはそういうものだと思っていた。
だからそんな、突発的なものじゃなくて、ずっと考えていたんだ。
「ずっと考えてた。好きだって言われた日からずっと、こんな関係続けてていいのかって。一人であの広いマンションで寝起きする日には、ああ今日も帰ってこなかったなって寂しくなるし、たまにオフが重なってショッピングに出かけたりすると、絶対に周りにバレてはいけないって常に気を張ってるし、あんたがテレビや雑誌で結婚の話題について話してるのを目にすると、俺のことが語られる日は来ないんだなって絶望的な気分になる。」
天馬は何も言わずにじっと話しを聞いてくれていた。
車は気づけば高速に乗っていたが、通り過ぎた頭上の案内板をちらりと見て、幸はおや、と首をかしげる。
「…家、逆方向だけど。また道間違えてない?」
「うるせーな、合ってるよ。」
このまま進むと神奈川県に入ってしまう。自宅の方向とは逆だったけど、いつも道に迷った時のような焦りを見せていないから、どうやらこっちで合ってるらしい。
天馬の意図するところは分からなかったけど、どうせ仕事にならないと思って明日は1日空けている。14年もの関係にピリオドを打つには一晩かかってしまっても仕方ない。こいつの思いつきに付き合ってやる事にしよう。
片手でハンドルを握り、真っ直ぐに正面を見据える天馬が、静かに言う。
「おまえは、俺の隣にいて、ずっとしんどい思いをしていたのか?」
いつも馬鹿みたいに明るい天馬にしては珍しい、色のない表情をしていた。
「そうだよ。」
俺も静かな声で。
「でも離れられなかった」と、続く言葉はそっと飲み込む。
そんな小さな燻りを積み重ねてきても、別れたいとか、離れたいと思う事は無かった。今もだ。
皇天馬は光だ。気分が落ちてしまうと自分の足元すら真っ暗になってしまう俺を、14年間照らし続けていてくれたのが天馬だった。目に痛いくらいの眩しい光で、足元だけではなく、おれ自身も、周りをも照らしてくれる。背中を押してくれる、欲しい言葉をくれる。だから一緒にいるのが居心地良くて、14年間依存し続けてきた。
一番大切で、天馬の足枷になるもの全てから、こいつを守らなければいけないとすら思っていた。
「嫌いになったって言ったら、別れてくれんの?」
視線を逸らして車窓を眺めていると、遠くの方で工場地帯の幻想的な光が静かに見える。
オレンジ色の優しい光だった。ぼんやりとそれを見つめていると、ふいに頭に優しい感触。
「…お前なあ、嫌いになったんなら泣く必要ないだろ。」
前を向いて、こちらを振り返る事のないまま、頭をぽんぽんと撫でられていた。
「…泣いてない」
「本気で嫌いになったんならきっぱり捨てていくやつだろ、お前は」
そんな酷いやつじゃない、言いかけた言葉が出ない。
今の俺はだいぶ酷いやつだと思う。
涙は出ていなかったが、唇を噛み締め過ぎてちょっと血の味がする。
「本音は?」
一拍おいて次に続いた天馬の言葉に、ホロリと零れ落ちたのは、涙だろうか。
「…おれは、芝居をしてる天馬が好きだったから、その世界を守らなきゃって思ってた。だからこの先何十年も、納得行くまで役者を続けていってほしい。…でもそうなった時、一番の足枷は俺だから、迷惑かけないように天馬の前から消えようって思った」
工場の光がじんわりと滲む。
「あんたの足枷になりたくない。終わりにしよう」
もういいだろう、これが俺の本音だ。
ごしごしと涙を拭って、しっかりと前を向こう。
このドライブが終わったら俺たちの14年間もおしまい。おれは2人で暮らしていたあの部屋を出て、一人で生きていく。俺がいなくなっても、光はきっと輝き続ける。
車がふっと減速する、高速を降りるのだろうか。
「勝手にすっきりした顔してんな、終わらせねえからな。」
高速の出口の標識を通り越して、荒い言葉とは裏腹に規則正しく法定速度を守った運転。目を丸くしている俺には見向きもせず、天馬はやっぱり前だけを向いていた。
人生が一本道だとしたら、今はぼろぼろの吊り橋の前で立ち往生しているとこ。向こう側には天馬が待っているけど、渡りきる度胸なんてない、一歩足を踏み出す勇気すらも。
おれはそっち側へは行けない。だからさよならだ。
大声で叫ぶと、そんな事は御構い無しに、向こう側の天馬が吊り橋に足をかけ、こちらに来ようとしている。
♠︎
幸の運転が好きだった。よく、車の運転には性格が出るって言うけど、それは幸にも当てはまっていて、几帳面に見えて実は大雑把だとか、辛辣な言葉の裏側は、実は優しかったりして。
第一、俺は運転が出来ないわけではない。一人の時はこの車で走りに行ったりしていたし、散々方向音痴だと罵られているが、車にはカーナビという便利なものが付いているから迷っても何となく行きたい場所に行けるものだ。それでも二人でいる時は、大人しく助手席に甘んじていた。
ゆったりとしたシートに身を沈めて、綺麗な横顔を見ながらのドライブは俺だけの特権だった。
だってほら、運転していたらこいつの顔が見れない。
高速を降りて交差点の信号に差し掛かると、ようやく幸の表情がうかがえる。ウサギみたいに赤くなった目で俺のことをジッと見ていて、「まだ何かあるのか」と言わんばかりに睨まれる。
「俺の話を聞けって」
無言の訴えに一言返すと、幸は黙って視線を前に戻した。
信号を曲がり、しばらく海沿いの道を走って、車を人気のない埠頭に停める。
夜景の綺麗な公園でも良かったのだが、今の俺たちにはこれくらい物静かな場所の方が都合がいい。
工場の倉庫に挟まれたそこは、遠くに見える観覧車の光と高速道路の光が届くくらいで、車のライトを消してしまえば本当に真っ暗だった。
暗さに目が慣れてくると、幸の色白な頬の輪郭が浮かんでくる。
「別れよう」は正直言って想定していなかった。
だってそうだろう、ひと月前は穏便に旅立ったのだ。映画の撮影で海外での長期ロケ。行き先がフランスとイタリアだと言ったら、ファッションの本場だと、俺も行きたいとだいぶゴネていた。そんな事言ってもこいつも独立して仕事がようやく軌道に乗ってきた頃だったから無理だろって言ったら、泣く泣く諦めてくれた。だから俺も、土産を沢山買ってくるからと言って笑顔で家を出た。向こうに滞在中も、互いにマメに連絡を取るような性格ではないから、電話もLIMEも控えめだったが、それでも誕生日には電話しておめでとうと言えたし、その時の幸の様子もいつもと変わらなかった。
「嫌いになった」とは言っているがそんなのは嘘だってすぐにわかる。
でも、俺の隣にいてしんどい思いをしていたのは本当で、それでも幸は俺を、役者としての俺を守るために沢山の苦労と我慢を重ねてきてくれた。そうやって長い間俺の事を守ってきてくれた幸だから、「足枷になりたくないから終わりにしよう」って言うのも、こいつが考え抜いた答えなんだと思う。
けれど、そんな事は、
「お前は、俺の足枷になりたくないって言ってくれたけど。言っとくけどそんな事俺は一切思ってないからな。」
暗闇、静かなエンジン音。カーステレオからは夏のドライブソングが流れていて、ミスマッチな選曲だなぁとぼんやり思う。幸からの返事はない。だから俺も勝手に続ける。
「仕事で疲れた日とか、帰ってきてお前が出迎えてくれるだけで疲れ吹っ飛ぶし、うちは両親忙しくて家に居たことが少なかったから、家族ってこんなもんなのかなってずっと思ってた」
相当照れ臭い事を言っているが、どうせ暗がりで表情なんて分からないだろう。
「おかえりと、いってらっしゃいって言ってくれる人がいて、飯も、一人で食うより二人が良いし、くだらないことで怒ったり笑ったりして…」
伝えたいことは次から次へと出てくるけど、上手く言葉に乗せられない。
夜遅い時には仕事場ですやすやと眠ってしまっていて、抱えてベッドに運ぶ時の軽さと温もりとか。真夜中にコンビニに行く道すがらの着地点のない会話や、一緒に食べる飯のうまさ、いただきますもご馳走さまも行儀よく言うとことか。服脱ぎ散らかすとすぐ怒るし、ケンカするとすぐ居なくなるし、仕事が立て込んでるとイライラして八つ当たりしてくるけど、そういうとこもまるっと全部、大事にしてきた。
「…あんたには、やっぱり家族が必要だよ。俺にはそれを奪う権利なんかない」
やっと口を開いた幸の声は微かに震えていた。
「ばーか。全部おまえのことだよ」
馬鹿だ、こいつはもう本当に。
「お前が俺の前から消えて居なくなって、俺が他の女と結婚して、子どもを作ったとする。そんなの相手の女にも子どもにも失礼だろ。お前が居なくなっても、俺の中の1番はお前なんだから」
「…馬鹿じゃないの」
ぼたぼたと、膝の上で握りしめた拳に、涙が落ちる音がした。
「無理に決まってんじゃん、…あんたもおれも男で、そんなの世間が認めるわけない…」
「そうじゃないだろ。」
涙で湿った手を握る。幸の体温が高いのか、俺の体温が高いのか、手のひらがあつい。
「結婚したいならそういう法律が整ってる国に移住すればいいし、子どもが欲しいなら養子を引き取るって選択肢もある。…でも、そういうことじゃないんだろ?」
手を引いて、小さな頭を抱き寄せると、涙で肩口が濡れた。けど、気にしない。
「お前は何がしたい?」
泣き声を堪えているような嗚咽が、静かな車内に響いていた。
ひっく、と、切れ切れで呟くように、小さな声が聞こえる。
「…俺、結婚したいわけじゃないし、子どもが欲しいわけでもない、」
うんうん、と頷く。
「明るいところで、手、繋いで歩きたい…」
ーーー明るいところで。
きっとこれが、幸の心の奥に潜めていた、本音。
幸の言うそれは、きっと誰に咎められるわけでもなく、堂々と外を歩きたいということ。
一緒に、手を繋いで。
慎ましいささやかな願いであったが、性別以上に俺の職業が壁となって立ち塞がって、実現はなかなか難しいのも事実だった。でも、
「この先ずっと一緒にいれば、きっと叶う。」
気の遠くなるような話だったが、それでもこれまで長いこと俺の事を守ってくれた幸の願いだ。時間がかかっても、叶えてやりたいと思う。
「じーさんになるくらいの頃には、カミングアウトしても大した騒ぎにはなんないだろ」
「そんなに待てないよ…オッサンになるのも抵抗あんのに…」
壮大な俺の提案に、幸ははーっとため息を吐いて顔を上げる。
涙でぐちゃぐちゃの顔には、ようやく俺の好きな子どもみたいな笑顔が浮かんでいた。昔から変わらない、きっと、何十年経っても変わらず、俺の側にいてほしいその笑顔。
「お前は可愛いじーちゃんになりそうだよな」
ぽんぽんと、それこそ子どもをあやすように頭を撫でてやると、きょとんと目を丸くした幸が、次の瞬間にはなんとも形容しがたいような表情を浮かべて、くしゃりと顔を歪める。
「あんたって…本当に…」
泣くわけでは無い。悲しい表情ではないと思う。怒っているわけでも無い。何かまずい事でも言ったかと慌てるが、どうやらそういうことでもないらしい。頭を撫でたまま行き場を無くした手を宙に彷徨わせていると、ぽすりと音を立てて胸元に幸の頭が埋められる。
「別れたいなんて嘘、ごめん。おれはきっと、天馬から離れられない」
ふるふると伏せた頭を震わせて、幸はほんとうに小さな声で呟いた。
♡
俺はぼろぼろの吊り橋を前にして、一歩足を踏み出す勇気が出なかった。向こう側では天馬が手を差し出していて俺のことを待ってるんだけど、俺はそこへは行けない。
橋を渡りきってその手を取った後の、未来が見えなくて、どうなってしまうか怖かったから。
俺はそっちへは行けない。だから天馬は俺のいない道を進んでほしい。さよならだ。
天馬に聞こえるように叫んだけど、あいつは御構い無しにこちらに向かって来ようとする。橋は今にも崩れそうなくらいぼろぼろだ。俺一人こっから落っこちるならまだしも、一緒に落ちるなんて、落ちていく天馬を見ているなんて、そんな事出来ない。何のために14年間、俺は、
「幸、」
何でこっち側に来た。
何でそんな風に笑ってくれる。俺はあんたの前から消えようとしたんだ。
俯く俺に差し伸べられた手に、小さな光が見える。
眩しい。皇天馬は光だ。いつだって道に迷っている時には足元を、全てを照らしてくれる。
こんなとこまで連れてきておいて帰りは運転してくれだなんて、何て横暴なんだ。
でも、運転してるお前が好きだからなんて言われてしまったら、大人しくハンドルを握るしか無い。
「なんで横浜だったの?」
きまりが悪そうに窓の外を眺めている後頭部に話しかけると、こちらを振り返ることなく呟いた。
「本当はもっとムードのある場所で渡そうとしたんだよ…」
何が、とは聞くまでも無い。
俺の右手中指に光る、先程までは無かった指輪。
遅めの誕生日プレゼントだと言うその指輪は、ゴールドの台座に、ぐるりと一周小さなダイヤモンドが装飾されている豪華な指輪。ハイウェイの街灯の光を受けて、キラキラと輝いていた。
「あーほんと決まんねーなー俺。」
「いいよ別に。シチュエーションとか興味ないし。この指輪もセンス良いじゃん」
ぽりぽりと頭を掻きながら気まずそうに言うけど、俺は結構気に入った。
贈ってくれた本人がどこまで意味を理解しているかは定かでは無いが、一周回って装飾されたダイヤモンドは永遠の愛の象徴。いわゆるエタニティリングってやつ。よく結婚記念日の贈り物や婚約指輪として用いられるものだった。
天馬は「俺なりのけじめだ」と言ってかっこつけて渡してくれたんだけど、はめようとした左手の薬指にはブカブカで、あまりのお決まりの展開に思わず吹き出してしまった。
「なぁ、やっぱりサイズ直そうぜ」
ぶかぶかすぎて落っことしそうだったから、そのまま薬指にはめておく訳にも行かなかったし、何よりせっかく貰った指輪を箱に戻すのも気が引けて、結局指輪は、ぴったりはまった中指に収まっている。
「やだ。俺はこれが良いの」
永遠を象徴する指輪を、お直しとは言え一度切ってサイズを詰めるのは些か縁起が悪い。
それに、右手の中指にはめる指輪は魔除けの意味もあるという。ピッタリじゃないかと思って、あえて左手から右手に指輪を移した。
そっと指輪に頬ずりをすると、笑みが零れた。
俺は多分、ずっと隣に居られる保証がないままに年を重ねるのが怖かったんだと思う。
年を取ってもなお、役者として一層の輝きを増していく天馬。一方で俺は、年をとる毎に可愛さだとか美しさだとかは失われていく。全部無くなってただのオッサンになってしまった時、それでも彼は俺のことを好きでいてくれるのかって。
美しさには絶対的な自信を持っていたからこそ口に出すことは無かったけれど、きっとずっと怖かった。
ーーー「お前は可愛いじーちゃんになりそうだよな」
だから、そうやって未来の可能性を提示してくれるこいつに、言葉が出なくなった。
心のずーっと奥底にある、汚くてドロドロしたものがすっかり無くなってしまって、悲しさとか恐怖が、行き場をなくしてしまったかのような気分だった。
こいつはきっと、俺がオッサンになって、おじいちゃんになっても、昔と変わらず可愛いって言ってくれるんだろうなって。
「ねえ、明日オフならもうちょっとドライブしてかない?眠いなら寝ててもいいからさ」
「…お前って時々すごいタフだよな」
天馬は呆れたように言ったけど、時刻はまだてっぺんを跨ごうとしているところ。俺は夜まで寝ていたから目が冴えていた。このまま家に帰ってもいいけど、家に帰れば別れる気満々で身辺整理をして飛び出してきたから、俺の私物の何もなくなった部屋にまたびっくりされそうだし。
「どこ行きたい?」
ここからだったら何処へだって行ける。夜のドライブだったら夜景の綺麗なところか、静かな海を見にいくとか、どうしようかなって考えていると、外を見ていた天馬が、ぼそりと一言呟く。
「…温泉」
「はぁ?!」
温泉。予想外の提案に、俺は思わず声を上げてしまう。
「おっさんかよ」
「うるせーなー、久々の日本なんだから日本らしい事してもいいだろ」
「…そりゃそうだけど。温泉かあ…」
ぶーぶー文句を言ってはいるが、俺も結構温泉に心が傾きつつある。
アクアラインを渡って内房?ルート的には引き返す事になりが、東名に乗って伊勢原とか箱根?
いや、ここからならいっそ、東北自動車道に乗ってしまってもいい。
「よし、日光だ」
「…は?日光?」
驚きで目を見開く天馬に、俺は満面の笑みで返す。
皇天馬は俺の光。真っ暗な心をいつだって照らしてくれる。
暗闇だった時は気づかなかったけど、光に照らされ、顔を上げると、俺の周りにはいくつもの道があって、ボロ橋なんか渡らなくても俺は何処にだって行けたんだってやっと気付く。
夜のドライブはまだ終わらない。
ーーでも天馬くんももう30だから、そろそろ結婚とか考えるでしょ?真面目な話、結婚するならどんな子がいいの?
ーーそうですね、…何十年一緒にいても、飽きずに俺の隣で笑っててくれる子がいいです。

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