イノセントデイズ - 2/2

 

 

ーー『世界が美しい光に満ち溢れるような君の音楽を、愛していました。』ーー
白い無地の便箋に、たった一行だけ記された言葉は、この世で一番不器用な愛の告白だった。

 

 

彼のお墓は、海が見える高台の丘に位置していた。風がびゅうと吹くと一面の草がそよいで、あぁ、景色が一番綺麗に見える特等席だなぁって、美しいものを見つけると子どもみたいに笑う、あなたの笑顔を思い出したら僕もつられて笑顔になった。この時期はあまり晴れ間のない地域だと聞いていたけど今日は、珍しくいいお天気よ、なんて、途中で寄った露店の花屋のおかみさんが笑って言っていたっけ。その店で買ってきた真っ白なカサブランカの花束をつるりとした墓石の前に手向ける。日本から持ってきた、彼のお気に入りだったタバコも。彼は僕に内緒で吸ってたつもりだったろうけど、抱きしめると漂ってくる香りも、寝たふりをしてベッドからずっと見つめていた、ベランダでタバコを吸うあなたの横顔も大好きだった。

「……タバコなんて生まれて初めて買ったよ」
「僕?…吸う予定はないよ。全部あなたにあげるから持ってってね」
「そう。信じられないだろうけど、今は歌を歌う仕事をしているんだ」

肌寒い。けど、雲ひとつないいい天気だ。
僕はケースからヴァイオリンを取り出して、そっと肩に構える。奏でるのはあなたとの思い出の、僕の一番のお気に入りだった、パッサカリアだ。よく晴れた真っ青な空によく似合う、同じように力強い澄みきったメロディだったけど、この曲は一人では未完成で、あなたのいない左側から、チェロの重厚な音が聴こえてくる事はない。だからこそこの曲は演目からは外していて、もう二度と、弾くことは無いのだと思っていたけれど。あなたを前にしたら、別れの曲よりもアヴェ・マリアよりも、この曲が最も相応しいような気がして、勝手に手が動いてしまう。
流れる音も、柔らかく吹く風も、青い空も全てが美しいこの世界で、あなたのチェロの旋律だけが足りない。そうだ、それに嫌でも気付いてしまうから、パッサカリアを選曲に入れるのは避けた筈だったんだけどな。自分で自分の地雷を踏み抜いて、立ち直れないくらいの傷を負ってしまうなんて、愚かだとしか言いようがなかった。

僕の音楽は、あなたが言うような、美しい光なんかじゃなくて、ただ、欲望の捌け口がわからなかった不器用な子どもの、自慰行為みたいなものだったんだ。でもね、あなたがこの音楽を愛してくれたから、僕の音楽は光になれたんだよって、伝えたい。あなたはもういないのに。

目の前が、視覚が、ぼろぼろと剥がれ落ちていくみたいだった、頬や顎先を濡らす感触に、涙が、止まらないのだと気付いた頃にはもう、自分の足で立ってはいられないくらいだったけれど、身体が勝手に動いて、演奏は止まらなくて、僕は嗚咽を堪えながら音を奏で続ける。
おかしいな、あなたが亡くなってからずっと、泣くことなんてなかったのに。
10年分溜め込んだ哀しみは、きっと、僕の体内に貯蔵しておける分の水分量を遥かに超えていて、身体が枯れてしまうんじゃないかっていうくらいに次から次へと溢れ出てくる。
行き場をなくした涙は、ぼとぼとと虚しい音を立てて、足元の草むらに落ちていった。

 

ーー

どれくらいそうしていただろうか、8分間の演奏が終わってもなお、止まらない涙を流し続けて立ち尽くしていると、背後からパチパチと乾いた拍手が聞こえて、反射的に振り返ってしまう。

刹那、懐かしいアメジストが、青い空の下できらめく。

「ーーーっ、」
「…何でそうやってお前はさ、一人で泣くの?」

ふわりと風にのって、癖のあるスパイシーな香りが漂った。僕よりも少しだけ背が高くて、すらりとした体躯に黒の喪服を身に纏っている。手には僕の用意したものとそっくりな真っ白い花束を持っていて、それを抱いてあなたは、全部悟ったみたいな穏やかな笑みを浮かべていた。

「……孝明、なんで、」

何で君がここに居るの。当たり前の疑問は、けれど口を割って出てくる事はなくて、それよりも何よりも、数日離れていただけの彼の笑顔をこんなにも愛おしいと思ってしまう自分に、一番驚いていた。もっと会えない日々が続く事なんてざらにある、会いたいなんて、今この瞬間までこれっぽっちも思っていなかった筈なんだけど。涙でどろどろの頬に笑顔が浮かんでほっと胸を撫で下ろしたら、この土地に来てからずっと僕を支えていた一本の芯みたいなものがぽっきりと呆気なく折れて、そのまま、ゆっくりと地面へと崩れ落ちた。

「…翔?!」
「………あ、はは。ほっとしたら、腰が抜けた」

倒れこむのは、寸前で孝明に受け止めてもらったから避けられたけど、僕の代わりに綺麗な花束が地面に落ちて、何本かの花が犠牲となってしまった。けれどもそんなことは御構い無しに、孝明は僕のことを強く抱きしめてくるから、その肩口に額を埋める。

「……なんでここにいるの」
「海外ロケだって言っただろ?時間が空いたから墓参りでもって思ってスタッフさんに場所聞いて来たら、お前が居たの」
「DVD見てくれた?」
「見たよ、全部」
「……そう」

孝明に渡したDVDには、あの夏の終わりに、あの人と僕とで共演した一度きりのコンサートの映像が入っていた。撮影された映像は、編集してドキュメント番組で放送されたものらしいけど、僕が貰ったDVDには、楽屋裏のメイキングなども入っていて、彼と親しげに話しているシーンなどもばっちり撮られていたはず。別に見られて困るようなものでもないし、と置いてきたのだけれど、孝明は、少しだけ言いにくそうに、ぽつりと呟く。

「………なぁ、そんなに似てる?」

そう言って、抱きしめていた腕を緩めて離れていこうとしたから、僕は腰に回した腕に力を込めて、それを制する。体はぴったりとくっ付いた状態で、顔だけで僕を見下ろした孝明は、苦笑を浮かべながら、涙の残る目尻にキスを落とした。

「最初に話をもらった時も、監督から『君しか考えられなかった』って言われたし、撮影中も、所縁のある人みんなに『よく似てる』って言われまくっちゃってさ。一度も会ったことの無い人なのに、自分の知らない自分がもう一人いるみたいで、頭おかしくなりそう」

深刻そうな言い方では無かったけれど、きっと本当に参ってしまっているのであろう。いつもはこんな顔見せないのに、情けない声色を伴って、珍しく孝明が弱音をこぼす。
僕を見下ろすその顔を、改めてまじまじと見つめながら、考えてみる。
よく整った上品な容姿も、優しい笑い方も、側にいるとほっとするような包容力も、あの人によく似ていて、最初は僕も、それが好ましいなって思ってはいたけど、でも。

今はもう、あの人だ、とは、不思議と思わなくなった。

「……全然違うよ、」
「そう?」
「全然違う」

孝明の腕の中は、収まりがいい。ぴったりと隙間が無いくらいに抱きしめられて、そんなことを思う。尤もそれは、僕も背が伸びて、あの頃よりも一回り大きくなったからなのかもしれなかったけど。
わざわざ違うところなんて探さなくても、今の僕は、もう、この腕の中が居場所なのだと思えるくらいには、僕の中の彼の存在はこんなにも大きくなっていた。

「……チェロもちょっと弾けるようになったよ、現場に置いて来たけど」
「パッサカリア?」
「まさか。初心者向けのカノンで精一杯だって」
「ふふ…頑張ってるんだね。帰ったら合わせてみようか」
「お手柔らかにな」

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