病院の固いベッドに横たわり、飾り気のない白い天井を見上げて、朝からの一連の流れを思い出す。
今日は朝から体調が悪かった。今日は、と言うかここ数日、風邪でもひいてしまったかのように熱っぽくて気分が優れなかったのだけれど、今朝は特に、気持ち悪くて、時期的に胃腸炎でも貰ったのかなって思うくらいの不快さだった。起き抜けから「吐きそう」、とトイレに駆け込んだもののえずいただけで嘔吐には至らず、朝ごはんも食べないままに家を出た。仕事が出来る体調では無かったが、今日のスケジュールは大御所女優のスタイリングが入っている。舞台関係の仕事で知り合って、俺の着物の着付けを気に入ってくれたらしく、こうして度々仕事をもらっているお得意様だ。
駆け出しのスタイリスト、ちょっと気分が悪いくらいでは休めるわけなど無かった。
仕事はこなした。それはもう完璧に。仕事中は気を張っていたせいか不快感は忘れてしまっていたのだが、笑顔で手を振り帰っていく女優さんを見て、「あぁ、やり遂げたな」ってフッと気が抜けてしまった。やばい、と思った次の瞬間にはその場に崩れ落ちていて、吐き気と目眩を堪えながら、遠くの方で他のスタッフさんの悲鳴が聞こえた。
もう一個運が悪かったことに、うちの旦那が隣のスタジオで仕事中だったらしく、騒ぎを聞いて駆けつけてしまったため、スーパースターの登場にスタジオ内に再び悲鳴が響き渡ることになる…。
その後、旦那がマネージャーさんに頼んで裏に付けてもらった車で病院に連れて来てもらった。
「気分はどう?」
「まだ気持ち悪いです…」
シャーっとカーテンが開かれ、中年の看護師さんが顔を出す。
気分は最悪だ。ここに来るまでの車の中で一回吐いた。朝食も食べれなかったから吐くものが無かったのと、すんでのところでビニール袋でキャッチされて大事には至らなかったが、彼にもマネージャーさんにも情けないところを見られてしまったなあと泣きそうになりながら天井を仰いだ。
「あらあら」
真っ青な俺とは対照的に、血色のいい…それから恰幅もいい優しそうな看護師さんが、ニコニコと笑みを浮かべて言葉を重ねた。
「ところでスメラギさん、あなた、最後に生理きたのいつ?」
「…………は?」
あなたを授かった日のことはきっと忘れない。
ーーーそれはとある、よく晴れた日のこと。
幸、という名前の由来をこれまで深く考えた事は無かった。
幸せな人生を送ってほしい、だとか、幸多からんことをとか、そういうめでたい由来なんだとは思っていたけれど、いざ真面目に考えてみると、親の思いというものに向き合う機会はそうそう無い。
傍らで眠る小さな命をまじまじと見つめて、思うのはそんな事だった。
「うわぁ、ちっちゃーい、可愛いー!!」
「可愛いねー、赤ちゃんってほんとに赤いんだねぇ」
落ち着いたシックな雰囲気の病室、病院側が気を使ってVIP用の個室を用意してくれたのだが、ここに入ってからなんだか広すぎて落ち着かない。先ほどようやく赤ん坊が検査から帰ってきて、それまでずっと付き添ってくれていた親や友人らが順番に顔を見せてくれるようになってから、この広すぎる病室にも慣れてきたところだった。
古くからの友人達と、カフェでお茶をしていた時に陣痛にみまわれ、そのままタクシーで連れられて今に至るわけだが、病院へやってきた途端に「父親はどなたですか?」って看護師さんにはてなマークが浮かんでいたのには痛い腹を抱えて笑ったものだ。立ち会い予定でやる気満々で父親学級にまで通っていた父親は、地方での仕事が押しているらしく未だ現れない。昨夜からの台風のせいで道が混雑しており、まだここまでたどり着いていないのだ。
「雨、止んだみたいだぞ。流石にあいつもそろそろこれんだろ」
窓の外を眺めると、確かに、先程までの荒天が嘘みたいに、真っ青な空が広がっていた。
青空を見上げていると、昨夜の身を打たれるような痛みと吐きそうなくらいの苦しさ、この子がお腹の中にいた日々、それからこれまでの自分の人生を思い出して、鼻の奥がツーンとする。
間違いなく人生のクライマックスだった。死ぬんじゃないかと思って過去の印象的な出来事が走馬灯のように頭をよぎった。
不本意ながら女に生まれ、小さい頃からフリフリ、ふわっふわな女の子らしい格好をさせられてきた反動で中学時代には荒れて男の子の格好をしていた。学校も男子の制服を着て、一人称もずっと「俺」、男しかいない劇団に参加して男として舞台に立っていたりもしていた。
カッコイイ自分が好きだったし、舞台で男の子の格好をして女の子にキャーキャー言われるのは心地いい。男になりたいわけではないけど、カッコイイ洋服や、男の子がする遊びが好きで、学生時代は周りから変人扱いされてきた。そんな時出会ったのが今の旦那さんで、この子の父親だった。
「でもやっぱり、生まれたてなのに美形だね。どっちに転がっても可愛く育つんだろうな」
もう何回も言われたその言葉に、くしゃくしゃのお猿さんみたいな赤ん坊を眺める。美形か?このお猿さんが。でもあいつも寝顔は猿みたいだしなって父親の顔を思い出して笑ってしまう。
そう考えると父親似なのだろうか。でも鼻すじとか、俺に似てない?って、ちょんちょんと小さな鼻先を指先で優しく突くと、くしゃくしゃの顔を更にくしゃっとさせていた。
可愛い。もう、たまらなく可愛い。
俺ってこんなキャラだったの、ってくらいに。親バカが炸裂する。
赤ん坊と一緒に、顔をくしゃりと緩めて笑う俺に続いて、友人達も笑う。
「頑張ったな、幸」
「お疲れ様、幸ちゃん。」
「幸くん、僕本当に感動しちゃったよ」
劇団で知り合った友人達は、俺にとっては兄のような、親友のような、大切な存在だった。
昨日からずっと、未だ現れない父親の代わりに、一晩付き添ってくれていた。
「じゃあ、そろそろ。幸ちゃんも休めないだろうからおいとましようか」
3人の中では一番年長の、穏やかな雰囲気の男が優しい笑顔のままで言う。
そんな事は無かったし、この部屋に赤ん坊と二人きりなのも寂しいなって思っていたんだけど、そう言ったら間違いなくまだここに居てくれるだろうから、敢えて言わずにおとなしく見送る。
みんなだって、せっかくの休みの日に付き合ってくれて、昨日から寝ていないのにずっと俺のことを気遣ってくれて、本当に感謝しても仕切れなかった。
静かになった病室、赤ん坊と二人きり。
付き添いのうちの母親も、一度荷物を取りに実家に帰ってしまっていた。義両親も、仕事を終えてから来てくれるらしく、でもそれも夜になるかもしれないって言っていた。
暇だなあ。産んでしまえば赤ん坊の世話で忙しなく時間が過ぎていくものだとばかり思っていたが、意外とそんなこともなく。こんなにおとなしいだなんて、俺らの子どもじゃないみたいだ。でも生まれたてほやほやだから、もしかしたらまだお腹の中にいると勘違いしてるのかもな。そう、思うくらいには、よく眠る静かな赤ちゃんだった。
穏やかな顔で眠る横顔は、やっぱ美形なのかもしれない。まあ親バカなのだが。
あんまり開かない瞳は紫陽花色だった。パパ似。
大きな形のいい唇と、凛とした眉もパパ似。
小ぶりな鼻すじはママに似てるね。
美形でなくとも、我が子は可愛い。よく元気に生まれて来てくれたなって、心から思う。
つわりで吐きっぱなしで寝たきりだった日々も、自分の体力を過信して働きすぎて切迫早産で入院になった時も、辛いことも沢山あったはずなのに、この子を抱きしめた瞬間に全て吹き飛んでしまうくらいには幸福な気持ちでいっぱいになった。
これまで漠然としたイメージだった「幸せ」が、形となったものがこの赤ん坊だった。
今なら親の気持ちがよくわかる。自分の名前が「幸」じゃなかったら、俺だってこの子に「幸」って名付けていたと思うくらいだ。
産後ハイで眠れないと思っていたが、そう言えば一晩寝ずに体力をフルに使っていたのだ。眠くならないはずがない。微睡む意識の中で眠りに落ちる最後に見たのは、台風が通り過ぎたあとの真夏の青空だった。
ーー幸、
聞き慣れた声。
夢のような優しい時間だった。淡い黄色の温かな空間で、自分の名前を呼ばれたような気がする。
ひたいにぬくもりを感じて、まだ夢心地で身をまかせる。
「・・てんま?」
「わりぃ、遅くなったな」
聞き慣れた声と温かな手のひらの主、イケメン俳優、皇天馬。うちの旦那様だ。
両親も俳優、でも七光りとは言わせない実力派で、今話題のドラマや映画に多く出演している。若い女性を中心に人気の若手イケメン俳優だが、一昨年の夏に26歳の若さで電撃結婚。日本中の女の子からおばちゃんまで涙を流し、「天馬ロス」って言葉がその年の流行語大賞にノミネートされていた。お相手は女優の〇〇似のスタイリスト、2歳年下の一般女性って事だけは公表されている。とは言え週刊誌にはしょっちゅう撮られているし、天馬のブログや一緒に仕事をしたことのある芸能人のSNSで俺の存在は結構周知されているし、仕事の現場などではスタッフにも出演者にも公認の仲だった。
婚約は事務所からマスコミに流され、表に出たのは天馬だけだったが、記者会見も開かれた。結婚式には芸能界の関係者だけでは済まされず、あちらのご両親の繋がりで政財界のトップも招待してド派手な披露宴を挙げたし、赤ん坊を授かった時にも安定期に入ると同時にワイドショーやネットニュースで取り上げられていた。この子の誕生もきっと、明日の朝の情報番組の芸能ニュースのトップで、語られることだろう。
そう言えば、と、気だるい身体を支えられながら起こし、辺りを見渡して問いかける。
「あれ?赤ちゃんは?」
「今うちの親も来てて、おまえが寝てたから別室で面会してる。後で挨拶に来ると思うから」
「そっか、ごめんね。結構寝てたんだ・・」
「いいんだ。本当、遅くなって悪かった」
本当にすまなそうな顔をして謝罪する天馬に、首を振って否定の意を示す。
仕事なのだから仕方ない。それに、仕事を切り上げて急いでこちらに向かってくれていたのは明らかだったから、事故もなく無事に到着してくれただけでも嬉しかった。それになりより、あんなに事前に練習していたのに立ち会うことが出来なくて、一番残念そうなのは本人だったし。
「赤ちゃん、もう抱っこした?」
「あぁ。すっげー腕がプルプルしたし、俺に似て可愛かった」
「親バカじゃん・・でも、俺も天馬に似てると思う」
猿っぽいって感想はひっそりと飲み込んで、クスクスと笑っていると、そのまま天馬にふわりと抱きしめられる。頬に髪の毛がかかってくすぐったい。太陽みたいな匂いがした。
「ありがとう、幸。本当に、・・・ありがとう」
泣いていた。
ドラマや映画以外で、そういえば皇天馬の涙を見るのは初めてだった。
震える背中をぽんぽんと宥めて、俺は本日二度目の、満ち足りた気分を味わっていた。
「・・そう言えば名前、考えて来た」
しばらく経ってコットに乗った赤ん坊が部屋に戻って来ると、思い出したように天馬が呟く。
赤ん坊は別室で両親達に代わる代わる抱っこされて来たのだろう、心なしか疲れている様子で眉を下げて、相変わらずすやすやと眠っていた。
「ずっと迷ってて、ここへ来る途中の車の中で本当にパッと思いついたんだけど」
生まれる前も二人で何度もその話をしていたが、いまいちこれだ、という答えが見つけられないまま、誕生を迎えてしまっていた。人の名を考えるというのは本当に難しい。名前は両親からの最初のプレゼントだと言うし、この子の一生を左右するって考えてしまうと半端な名前はつけたく無かった。そう考えると、俺は両親から最高のプレゼントを貰ってたんだなって、今なら思える。
赤ん坊を見つめたまま、勿体ぶっているのか中々言葉を続けない天馬の脇腹を小突いて、早く言えと促す。気まずそうにチラとこちらを見ると、整った顔の、形のいい唇が、名を紡ぐ。
「そら」
夏の澄み渡った青空も、夕暮れの静かな赤い空も、星が煌めく夜空も
全てを包み込むような、大きくて、優しくて、そして美しい
「漢字は、空でも、昊でも、ひらがなでもカタカナでもいい。・・もちろん役者にはならなくてもいいんだけど、どんな色にも染まれるような子になってほしいなって。」
照れ臭そうに言う様子が愛しくて、目が反らせなかった。
この子が産まれた朝に見た青空。荒天の後の、静かな、ただ雲が足早に流れていく、夏の空。
「すめらぎ、そら」
「嫌か?嫌だったら、また二人で考えよ」
「ううん」
紫陽花色の瞳がゆらぐ。赤ん坊と、同じ色。
おれの次の、言葉を待って。
「すごい単純だって、思ったけど、凄くいいと思う。」
透明なコットの中の「そら」が微笑んだ気がして、俺もつられて笑顔になった。
窓の外を見ると夕焼け空が広がっていて、あぁ今日はいい天気だったなって幸せな気分になる。
ーーそれはとある、よく晴れた日のこと
皇天馬オフィシャルブログ
20××年7月8日
『ご報告』
今日は応援してくださる皆様に、大切なご報告をさせていただきます。
本日6時15分、第一子となる男の子が誕生しました。
母子ともに健康で、よく眠る可愛い赤ちゃんです。
仕事で出産に立ち会う事は出来ませんでしたが、先程会って、産まれて間もない小さな身体を、この手で抱きしめることが出来て、幸せを噛み締めています。
これからより一層、表現者としても、ひとりの父親としても、精進して参りますので、
皆様も変わらぬご声援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
最後に嫁さんへ
お疲れ様。俺を父親にしてくれて、本当にありがとう。
皇 天馬
.

コメントを残す