イノセントデイズ - 1/2

「好きだよ」と言ったら、「俺も」って返してくれる。僕を抱きしめる腕の強さも、穏やかで優しい笑い方もあの人にそっくりで、デジャビュのようなその感覚に未だに慣れることができない。
抱きしめて、キスをして、それ以上のことをしてるっていうのに、数秒後には、「ごめんね」って付け加えるのまで、あの人と一緒だった。
筋肉質な長い足でチェロを抱いて、弓をひくその人を、僕は、ずっと前から知っていた。

ーーー錯覚に陥る。

「翔?」
「な、なんで……?」
「どう?……なかなか様になってるでしょ」

ふふ、と薄い笑いを浮かべて、孝明は、足の間に抱いたチェロを、演奏するモーションを見せる。もちろん、弾けるなんて話を聞いたことは今まで無かったから、これも弾いているフリ、なのだろうけど。それがあまりにも僕の記憶の中の「あの人」と重なって、言葉を失った。

「………なんで、チェロ?」
「年始の特別ドラマで、チェリストの生涯を演じる事になって…役作り?みたいなモン」
「へ…ぇ…」

チェリストの、生涯。
ギクリと胸が鳴って、僕は何も知らないであろう無垢なアメジストから、そっと目をそらす。

「どう?本職から見たらまだまだだろうけど。」
「そ…うだね、全然ダメ、かな?」
「はは、流石にキビシーな」
「僕はチェロは専門外だから何も教えてあげられないけど…。良かったら、そのチェリストの生前の映像があったと思うから見てみる?」
「あぁ、…………って、あれ?俺、その人の名前出したっけ?」

そんな、当たり前の疑問には曖昧な笑みで返すと、僕は、チェロを置いた孝明の、空いた膝の間に割り込んで、返事の代わりにぎゅうと、その身体を抱きしめる。硬質な髪の毛に頬を埋めると、あの人によく似た、けれどもいくらか若々しく爽やかな、香水の香りが鼻先をくすぐった。そう、僕は何度、あなたに大事そうに抱いてもらえる、チェロになりたいなぁなんて、思ったことだろう。

「今度はどこだっけ、」
「……イギリスに、1週間」
「……俺もこれの撮影で、ひと月くらいロケに出ちゃうから。次会えるのはしばらく先かな。」
「そっ、か」
「寂しい?」

大きな手が僕の頭を撫でて、指先で頬を擽る。
この指は、違う。楽器を弾かない人の柔らかな手だ。優しい指先の感触にホッと胸をなで下ろす。あの人とは違うところを見つけて安心するのも、おかしな話だけど。

「寂しい?……そうだね、さみしい、かな。」
「おっ、と…珍しく素直じゃないの」

くだけた口調でそう言って、揶揄うような笑みを浮かべる孝明には、そっと触れるだけのキスをして、その、首元へと両腕を絡める。

「…寂しいけど、ドラマ、楽しみにしてるからね。がんばって。」
「そりゃ、期待に応えられるもん作らないとだな」
「DVD、置いていくから見てね」

開け放った窓からは、金木犀の香りが漂って、もう夏も終わりか、そんな時期なんだなって頭を抱える。僕はこの、秋口になると街中に漂う甘い香りが些か苦手で、この時期になると頭痛と、ギィギィと頭の中に響く、耳鳴りみたいなチェロの音が止まらなくて、気が重かった。それもこれも全部、あの人のせい。DVD、何処にしまっただろうと、暗い記憶を手繰り寄せていくと、ふうと重たいため息が秋晴れの爽やかな色をした空へと散っていった。

僕には、忘れられない人がいる。

 

 

 

 

***

 

 

 

結局あのあと孝明にベッドの中へと引き摺り込まれて、寝不足になり、行きの飛行機の中で熟睡してしまって、帯同していたスタッフさんに揺すり起こされるまで目を覚ませなかった。時差ボケ、じゃないけど眠りすぎて頭がぼーっとする。羽田から直通で12時間弱で着く予定が着陸に手間取って1時間も予定が押してしまっていた。腕時計で時刻を確認して、現地に着いたらやりたい事が沢山あったのになぁと、スケジュールを練り直す。

「小野田さん、着きましたよ。」
「えっ、…あ、はい。」
「時差ボケですか?調子が出ないようでしたら夜まで時間があるのでちょっと休んでてくださいね」
「あ、りがとう、ございます…」

羽田から、空路で13時間、そこから車に乗り換えて2時間ほど。海がほど近いこの場所は、シーズンになると観光客で賑わうリゾート地らしいが、少し肌寒くなるこの季節には人の往来もまばらだった。ここから程近い場所に小規模のコンサートホールがあって、今回はそこでの公演を予定していた。今日のスケジュールは移動とスポンサーとの食事だけだと言うから、このホテルにチェックインさえ済めば、あとは夜までは予定が空く。

「少しだけ、あのホールの中を見れますか?どんなものか確認したくて」
「大丈夫だと思いますよ、一応、確認取ってきますね」
「ありがとう」

笑みを残して去っていく女性スタッフさんの背中を見送って、僕もヴァイオリンケースだけを肩に背負ってタクシーを降りる。波風が肌を突き刺すくらいに冷たい。けれど。鳥の声と風の音、波のさざめく音。色々な音が重なり合って、一つのハーモニーを作り出している。
訪れた港町は、どこか懐かしい香りがするような、古くて暖かい、そんな空気が流れていた。

ここがあの人の愛した街。
風の音に紛れて、どこからかチェロの低音が響いてくるようだった。

止まっていた時が動き出した。あなたの身体と、僕の心を置き去りにして。

 

***

 

僕が彼と出会ったのは、10年前の、猛暑と呼ばれるような暑い夏のことだった。

幼い頃から両親すらも手を焼くほどの気難しい子供だった僕は、音楽と出会ってからは内々に溜め込んだ感情を表現していくという面では不自由はしなかったものの、「他の子供」からはかなりずれた独特の感性を持った拗らせた青春時代を送っていた。高校生の時には既に僕の周りには「クラシック界の天才少年」「神童」という言葉が付きまとっていて、コンサートやツアーで日本にいない事もしばしばな生活を送っていたため、単位や出席日数で融通の利く芸能科のある高校へ進学するのに何のためらいも無かった。進学はしたものの、忙しくてなかなか学校へは登校することが出来なくて、友達もいない。普通の高校生活とは程遠かったと思う。

その日も、海外公演を控えていて、空港へ向かうべく大きな旅行用のキャリーケースを傍らにタクシーを待っていた。各路線が乗り入れるこのターミナル駅には平日なのに人がごった返していて、その場にいるだけで額に滲む汗を拭いながら、ぼんやりと人の流れを眺めていた。同年代くらいの、夏物の制服を着た男女は、カップルだろうか。ひとつのアイスを2人で食べていて、仲良いなって、微笑ましい気持ちになる。
僕自身、恋はまだ、した事がなかった。
同年代の女の子を「可愛い」と思う感情も、仲睦まじいカップルを「素敵だ」と思う感情も人並みにはあって、でもそれが、僕に一致することはきっとこの先一生無いものなのだと、そう思っていた。特定の誰かを好きになることなんて、無いのだと。
それが、そのぼくが。

「ーーねえ、」

タクシー乗り場の列が順々に進んでいって、やっと僕の番だという時に、そっと肩に触れる感触。

「ねえ、君」
「え…」

声がした方を振り返ると、ふわりと、癖のあるスパイシーな香水の香りが漂って鼻に届いた。
自分よりもいくらか背が高くて、しっかりとした身体つきの、男の人、だ。咄嗟のことに不審な視線を向けた僕に、薄くシワの刻まれた優しい目元で微笑んで見せる。父親よりかは若い、けど自分よりはだいぶ年上に見受けられるその人は、どこかで見たことがあるような気がして。恐ろしいほどよく整った顔立ちだったから、もしかしたら芸能人なのかもしれないと浅い記憶を辿る。

「君さえ良ければだけど、相乗りさせてくれないかな?」
「…知らない人にはついて行っちゃダメだって」
「はは。行き先は君と一緒。それにホラ、この後君と俺は、知らない人じゃなくなる。」

そう、背を向けた男が背負っている大型のハードケースの形を見て、僕は、「あ」っと間の抜けた声を上げてしまう。男は、キィと目の前に開いたタクシーの後部座席に僕と自身のチェロケースを詰め込んで、自分も乗り込むと、運転手さんには「羽田まで」とだけ告げる。そうしてやっと、あっけにとられている僕を振り返ると、幼い子供みたいな満足げな顔で笑ってみせた。

「君はパッと目を惹く美人だね、小野田くん。この人混みでもすぐに見つけてしまったよ」

軽率にそんなことを言ってしまう、その、無邪気な笑顔が可愛いなって思ってしまって、でもこれほど年齢の離れた人物にそんなことを思うのは流石に失礼だろうと考えを改める。
アメジスト色の綺麗な瞳が印象的で、美人だと、人のことを言えないくらいにはあなたも綺麗な人だと、言いかけてやめて、僕は腕に抱いたヴァイオリンケースをぎゅうっと抱きしめて胸の高鳴りを誤魔化していた。

彼は、その界隈では世界的に有名な、日本人のチェリストだった。
そう改めて言われると、名前を聞いた事もあれば、何度か演奏を聴く機会もあったので、顔も知っているはずだったんだけど。僕にとってはやはりその奏でる音の方が印象的で、温かく包み込まれるような重低音が素晴らしかった、と、かつて幼い頃に見た彼の演奏に思いをはせる。
そんな彼との、日本人アーティストによるヴァイオリンとチェロのデュオコンサートの話が持ち出されたのは、駅で運命的な出会いを果たした数時間後の飛行機の中の事で、その話を聞いた僕は思わず、後ろの方の座席でチェロと隣同士に座ってぐうぐうと眠る男を振り返ってしまう。
寝顔も可愛い。そんな、不躾な事を思ってまた、熱くなった頬を仰いだ。
嬉しい。だって、彼の世界に一番近くで触れられるのだと思うと、胸が熱くなる。

 

 

3ヶ月後に控えた合同コンサートへ向けたレッスンが進められていたが、もとよりお互いに他の仕事で忙しく、二人での練習の時間が取れないまま日々が過ぎていった。手渡された楽譜を一人きりで追っている最中にも、彼のことが頭から離れてくれなくて、音を出そうにも紡ぎ出す音がはねてしまって言うことをきかなかった。こんなことはこの楽器と出会ってから一度も経験がなくて、ぼくは、分厚い楽譜を前に途方に暮れていた。
今回のコンサートで使用される曲目はいずれも、ヴァイオリンとチェロとの二重奏を目的として作られた曲ばかりだったので、一人で弾くにはあまりにも味気なかったのだ。
自然と、早く合わせてみたい、彼に早く会いたい、と、願うようになる。

僕の願いが叶ったのか、数日経って、奇跡的に先方のスケジュールが空いたため、都内のスタジオを借りてようやく二人で合わせられる機会を得ることとなった。

隣同士並んで、椅子に座ってチェロを抱くあなたと視線を交わして、音を重ねていく。
曲目は、ハルヴォルセンのパッサカリア。今回渡された数曲の中で、僕が一番気に入った曲で、僕のリクエストに彼は二つ返事で頷いて、微笑んで、そっと弓をひいた。

心地の良い、音に包まれる。光のように温かくて、凪いだ海のように穏やかで広い。

「君の世界は美しいね、音が光の洪水みたいに溢れ出してくる」
「………そんな、こと。…ないです、」

あなたの演奏の方が、よっぽど。
褒められると嬉しいなんて、ヴァイオリンを初めたばかりの幼少期の事を思い出していた。僕の頭を撫でる手のひらの温かさと大きさは、心のずっと奥底へと優しい気持ちで沈んでいった。
それが、僕が幼い頃に充分に得る事が出来なかった父からの愛情に対する憧憬、なのか、もっともっと甘酸っぱい、それでいて苦々しい感情なのか。どちらなのか僕にはまだわからなくて。

もっと撫でてほしいなんて、言えないけど。
うっとりと目を細めて、手のひらの温かさに身を委ねる。
もっと、あなたと一緒に音を合わせたい。そう、申し出た僕に、彼は少しだけ驚いたように目を見開いて、そして次の瞬間にはあの優しい笑みを浮かべて、頷いた。

「練習?いいよ、俺も空き時間調整出来ないかなんとかしてみるわ」
「あ、りがとうございます。……嬉しい、です。」
「敬語もやめない?堅苦しいのは苦手なんだ。」
「え……でも」

堅苦しいのは、僕だってそんなに得意ではない。でも、歳も、音楽家としてのキャリアも上の人だ。いいのだろうか、と首を傾げた僕に、彼はゆるく笑って、もう一度頭をポンポンと撫でてくれた。

「いいのいいの。俺ももっとお前と仲良くなりたいし」
「わ、わかった。頑張る。」
「はは、頑張らなきゃいけないの?……改めてよろしくな、翔?」
「う、ん……うん!」

僕らが親しくなるのに、そんなに時間はかからなかった。

 

 

コンサートまであとふた月、レッスンの時間は、圧倒的に増えた。彼の提案で、レッスンスタジオの側にビジネスホテルを借りての、共同生活を始めたためだ。海外や地方での公演以外の日はスタジオにこもって、食事と睡眠以外の時間の殆どを音楽へと費やした。元々、親元を離れた生活をしていたから、保護者の承諾を取るのも、一人で生活をしていくのも容易だった。
彼がいない日は僕は一人で楽譜へ向かい、弓を握り、味気ないホテルの食事をとって、そして一人きりで眠る。彼がいる日は、それはもう、世界に色が付いたように鮮やかだった。帰る部屋は流石に分けてもらったけど、それ以外はずっと一緒で、美味しいご飯に連れて行ってもらったり、著名な音楽家のコンサートに行ったり。その他はもうずっと、ずーっと、気が狂うくらい、2人きりで音を紡ぐ事に明け暮れた。間違いなく僕の一生で、一番ヴァイオリンを手にしていた期間だったと思う。
あなたの存在は僕にとって「音楽」そのもので、 あなたの音楽に触れる事で、僕はもっとあなたに近づける気さえしていたのだ。

父親のような、兄のような。或いは、初めて出来た親友のような。
そんな居心地のいい関係がずっと続けばいいと、思っていたんだけど。

僕が彼に抱いている感情がおかしいと気付いたのは、何度目かの合同練習をしていたとある日のことで、その日はようやく、僕の1番のお気に入りの【ヘンデルの主題によるパッサカリア】が完成しようとしていた。

「…どうしてあなたはここまでしてくれるの?僕の他にももっと、大事な公演がたくさんあるでしょう?」

なんて事のない、問いかけだったと思う。その日は遅くなってしまったからと、ホテルのルームサービスを取って、椅子に並んで遅めの夕食をとっていたのだ。明日からも海外公演が控えているという彼に、スープをすすりながらなんともなしにそう尋ねた僕を、慈愛に満ちた視線が包み込む。

「さあ、なんでかな?」
「あなたは、またそうやってはぐらかす…」
「嘘だよ。……そうだな、俺は、翔の才能に惚れ込んでるんだ」

心までもを射抜くような瞳、とは上手い事を言ったもので。真っ直ぐなアメジストの瞳に射抜かれて、ぼくは、続ける予定だった言葉を失った。
カチャンと、スプーンがテーブルの上に落ちた音が、大げさな程に大きく、耳元へと届く。
惚れ込んでいる?あなたはそんな、綺麗な感情を僕に抱いてくれているの?

「一秒一秒成長していく君を、ずっと側で見ていたかったし、翔と一緒なら、俺みたいなおじさんでも、まだまだ高みに行けるんじゃないかって、思ってね」

ずるいでしょ?って笑った顔はやっぱり可愛くて、それを見て顔が赤くなったけど、それを隠す事すらままならないくらいに僕の頭は惚けていて、彼の笑顔を見つめたまま、しばし固まってしまった。
まずい、これはいけない。
頭の中では警鐘みたいなものが鳴り響いているのに、身体も、心も、言うことを聞かない。骨張った大きな、あなたの手を強引に捕まえて、驚いた彼の唇に、唇を、重ねてしまう。

頭が言うことを、きかない。

「……翔、」

咎めるように僕を呼ぶ声は、当然のものだ。

「ごめん、…なさい、」
「翔、どうして?」
「…ごめん」
「翔、泣いているだけじゃ分からないよ?」

言われてようやく、自分の瞳からぽろぽろと涙の雫がこぼれ落ちていることに気付いたのだが、それよりも何よりも、優しく僕を諭すようなあなたの声がしんどくてゆらりと顔をあげると、涙の膜を張った歪んだ視界に、あなたのアメジストが飛び込んでくる。それはどこか熱をはらんでいるようで、ぼくは、本能的な部分で「あぶない」と、感じていた。
と、瞬間、今度は掴んでいた手をそれ以上の力で握り返され、引かれて、もう一度唇が重なる。
先ほどよりも、深く、今度は、痛みを伴うくらいに、強く。

「……っは、……ん……」

唇と唇の間で、舌が絡まって、舌先で熱を交換していくような感覚だった。こんな大人みたいなキスは当然ながら初めての経験で、息苦しさのあまり咄嗟に空気を吸い込んだ鼻先に、ふわりと、それまで緩く漂っていた彼の香水の香りに混ざって、遠くの方で嗅いだことのないタバコの匂いがした。

「……ぷは、」
「…大丈夫?」
「はぁ……は、はぁ……はい、」

額と額とがくっつくくらいの近しい距離で彼のアメジストを見上げていると、それは困ったようにくしゃりと作り笑顔の形になって歪む。

「俺は、共演者とこーゆうことはしないの」
「僕だってそう。でも、」

おでこを擦り付けるように距離を詰めると、もうあなたの色は見えなくなった。
ぎゅうっと目を閉じて、溜まっていた涙が、もう一度こぼれ落ちる。

「あなたが好き」

頭の片隅で最後の良心的な部分が、さっきからずっと「認めてはいけない」と警鐘を鳴らし続ける一方で、僕の想いは外側からポロポロと剥がれ落ちて行く。これ以上進むのは絶対にダメなはずなんだけど、きっと最初から僕はあなたの事が好きで、生まれて初めての感情をうまく処理しきれないまま、それを音楽へとぶつける事で消化しようとしていた。でもそれももう限界だ。

「俺も翔が好き、………でもごめんね」
「なんで…」
「………大人は色々とめんどくさいの」

言葉とは裏腹に僕を抱きしめる腕は優しくて、僕の鼻には彼のにおいが香る。
ぎゅっと目を閉じる。視界は全部閉じ込めてしまってもいい、あなたの音と、においだけを感じて、ぼんやり思う。じゃあ、消化しきれなかった想いはどうしたらいいの?

「僕は、一刻も早く大人になりたい…」

くいっとシャツの裾を引いて上目遣いでそう、懇願するように言うと、彼は困惑した様子で僕を見下ろしていた。揺らぐアメジストに、僕の顔を映して。
ここはホテルで、部屋には2人きり、背後にはベッドもある。状況はどこまでも僕に都合が良くて笑ってしまいそうだった。あなたの僕に対する愛着や、同情といったさまざまな感情を全て「大人は面倒くさい」っていう一言で無かったことにしようっていうなら、僕にだって考えがある。だって僕のあなたに対する想いは、もっと純粋で、残酷で、卑しいものだったから。
汗で手が湿って上手にシャツのボタンが外せない、それでも、服を脱ぎ捨てたのは僕の意思だった。ハラリと白いシャツが床に落ちて、それを合図にしてもう一度あなたに口付ける。

「……僕はいつだって、あなたに大事に抱いてもらえる、チェロになりたかった」
「……っ、」

警鐘は、美しいチェロの旋律へとその音色を変えて、僕の頭に鳴り響く。
実際、後先のことを考えられない僕はまだ子どもで、あなたは、駄々をこねて泣く子どもをあやす優しい大人に過ぎない。一晩中うわごとのように「好きだよ」と「ごめんね」を繰り返すあなたを見て、僕は何を思ったんだっけ。そんなことは、もう、忘れてしまった。大切な記憶だというのに。

 

***

 

間違いなく人生で一番の恋だった。生まれて初めての恋は、同時に、一生に一度の恋なのではないかと思うくらいには。それは僕にとって、劇的な出会いだったのだ。

「言い訳を許して貰えるならば、翔。……俺は君が大人になるまで、待てなかったんだよ」

翌る日の朝、目を覚ました僕の瞳に飛び込んできたのは、泣き出しそうなくらいに顔を歪めたあなたの顔で。熱いくらいの体温で僕のことを抱きしめて、懺悔をするみたいな面持ちで、彼は言った。
あなたがそんな風に神妙になる事はない。悪いのは僕だって一緒で、あなたと一緒に罪を背負っていくと覚悟を決めていたのだ。くしゃっと歪んだ眉を指先で解すようにして撫でると、眉の下の優しい垂れた瞳が、くすぐったそうに細められていた。

待てなかった、その言葉の意味を、当時の僕は理解しかねていたのだけれど。今思えば、僕を抱きしめるその高い体温は、病魔が着実に彼を蝕んでいた予兆だったのかもしれなかった。

 

 

訪れたのは、彼がこのイギリスの港町に寄付をして建てられた、小さな音楽ホールだった。その、設立10周年を記念した公演が行われるという事で招待を受けていたのだが、この土地にゆかりがある、なんて、この仕事の話が舞い込んでくるまで全然知らなくて、僕は、彼と過ごした期間の短さを改めて痛感する。なかなか、これくらいの小さなホールで演奏する機会は無くて、どんなものかと思っていたんだけれど、訪れてみれば音響も機材も充分に揃っていて、不自由しそうにない。日本からも、某国営の放送局が取材に来てくれるようで、公演の様子はささやかながら向こうでも放送されるみたいだった。

「……翔くん?」
「……?」

高い、けれど落ち着いた声質の女性の声が聞こえて振り返ると、そこには、懐かしさを覚える一対のアメジスト色の瞳。高校生くらいのその少女は、どこか彼の面影が残る…
ハッとして、思わず。僕は不躾にも、少女を指差して目を丸くした。

「……え、奏音、ちゃん?」
「そう、正解。パパのお葬式以来だね」

少女はネイビーのダッフルコートに手を突っ込んで、ふふっと年相応な少女らしい、幼さの残る笑顔を浮かべる。彼に家族がいると知ったのは、彼が居なくなったあとの、葬儀の席の事だった。喪主の席で号泣する、まだ年若く美しい夫人の隣で、呆然と座っている黒いワンピース姿の幼い少女が印象的で、参列した僕の心を突き刺すような痛みが襲ったものだ。

「すごい……大きくなったね、綺麗になった。こっちに住んでいるの?」
「ううん、私もママも殆ど日本で暮らしてる。だから、翔くんの今の活躍も全部見てるよ」
「……そう、なんだ」
「翔くんすごいね、カッコイイ人だなって思ってたけど、まさかアイドルだなんて」
「あ、りがとう……」

そう、呟くように言った僕を、少女の曇りない一対の瞳が見つめる。

「翔くんはすごいよ」
「……まだ、ヴァイオリンはやってるの?」

彼女の母親もまた、もうだいぶ前に引退してしまっていたけど、日本では著名なヴァイオリニストで、娘であるこの子もヴァイオリンを習っているのだと、人づてに聞いていた。翔くんよかったら先生になってあげて、なんて、何も知らない、真っ赤な泣き腫らした目をした夫人に、冗談混じりに言われたこともあったっけ。だから、音楽と所縁の深いあの二人の娘さんだから、細々とした縁でもいいから、音楽に寄り添った生活をしていてくれたらいいな、って僕の身勝手な思いを込めてそんなことを聞いたんだけど。

「…やめちゃった、パパの楽器も、ママの楽器も、全部引き払って音楽とは離れた生活をしてる」

眉を顰めた、大人びた作り笑いはあの人にそっくりだった。

「私はクラシックが好きだったから、本当は辞めたくなかったんだけどね」
「じゃあ……なんで……」
「ママの悲しむ顔は見たくないから、言わなかっただけ。でも今回の翔くんのコンサートを見に行こうって言ってくれたのはママなの。……だから、楽しみにしてるね」

あの人はきっと責めないだろうけど、この少女の当たり前の幸せは、僕が壊したようなものだ。小さなホールのだだっ広いステージの上で、僕は、少女の曇りなき純粋な瞳を見て立ち尽くすしかない。あなたの思いが根付くこの異国の土の上で、あなたが愛した人たちが見守るこのステージの上で、汚れた僕が奏でる事を赦された音なんてあるのだろうか、そう考えると急に、ふと、末恐ろしくなってその場に崩れ落ちそうな気分になった。

 

***

 

彼との関係は一度きりで済むことはなくて、それからも何度か、身体を重ねる事があった。
彼が僕を抱く時は決まってホテルの僕が借りている部屋で、思い返せば彼のプライベートに触れた事は一切無かったのだけれど、当時の僕はやはり子どもで、そんな事は微塵も気に留めていなかったように思える。ただ、この人に愛されている事がたまらなく嬉しくて、それまでは音楽という方法でしか処理しきれていなかった感情のやり場を、見つけたような気がしていた。
小野田くん、前よりもずっと、音楽に奥行きが出てきたよねって、懇意にしている交響楽団の指揮者の方に言われて、僕は、ばれないように頬を染めて頷いたものだ。
その夏は間違いなく、僕にとって一生に一度の鮮烈な、忘れられない夏だった。

ーーそう、忘れもしない。彼の様子がおかしいと気付いたのは、予定されていた合同コンサートを翌日に控えた残暑の厳しい夜のことであった。

「いよいよ明日だね、はーー」
「緊張してるの?」
「う、ん?どうだろう、普段はこんな事、あまりないのだけれど」

ドキドキと、高鳴る胸の音はあまり馴染みの無いもので、けれどそれすらも、今は楽しみだという前向きな感情にしかならない。頬を紅潮させて、目が爛々として眠れなくて、そんなお子様な僕を見て、彼は微笑ましそうに笑ってくれた。

「はは、じゃあ今日は早く寝ないとなぁ。明日は収録も入るっていうし」
「ええ……寝ちゃうの?」
「わがまま言わないの、明日は本当に、大切なコンサートなんだから」

ソファに並んで座って、隣の彼の膝に誘うように触れた指先は、優しい声と彼の手によって制されてしまった。まだ寝るには早い時間なのに、と、頬を膨らませた僕を宥めるみたいに軽いキスで唇に触れて、そうして、伺うように彼を見上げると、眉尻を下げて困ったように笑っていた。

「ほんとにダメ?」
「だーめ」
「……意地悪」

なんとでも、と言って笑う顔を上目でじとりと見上げると、次の瞬間、彼の、綺麗な形に整った眉がじっと顰められて、一気に表情が曇っていくのが瞳に映る。どうしたの?と、僕が名前を呼ぶ間も無く、彼はそのままガタンと椅子を倒して床へと倒れ込んでしまった。
チェロを弾く太い指は、同じような仕草で胸元を抑えて掻きむしっていて、がたがたと、こんなに暑い夜なのに、その身体は小刻みに震えている。

「え………え…?」
「……はっ、…し、しょう、ゴメン、………っ、カバンに、薬が…」
「っ……カバンっ?これ?」
「そう、……それの、……く、ろいピルケースに……」

言われるがまま、彼が常時持っていた革の鞄の中を漁る。
怖かった、親しい人が倒れるなんていう現場には遭遇した事がなかった僕は、気が動転していて、泣き出しそうになりながら、ようやくの事で鞄の中から小さなピルケースを発掘した。これを、テーブルの上のミネラルウォーターと共に彼に手渡してやると、彼は中から二、三粒の錠剤を手にとって、震えたまま、水で薬を呷る。

怖い、怖い、これはなんだ。多分何秒かの僅かな時間だったのだろうけど、心臓を抑えて床に横たわる彼をジッと見つめている時間は、何分にも何時間にも思えて、僕は気が遠くなりそうだった。そうしているうちにも薬の効果が現れてきたのか、彼の呼吸が穏やかなものになって、きつく閉じられていた瞳が緩やかに開いて、状況を確認するように天井の一点を見つめていた。

「…驚かせて……悪かったな」

なんで、こんな時にも笑ってくれるの?
眉を顰めた作り笑いの上手い男だった、今も。そんな無理した笑いは、僕にはすぐにバレてしまうと言うのに。

「救急車……びょ、病院、行かなくちゃ……」
「………いや、いい、」
「でもっ…」
「翔、あのね?」

億劫そうに身を起こして、その、僕の大好きな大きな手で、震える頬を撫でてくれたけど。
その手のあまりの冷たさにぞっとする。

「俺はもう、おじさんだからね、こうやってたまに具合が悪くなる事もある」
「そんな、」

そんな事、あるわけがないだろう、あなたはまだこんなに若々しくて、将来を有望されている音楽家なのだ。大人の優しい嘘に騙されてしまうほど、僕はもう、子どもでは無かったし、けれども、この嘘に素直に騙されてあげるような器用な大人にも、まだなれそうになくて。
大人と子どもの境界にいた、アンバランスな存在だった僕は、あなたの欲しかった言葉も見つけられないまま、また、自分自身も納得していないまま、夜を越えることしか出来ない。

「明日は大切な日だ。この日の為に一緒に練習してきたんだろ?」
「……うん、」
「だから翔、今日は早く眠ろう。明日の為に、」

納得は、していなかったけど、うん、と頷く言葉は、もう一度のキスに変えて。
半身を起こした状態の彼に、負担を掛けないようにして、身を屈めて唇を重ねる。ゆっくりと。唇の形を確かめるように自らの唇で挟んでみたり、舌の温度を測るように絡め合わせたり。手のひらはあんなに冷たかったのに、舌は灼けるように熱くて、あぁ良かった、あなたもちゃんと生きてるって、ようやくそこで、安心することができた。

翔、って低い声で僕の名前を呼ぶ。その声が僕は、堪らなく好きだった。

 

 

ーーー…

それは、コンサート当日の朝だったと思う。

『ーーーさん、じゃあ、意気込みを一言、お願いします』

インタビュアーの差し出したマイクに、いつもみたいなマスコミ慣れした澄ました様子で軽そうな笑顔を浮かべる。こういうところが多分、似ているのだ。緊張なんてしてません、俺はいつでも、自然体なんですって顔をして、僕の手を、気持ちを引いていく。

『最高のステージにしてみせます、 俺の、全部を懸けて』
『……ふふ、それじゃあ、いつも全力じゃないみたいじゃないか』
『あーもう、そういうこと言う?俺はいつだって全力ですよ、今日も、もちろん』

古い映像には、まだ幼い僕が後ろに映り込んでくるところまでしっかり撮られていて、思わず、小さく吹き出してしまった。

『いつだったかお前に言ったことがあったよなぁ』
『こんな時にいきなり?どうしたの?』
『俺は、翔の才能に惚れ込んでるんだよ』
『もう、今、それ?』
『……俺にとって、お前は音楽そのもの、だった』

僕だってそう、思っているよ。
あなたは音楽そのもので、あなたの音楽に触れる事で、僕は、あなた自身にすら触れているような気になって満足していたんだ。
演出用に、薄暗く照明を落としたステージの上、そのど真ん中に彼と並ぶ。
背後にはオーケストラがスタンバイをしていて、客席は満員のお客さんが埋め尽くしていた。

 

「だから翔はずっと、翔の音楽を続けてほしいって、思ってる」

そんな、別れの挨拶みたいなセリフは、言わないでほしい。
呆然とする僕の隣で、彼は穏やかな笑みを浮かべてその足に、馴染んだチェロを抱きかかえた。

ーー静寂がホールを包み込んで、音の洪水みたいな音楽が、始まる。

一緒に過ごしたのは、たった3ヶ月だった。あの頃はすごく長く感じていたけれど、一生のうちの3ヶ月なんて、なんと短いこと。その殆どを共に音楽を奏でる事に費やしていたから、彼の死後、僕の手元に残った思い出は、このコンサートDVDだけだった。ご家族から形見分けも提案されたけど、それは僕には相応しくないからと丁重にお断りさせてもらった。

鮮烈だったあの夏の日の思い出は、今も美しく色鮮やかなイメージとして僕の中に根づいている。

 

ーーー

 

コンサートは、大成功のうちに幕を下ろした。特にあの、一番力を入れて練習していたパッサカリアは、会場の照明を暗く落として、僕と彼だけにスポットライトが当たる演出になっていて、ピアノもオーケストラも、指揮者すらも観客にして二人きりで奏でるメロディーは、会場中に、それはそれは伸びやかな音となって広がっていった。最高の瞬間だった、もちろん僕も、今まで上がってきた一つ一つのステージが特別で、常に全力を注いできたつもりだったけれど、彼が開演直前にインタビューに答えていた通りに、僕も、僕の全部を、今注ぎ込めるだけの全部を懸けて、演奏することができた。

「最高だった、本当に、あなたは、本当にすごい」

ステージを降りたバックヤードで、少し前を歩くあなたの背中に声をかける。
ステージ上でハイタッチを交わしたけれど、まだ興奮は冷めやらなくて、スタッフしかいないこのバックヤードで、高揚感のあまり今にも抱きついてしまいたい衝動に駆られていた。僕は、声を掛けても振り返らないあなたを怪訝に思って、聞こえてないのかな?と、今度は少し大げさにそのしっかりとした肩を叩くーーーと、

「ーーえ、」

ばたり、と、ずっと側で見てきた大きな背中がその場に崩れ落ちるのを、まるでドラマのワンシーンのように、僕の瞳にはスローモーションで映った。一瞬、辺りが静寂に包まれて、数拍置いて、スタッフさんかオケの人か定かでは無かったけれど甲高い女性の悲鳴が響き渡る。

「きゃあああぁぁぁぁ」
「ーーさん!!…救急車!!救急車を!!」
「AED、ロビーにあるから、誰か持ってきて!」
「小野田さん、離れていて、大丈夫ですから、」
「……………っ」

その時、僕はまだ、子どもで、無力な子どもで。
どれだけ素晴らしい演奏をしても、どれだけステージの上で大きな拍手を受けても、そこを降りてしまえば、何もできない役立たずの子どもでしかなかった。彼を囲む大人たちの壁から引き剥がされて、マネージャーの女性に、肩を抱かれる。あぁ、待って、彼の鞄の中に薬があるはずだ、黒いピルケースに入っている、それを飲めば落ち着くかもしれない。そんな言葉も届かなくて、無力な僕はただただ呆然と、酸素マスクをつけられて救急車で運ばれていく彼を、見送ることしかできない。

 

***

 

ーー翔くん、コンサート、楽しみにしているね。

少女の何気ない言葉が、あれから僕の心にずっと、もやもやと引っかかっていて取れそうにない。
本番を数時間後に控えた誰もいない控え室で、僕は静かに、鏡と向き合う。写っていたのは何故か、あの頃の幼い僕で、何にも知らない純粋な顔で、真っ直ぐに僕のことを見つめていた。

『結局は、何も出来なかったんだよね。大事な人が目の前で苦しんでいたのに』
「やめてくれ……あれは、僕のせいじゃない……」
『何を言っているの?僕のせいだよ、あの人が死んじゃったのは』
「違う…、僕のせいじゃない!!」
『一つの家族をめちゃくちゃにして、10年間逃げ続けていたんでしょう?』
「違う……違う……!」
『何にも知らない顔をして、酷い男だよね』
「違う!!」

鏡の中の幼い僕がふわりと笑ったような気がして、僕は思い切り顔を逸らした。
違わない。僕が言っている事が正しいのだと、僕自身が一番よくわかっている。あの人が死んじゃったのは僕のせいだし、家族をめちゃくちゃにしたのも、僕だ。そうして何も知らない顔をして、10年間、あの人の思い出から逃げ続けてきたんじゃないか。そうだよ、だから、彼の奥さんにも娘さんにも顔向け出来ないはずだし、ましてやその目の前で、彼女たちが幸せと共に手放したヴァイオリンを弾くなんて。握りしめた椅子のアームレストがギリギリと悲鳴みたいな音を鳴らしていた。

そんな大それた事は、僕には出来そうも無い。
こんな気分で、演奏なんか出来るはずがない。

 

***

 

あの後僕は、彼との思い出の残るホテルに一人で帰る気にはなれず、マネージャーさんに頼み込んで事務所で寝させてもらうことにした。スタッフ用の仮眠室の硬いベッドに横たわって目を閉じたけれど、恐怖なのか、ステージを降りた高揚感なのかわからない緊張で、到底眠れそうになかった。結局真夜中に、病院に搬送された彼が一命を取り留めたという連絡を聞いて、ようやく眠ることが出来たのだけれど。
状態が落ち着いたらお見舞いに行こう。大丈夫?早く病気を治して、また一緒にセッションしようねって、伝えようと、思って。硬いベッドで背中が痛くて、でもよほど疲れていたのか、夢も見ることもなく深い眠りに落ちていった。

翌朝目がさめると、もう、正午に近い時間で。
誰も起こしてくれなかったんだな、まぁオフだし、いいのだけれど。と、目をこすって仮眠室を出ると、血相を変えたマネージャーさんが、いそいそと何処かへと電話をかけている姿が目に入って、僕は、嫌な予感にぶるりと悪寒がした。普段は穏やかで優しい人だ、とても落ち着いた女性で、焦っている姿や取り乱した姿なんて見たことがないくらいの。けれども、僕の起床に気が付いたらしいその人が、珍しくあわてた様子で、言葉を選ぶようにして僕に告げる。

「小野田さん、あの……ーー」
「……え?」

彼が病院から姿を消したのは、まだ日が昇る前の早朝の事だったという。
発作が起きてしまったら、命に関わる持病を患っていたと聞かされたのもその時だった。前みたいに、薬を飲めば発作は一時的に治るという話だったけれど、病は緩やかに、けれど着実に彼を蝕んでいて、もう、それほど長くは生きられないという事も、教えてもらった。危険な状態、それなのに、薬も全部置いて、おそらく着替えもせずに身一つで居なくなったのだろうと、電話の向こうの付き添っていたスタッフの方が正確に伝えてくれた。行く場所に心当たりはあるか、と聞かれて、咄嗟にあの、一夏を二人で過ごしたホテルが頭に浮かんだんだけど、それを伝える事が出来なかったのは、もしも万が一に、僕らの関係が露呈してしまうのを恐れたからだった。「わかりません」とだけ伝えて、側にあった応接用の革張りのソファに沈み込む。わからない、本当に。ただ、彼はあのホテルには、もう戻らないような気がしていた。彼が使っていた部屋を覗いたことは無かったけれど、持ってきている私物なんて殆ど無いと言っていたから、いつだって所持品の少ない男だと、思っていたんだ。ただその、背中に背負ったチェロケースが大きすぎて、それ以外は身軽でいたかったんだろうなって。チェロと、ほんの少しだけの着替えと、身の回りの物が入った小さなカバン。それが僕の知る、彼の全てだったのだ。

どこにいるのだろう、どこに。あなたは、どこに行きたかったの?
僕の音楽を、才能を愛してくれた、優しい人。父親のような、兄のような、それでいて、一番近い親友のような人だったのだ。僕にとってはあなたが世界の全てだったのに、けれどもあなたはそうじゃ無かった。肝心な時には僕を置いていなくなってしまう。

2日経って、3日経っても、彼の消息は掴めなかった。

その、遺体が見つかったのは、彼が居なくなって5日目の、早朝のこと。場所は、最後に僕らがコンサートを開いた都内の音楽ホールだった。愛用のチェロを抱いて、眠るように息を引き取っていたという。無慈悲な事しか言わないメディアは、自殺とも、病死とも、好き勝手に伝えていたが、そんな事は僕にはどうでも良くて。やっぱりあなたのチェロは、最期まであなたに大事に抱いてもらえるんだねって思ったら、それが、心底羨ましかった。

僕も一応、参考人という事で、警察で二、三質問を受けた。倒れる直前まで一緒にいたから、そのせいだと思う。数ヶ月ホテル生活をしていた旨は正直に告げて、調べが入ったらしいけど、やっぱり何も見つからなかったと聞いた。ほんの少しの着替えだけ、それ以外は、何も。僕の部屋も似たようなもので、1週間ぶりにその部屋を訪れたら、ホテルの清掃が入ったのだろう、隅に置かれた荷物以外は整然と片付けられていた。僕は僕らの関係が露呈してしまうことを恐れていたけれど、こうやって見てみれば、僕が彼に抱かれていた形跡なんて、もう、何も残ってはいなかったのだ。

開け放ったホテルの窓からは涼やかな風が吹き込んできて、外の世界では、金木犀の香りがそこいらじゅうに漂っている。僕の一生分の思い出が詰まった夏が終わって、もうそこまで、秋がきていた。

 

***

 

彼は別に、僕とは違って偏屈な音楽家などでは無かった。
明るくて上品で、人に好かれる、それから彼自身も人好きで、あとはただただ音楽が好きなごく普通の、ただ、とんでもなくチェロが上手な人。別に物を持たない主義なわけではないと気付いたのは、彼の生きた軌跡が、こことは別のところにあると知ったからだった。

「…あなたにも沢山の迷惑を掛けていたでしょう、あの人の、音楽バカに巻き込んでしまって」

紹介されたのは、喪服の黒いお着物が良く似合う、美しい女性だった。

彼の葬儀が営まれたのは都内の小さな葬儀場で、あれだけの功績を残した人なのにやけに小規模なんだなって思った僕に、マネージャーさんがこっそりと、後でファンや音楽関係者の方を集めたお別れ会なるものを行う予定なのだということを教えてくれた。お葬式は家族やごく近しい仲間うちのみでしめやかに執り行うのだと。ーー家族、という言葉に、僕の胸の奥の方にチクリとしたものが刺さった感じがしていたけど、気付かれないようにして平静を保った。家族がいるか、僕から聞いたことは一度も無くて、彼の口から語られる事も一切なかった。ただずっと、ホテルでの単調な生活だったから、その背後に、こんなに美しい奥さんと子どもがいる当たり前の幸せがあったなんて、思いもしなかったのだ。なんで言ってくれなかったのか、という思いはすぐに内へと飲み込んだ。僕に家族の存在を明かしてしまえば、事実が公になった日に、僕まで責を負う立場になってしまう。そうならないように配慮しての事なのだと早々に気づいたからだった。そういうところまで、彼の中での僕は無力な子供でしか無かったのだと打ちひしがれた。

「……僕の方が沢山のご迷惑をお掛けしていたと思います。あのコンサートは、僕にとっても最高のステージでした。……本当に、ありがとうございます」

やっとの事で絞り出すようにそう言って、そこで、奥さんが床に崩れ落ちて泣くのを、ただ呆然と見下ろす事しかできなかった。僕は最後の最後まで、これ以上この人たちを悲しませるわけにはいかないのだと思って、彼に可愛がってもらっていた弟分に徹することにしたのだ。

 

 

鏡の中の僕が僕を見下ろしていた。

どれくらいそうしていただろうか。鏡前で頭を抱え込んでいた僕に、コンコン、と、ドアをノックする音が聞こえて、思わずばっと身を起こした。

「翔くん、ごめんなさい、入ってもいいですか?」

声の主は、彼のお嬢さんーー奏でる音でカノンと名付けられたその子は、彼によく似た、アメジスト色の瞳が印象的な美しい少女だった。よく通る澄んだ声が誰もいない静かな空間に響いて、すっと耳に溶け込む。正直とても、会えるような心境ではなかったけれど、ここで帰ってもらうのも不自然だと、僕は「どうぞ」と平静を保って声を返した。

「お邪魔します」
「今日は見に来てくれてありがとう。君のお母さんにもご挨拶に伺わなければと思ってたんだけど」
「ううん、いいの。今日はママに内緒で、ここに来ていて」
「…え?」
「どうしても、翔くんに渡したいものがあったの」

どういうことだ、と首を傾げた僕に、少女は一通の真っ白な封筒を差し出す。

「うちね、先月ようやく踏ん切りがついて、引越しをしたのね。その時パパの遺品を整理していたら、これが見つかって」

宛名には、僕の名前が。線の細い癖のある字で、書き記されていた。
裏面をひっくり返しても、差出人の名前は無い、けど、彼女の言う通りに彼の遺品の中から出てきたものだと言うのならば、これは、彼から僕に宛てた手紙、と言う事になる。

「本当は、捨てちゃおうかって、ママは言っていたけど…でもこれは、翔くんのものだから」
「え?」
「中は見ていないけど、あの当時、翔くんがパパの一番可愛がっていた後輩だって言うのは知っていたし、亡くなる前の数ヶ月パパがどこに居たかも、ママは知っていて、それで、」

そこまで聞いて、僕の、青くなった顔からは表情が消えていたと思う。封筒を掴んだ手ががたがたと震えていて、そのまま、顔を上げて彼女の顔を見ることが出来そうになかった。

「……でも、そういうの全部含めて、私たちは今日のコンサートを楽しみにしていたから」
「……っ」

僕がして来た事は、10年経っても赦される事ではない。
だから少女にも、彼女の母親にも、赦してもらえるとは到底思っていなくって、だからこそ、彼女たちの前で、ヴァイオリンを弾くことなんて出来ないんじゃないかと思っていたけれど。

「だから頑張って、翔くん。ママと一緒に客席から見てるね」

少女の笑みには、おそらく様々な思いが込められていた。

出来ないんじゃない、僕は今ここで、ヴァイオリンを弾かなければならないのだ。
彼を弔うという意味でも、彼の家族に対する贖罪という意味でも。

 

 

小さなホールを埋め尽くす人は、現地の人よりも日本から招待された邦人の方が多いように感じられる。撮影用のカメラ機材も結構な台数搬入されていて、やたらとマスコミも多い。どうにも、この規模のホールには不釣り合いだなって、僕はステージ上からその会場を見渡していた。
今回の設立10周年記念公演は、彼にゆかりのあるチェリスト5名が企画して開催されたもので、僕は中盤でソロを一曲と、5名のチェリストとのセッション曲であるパッヘルベルのカノンを一曲演奏する、ゲストの扱いであった。過去の公演で見知った人も多い中、一人一人に簡単な挨拶を交わして、立ち位置へと着く。

さっきあなたから10年越しにもらった手紙を、思い出していた。
そういえば、ドキュメンタリー番組のインタビューでも、似たようなことを言っていたっけ、

『ーー俺にとっての音楽は、愛すべき恋人みたいなものです』
『そうなの?なんだかこの人が言うと、すごく軽く聞こえますよね』
『翔の音楽も、もちろん愛してるよ』
『あはは、ほら、軽いでしょう?』

あなたにとっての僕は「音楽」そのもので
音楽はあなたにとっての「愛すべき恋人」で
あなたは、僕の音楽を愛しているという

シンとした静けさの中、ヴァイオリンを肩に構えて、すぅと弓を弾く。
ソロの選曲をアヴェ・マリアにしたのは、最初からあなたへの弔いの曲はこれしかないと決めていたからだった。ピアノ伴奏から静かにスタートする聖母マリアへの祈りを捧げる旋律は、抑揚のない、穏やかで暖かな、春の日差しのように客席を光で包み込む。

あなたのふわふわと軽い言葉遊びの一つ一つが、まるで愛の告白みたいに、ずっと僕の心を捉えている。あなたがいなくなって、もう10年。10年間ずっと。

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